四十七

 蒼い天秤に光の矢が交わった正義と公正を意匠する紋章が描かれた聖堂騎士の盾が、剣を受け止めた。神剣と盾が激しくぶつかり合い、白い火花が散った。

 神殿に駆け込んできたマリウスがミレーアと女騎士の間に入り、膝を立てて盾で剣戟を防いだのだ。

「マリウス様!」

 ミレーアはマリウスの背にしがみついた。

 マリウスは、王都での夜、ミレーアが発した「不吉な予感がする」という言葉がどうしても頭から離れず、ナスターリアとバルバッソに話をつけた上で単身王都を発ち、ドルキンたちの後を追っていたのだ。

 マリウスは左手の盾で女騎士たちを牽制しながら、ミレーアを庇い、アナスタシアの姿をしたフォーラ神の呪詛によって、膝を屈したまま動けなくなっているドルキンに向かって叫んだ。

「ドルキン様、しっかりしてください。お気を確かに! それはもはや、我々の知るアナスタシア様ではありません。どうか、どうか、立ち上がってください!」

 再び、二体の女騎士が、マリウスとミレーアに向かって剣を振りかざして襲いかかった。

 マリウスは、立ち上がることが出来ないドルキンを取りあえずそのままにし、右手の剣を大きく伸ばして憤怒の女騎士がミレーアに放った一撃をかろうじて弾いた。そのままミレーアを自分の背に回して盾を左手に、剣を右手に構える。

 憎悪の女騎士の鋭い、容赦のない剣戟がマリウスを襲った。左右の手に握られた二本の神剣が交互に、正確にマリウスに向かって振り下ろされる。一撃一撃が重く、速い。

 舞うように繰り出される剣圧に耐え切れずに、マリウスの構えた盾が真っ二つに割れた。

 マリウスは盾を捨て、剣を両手で握り、上段に構えた。次々と振り下ろされる女騎士たちの剣を巧みに受けたが、背後にいるミレーアを守りながら剣を振るうのには限界がある。

 二体の女騎士の剣戟を剣で受けるのが精一杯で、攻撃に移ることが出来ないマリウスは、次第に壁際に追いつめられていった。

 憎悪の女騎士の上段からの攻撃を剣で撥ね上げ、辛うじて躱す。しかし、同時に放たれた憤怒の女騎士の中段への突きを捌くことが出来なかった。

 憤怒の女騎士が放った神剣は、身を捩るようにしてこれを避けようとするマリウスの右腕の付け根に吸い込まれた。剣先はあばら骨の間を縫って、肺まで達した。マリウスの口から泡が交じった鮮やかな血が溢れる。

「マリウス様!」

 ミレーアの悲痛な叫び声が上がった。

 マリウスはそれでもミレーアを庇い、左手に剣を持ち替えて立ち上がった。そのマリウスを四本の神剣が襲った。

 同時に突かれてきた二本の剣は、かろうじて剣で受けて弾いた。しかし、もう一本がマリウスの頚元を、別の一本は左の脇腹を貫いた。

 マリウスの表情が痛みに歪んだ。二体の女騎士が剣をマリウスから抜いた。血が白い床に迸り、マリウスは剣を持ったままゆっくりと膝を突き、俯せに倒れた。

 ミレーアがマリウスに縋り付き、激しくその身体を揺らした。

「マリウス様! マリウス様!」

 そして涙と、マリウスの血で汚れた顔をドルキンの方に向け、絶叫した。

「ドルキン様ぁ!」

 ドルキンは歯を食いしばって呪詛から逃れようとした。呪詛は魔法ではない。人の心の弱きところに潜み、それを食い荒らす。意思の力を持って呪詛から逃れることは出来るはずだ。

 ドルキンの表情が変わった。灰色の顔色に朱が差し、こめかみの血管がはち切れんばかりに膨らんだ。眼球の血管が切れ、瞳の周りに血の花がいくつも広がった。

 声にならない裂帛の気合いと共に、ドルキンは呪詛から脱した。

 足元に落ちていた祭壇の上にあった神剣を拾い、倒れ伏したマリウスに駆け寄った。

「マリウス!」

 マリウスはドルキンの声に反応して微かに頭を上げた。ドルキンの顔を見ようと頭を動かすが、身体がいうことをきかない。辛うじて動く左手を挙げてマリウスは、ドルキンの手をなんとか握ったが、その力は弱々しい。ドルキンはマリウスの手を強く握り返した。

 マリウスはなんとか頭を動かし、ミレーアを見て微笑んだ。しかし、その瞳からは、次第に光が消えていった。マリウスの右の眼から、涙が一筋頬を伝って落ちた。

 ミレーアは狂ったように泣き叫びながら神の祝福を唱えようとした。しかし、詠唱が出来ない。フォーラ神によって詠唱が無効にされているのだ。しかしそれでも、ミレーアは必死に祝福を唱え続けた。マリウスの身体を強く抱き寄せ、ミレーアの白いローブと修道服がマリウスの血で真っ赤に染まった。

