四十八

 巨大な紅い梟が、突然消えた。降り続いていた血の雨が、止んだ。

 梟の血を浴びて真っ赤に染まり、巨大な曲刀を両手で握ってスラバキア兵士たちの指揮を執っていたヒルディアは、その場に立ち尽くし、空を見上げた。みるみるうちに天を覆っていた厚い雲が晴れ、青空が覗いた。

 近衛兵に守られて、辛うじて紅い梟の嘴を避けていたヒルディアであったが、王都に侵攻していたスラバキア兵士のほとんどがその餌食となっていた。生き残っている兵士も重傷を負っており、無傷の兵士は少ない。ここまで来て諦めるのは無念だが、今は撤退せざるを得ない。

 ヒルディアは、王城の兵士たちが混乱しているうちに、撤退の下知を出そうとした。

 とその時、凄まじい剣圧をまともに受けて、思わずヒルディアは後ろに蹌踉めいた。辛うじて、持っていた曲刀でその一撃を防いだ。

 薄白鉄の鎧にファールデン王家の紋章を染め抜いたサーコートを着た赤毛の女が、ヒルディアに向かって斬撃を加えたのだ。

 バスタードソードと呼ばれる大剣を両手で握ったナスターリアは、ヒルディアが蹌踉めいた隙を逃さなかった。振り切った勢いで剣を引き、そのままヒルディアの腹部に向かって突きを見舞う。辺境の砦で、同僚だったオグラン・ケンガから伝授された大剣の大技だ。

 斬撃、刺突攻撃のどちらにも向いているこの剣を、ナスターリアは自在に操った。目にもとまらぬ連撃がヒルディアを襲った。

 姿勢を崩していたヒルディアは押された。曲剣を盾にして、激しい剣戟を防ぐので精一杯である。

 ナスターリアが裂帛の気合いと共に振り下ろした剣を、ヒルディアは曲刀の鍔で受けた。不十分だった。受けきれない。そのまま、ヒルディアは尻を地面についた。

 ナスターリアは再び剣を振り上げ、更に一歩踏み込んでヒルディアの頭に振り下ろした。赤い髪が、炎が燃え盛るように見えた。曲刀が弾かれて、ヒルディアの手元から離れ、飛んだ。

「オグラン!」

 ナスターリアは思わず、心の中でオグラン・ケンガの名を叫んだ。

 しかし、ナスターリアの次の渾身の一撃は、ヒルディアに届かなかった。女王の危機を察知して駆け付けた近衛兵が放った斬馬刀の一撃が、ナスターリアの剣戟を阻んだ。平静を取り戻したスラバキア兵たちが、ヒルディアの傍に駆け寄ってきた。

 ナスターリアは唇を噛んだ。あと、あと一太刀!

「ナスターリア、そこまでだ。退け!」

 ナスターリアは辺りに響き渡るその声に、後ろを振り返った。

 体格の良いアブダル種の黒馬に跨がったエルサスが王家の鎧を纏い、ファールデン王国兵数千騎を従えて街城壁の広場に進軍してきていた。

 それを見たスラバキアの近衛兵たちは、ヒルディアを盾で庇う隊形を取って守り、そのまま外城壁の方へ退却していった。生き残ったスラバキア兵たちが、その前に更に集結して人の盾となり、みるみるうちにヒルディアを覆い隠す密集隊形となって引き上げていく。

 エルサスは剣を大きく回して下知し、鳥の翼のように隊列を横に広げた。ファールデン王国兵は、スラバキア兵たちを包み込みながら、しかし、深追いをしないよう適度な距離を維持しつつ、馬速を意識してその後を追った。

 崩れた外城壁からスラバキア兵たちを押し出すように、エルサスは隊列を進めていった。

 外城壁でバルバッソとフォーレンの部隊がエルサスの隊列に合流した。バルバッソとフォーレンの部隊は魔物の降臨の際に外城壁内に避難していたため、その被害は最小限に抑えられていた。一方、外城壁の内と外側には、魔物に蹂躙されたスラバキア兵の屍体が散乱しており、死骸の山河の様相を呈していた。スラバキアが受けた損害は計り知れない。

 スラバキア兵たちは外城壁で隊列を整え始めたエルサスたちに対して、反撃をしなかった。外城壁から安全と思われる距離まで離れると、そのまま密集隊形を崩さず、生き残った残兵を回収しつつ、粛々と引き潮のように王都から撤退していった。

「我々も多くの犠牲者を出した。国を建て直すにはかなりの時間を要するだろう。だが、スラバキアもまたすぐに侵攻してくることは出来まい」

 エルサスが地平線に消えていくスラバキア兵を見遣りながら呟いた。ナスターリアは凜々しく騎乗したエルサスのその横顔を眩しげに仰いだ。

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