 ドルキンは歯を食いしばって立ち上がり、女騎士とフォーラ神に向かって神剣を構えた。さして動いていないのに、肩で呼吸をしている。剣が重い。今まで持ったどのような武器よりも重かった。

 ドルキンの目は霞み、吹き出してくる汗は止めようもない。

 ドルキンは、左右それぞれに持った剣を真上から同時に斬り落としてくる憤怒の女騎士の斬撃を後ろにステップして避け、剣を振り下ろして下段に揃った女騎士の両腕に向かって剣を叩きつけた。しかし、ドルキンの剣は女騎士の腕を素通りし、床にあたって火花が散った。女騎士に実体がないかのように剣が当たらない。

 背後に憎悪の女騎士の気配を感じていたドルキンは更に右後ろに跳び、左眼の隅でその姿を捉えた。中段に鋭く放たれた女騎士の右の突きを両手で握った剣で弾き、その勢いで女騎士の左脇腹に向かって剣を返し、斬り込んだ。だが、またもや剣が当たらない。この神剣は双子の女騎士やフォーラ神に有効ではないのか?

 ドルキンは自らの呼吸をコントロールすることが出来ず、喉元から上がってくる動悸を押さえることが出来なくなっていた。

 その時、ドルキンはミレーアがこの寺院に入る時に呟いていた古いフォーラ神殿に伝わる言葉を、唐突に思い出した。

「二神は一神の虚、一神は二神の実なり」

 神殿に現出したアナスタシアと女騎士はフォーラ神の化身であろう。「二神は一神の虚」とは、すなわち、双子の女騎士はフォーラ神の実体ではないことを意味するのではないか。そして、「一神は二神の実なり」、すなわち、双子の女騎士の実体はアナスタシアに他ならないのではないか。

 ドルキンは理解した。憎悪と憤怒の面を持つ女騎士は、実体を持たないフォーラ神の影に過ぎなく、アナスタシアの姿をしたフォーラ神こそが実体を持つのだ。

 ドルキンは両手で神剣を握り、中段に構えた。憎悪と憤怒の双子の女騎士を牽制しながら、じりじりとアナスタシアの姿をしたフォーラ神に近づいていく。

 しかし、ドルキンは、どうしてもアナスタシアに対して斬り込むことが出来ない。アナスタシアはつぶらな瞳でドルキンを見つめているだけだ。あの白樺の林で初めて出会ったあの時のままの、無垢な姿でいるアナスタシアに剣を振るうことが出来ない。

 背後で、ミレーアが必死にマリウスの名を呼び、祝福を唱える声が聞こえた。

 ドルキンは歯を食い縛り、目を瞑った。手が震え、そのまま座り込みそうになるのを必死に堪えて、ドルキンは憎悪と憤怒の女騎士たちが放った四つの剣が交錯する合間を縫い、ついにアナスタシアに向かって身体ごと剣をぶつけていった。

 ドルキンの神剣が、アナスタシアの胸を深々と刺し貫いた。ドルキンの目とアナスタシアの目が合った。痛みでも苦痛でもない、アナスタシアのその目に浮かぶ表情を、ドルキンはかつて見たことがあった。

 あれはアナスタシアが行方をくらます前の年の、ファルマール神殿におけるフォーラ神聖誕祭の夜のことであったろうか。

 ドルキンとアナスタシアは毎年、ファルマール神殿近くの修道院で密会していた。お互いのことを報告し合い、剣の腕を確かめ合った。ドルキンは自分が神殿騎士であり、またアナスタシアは自分が修道女であることを頑なに守り、お互いに触れ合うことはなかった。

 しかし、この夜、修道院に現れたアナスタシアは、いつもと様子が違った。口数も少なく、剣を取って手合わせをしようともしなかった。アナスタシアはただドルキンの横に座り、満天の星空を見上げていた。ドルキンもいつもと勝手が違い戸惑い、同じようにただ星を見るばかりであった。

 朝を告げる鶏の声がし、淡い陽の光が夜の闇を薄墨のように刷いていく空気の中で、アナスタシアはドルキンの手を取り、それを自分の胸に押し当てたのだった。温かく柔らかいその感触に驚いたドルキンは、思わずアナスタシアの手を払ってしまった。ドルキンはどうしてよいのか分からなかった。

 再びドルキンの手を握ったアナスタシアは、今度はドルキンの手を自分の腹部にいざなった。ドルキンは今度はアナスタシアの手を払わなかった。アナスタシアが眼を瞑ってじっとドルキンの手を自分の身体に、大事なものを慈しむかのように触れさせているのを邪魔することが出来なかった。

 清浄な朝の空気の中で、ドルキンはしばらくそのまま、アナスタシアがなすがままに任せた。

 アナスタシアがドルキンの手を離し、瞑っていた眼を開いたとき、その瞳には昨年までのアナスタシアにはなかった光が、歓びとも哀しみともつかぬ複雑な色が、宿っていた。

 それと同じ光が、色が、今、ドルキンの剣に貫かれたアナスタシアの瞳の中に浮かんでいた。

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