四十六
祭壇の崩壊は、階段の三分の一ほどまで及んだようだ。瓦礫が階段を埋め、もはや祭壇に戻ることは出来ない。
ドルキンは念のために、階段の埋まった部分から更に上へと駆け上がり、崩壊の影響がなさそうなところで足を止めた。壁に火の消えた松明が指してある場所にミレーアとカミラを下ろし、腰のベルトに結わえてある革袋から取り出した火打ち石で松明に火を点ける。しゃがみ込んで二人の心音を探った。どうやら気を失っているだけのようだ。
キースが、呪文を唱え始めた。森の静者であるキースによる「大地の恵みの力」は、生きているものの本来の力を呼び起こして自己再生を促すらしい。キースの手から、きらきらとした光の塵のようなものが降り注ぎ、ミレーアとカミラを包んだ。
「ああ! ドルキン様!」
息を吹き返したミレーアが、顔色を蒼白にして声を上げた。
「エレノア様が! エレノア様が!」
「うむ。分かっている……私たちはアナスタシアに踊らされていたのだ。いや、あれはもう、私の知っているアナスタシアではないが……」
ドルキンの顔色は、この短時間のうちに絶望と憔悴で灰色になっていた。
「私たちがフィオナから受けたと思っていた神の宣託は、アナスタシアの罠だった。あれはフィオナではなく、アナスタシアだ。荒ぶるフォーラ神を復活させるための生け贄として、エレノアをこの地まで無事に連れてくるために、彼女は私たちを利用したのだ。禁忌の破戒によって魔物が現出し、それを斃してチェット・プラハールで身世篭もりをしなければこの世が滅ぶと言えば、私が万難を排してここに来ることを見通していたのだろう」
ドルキンは独り言のように呟いた。眉間の皺が、その苦悶の深さを示していた。
「そして私はアナスタシアの筋書き通りに動き、最後の魔物が解き放たれ、荒ぶるフォーラ神が復活してしまった……」
「ドルキン様……」
ドルキンとミレーアは肩を落として、その場に立ち尽くした。
「まだじゃ。まだ分からぬ」
カミラが言った。ドルキンとミレーアはカミラを見た。
「あの邪神はまだ真の復活を遂げておらぬ。だが、残された時間は少ない」
「でも、どうすれば……」
ミレーアが言った。
「邪神復活のためには柱が二つ必要なのじゃ。一つは魔物の贄のために、もう一つは己が実体を持つための柱じゃ」
「ということは……」
「うむ、エレノアは魔物の贄だ。おそらく、アナスタシア自身が邪神の柱となるつもりなのだろう」
「でも、アナスタシア様……はどこに?」
ミレーアがアナスタシアをどう呼ぶか、一瞬迷ってから言った。
「分からない。まさか瓦礫の下に埋もれたとも思えない。いずれにしても、ここにいてもしょうがない。とにかく、地上に戻ろう」
ドルキンたちは、長い石の階段を再び登り始めた。
階段を登り詰めて地上に出ると、入り口の扉は破壊されており、叩き付けるような吹雪がドルキンたちを包んだ。
フードを被り、雪と風を避けようとしたドルキンは、目の前に広がる光景に瞠目した。
巨大な梟によって、古い寺院の地上部分を覆っていた外郭が破壊され、その下に隠されていた白亜の神殿が現出していた。
ドルキンたちは吹雪を避け、その神殿に足を踏み入れた。建築の様式はかなり古いが、大規模で壮麗な造りをしており、先ほど目にした古代神殿とは比べものにならない。
背の高い巨大な円柱が何本も屹立し、神殿の天井を支えている。長方形をした中央の広大な広間を、いくつものフォーラ神の彫像が囲んでいるのが見えた。
ドルキンたちは、天を仰ぎながら広間に降りてきた。
「これは、いったい?」
「これが本来のこの神殿の姿よ。アーメインはこの祭壇で神の啓示を受けた」
神殿の奥から響く声に、ドルキンたちは振り返った。
神殿の一番奥まった場所、正面に設けられた祭壇の前に、一人の女の姿が現れた。
純白の修道服を着たアナスタシアだった。老婆の姿ではなく、腰まである漆黒の髪、雪のように白い肌とドルキンを見つめる深い闇夜のような瞳は、ドルキンの記憶の中にあった若き頃のアナスタシアそのままであった。
「……アナスタシアなのか?」
ドルキンは訊いた。
「ドルキン様。今日この日まで、ずいぶん長くお待ちいたしました」
アナスタシアはドルキンに近づき、微笑んだ。ドルキンは金縛りに遭ったように動くことが出来ない。強打した頭が急に痛み始めた。激しい目眩を覚えたドルキンは惑乱し、思わず膝をついた。
「ドルキン様!」
二、三歩、後退りしていたミレーアが、鋭く叫んだ。
「それは、アナスタシア様ではありません!」
ドルキン以外の人間の眼には、その女はアナスタシアに見えていなかった。身に着けている修道服は血糊に染まって深紅と化し、フードを被ったその顔は能面のように無表情で、眼から血の涙が流れている。
荒ぶるフォーラ神の呪詛に取り込まれたドルキンは、もはや動くことが出来なかった。
女は、両手で呪詛の印を結んだ。その姿が黒い靄に包まれた。周りの光を吸い込むのか、女の周囲が歪んで見える。
次の瞬間、女を包む靄から生まれ出るように、相似形の、女騎士の姿が二つ現れた。
いずれも梟の装飾が施された白金の聖戦鎧を身に着けている。聖戦鎧にはどす黒い古い血糊が何重にもこびりついていた。鎧の隙間から赤黒い影のようなものが滲み出し、全身を覆うように漂っている。
双子のように同じに見えるその姿だが、よく見ると兜と一体になっている面の表情が異なっていた。片方の女騎士の面は憤怒に歪んでいる。凄まじい形相で睨め付けるその眼は大きく見開かれ、口も耳まで裂けている。
もう一方の女騎士は、憎悪の表情をした面を被っている。細く閉じられた眼のまなじりは大きく跳ね上がり、食い縛った口元は歯をむき出している。
ミレーアは、この二つの面に見覚えがあった。教皇庁の書庫に収められていた古代フォーラ信仰の古文書に描かれていた荒ぶるフォーラ神の像である。荒ぶるフォーラ神は、必ず一つの身体に憤怒と憎悪の二つの頭部を持ち、血に塗れた二刀流の剣を遣う戦いの女神として描かれるのだ。
二体の女騎士がそれぞれ二刀流の構えで剣を持ち、ミレーアを襲った。この女騎士たちはフォーラ神の化身なのだろうか。その剣は、ドルキンが地下祭殿で見つけた神剣と同じものに見えた。
白狼に姿を変じていたキースが、ミレーアに向かって剣を振るったその「憤怒」の女騎士に飛びかかった。
女騎士はこともなげにその攻撃を避けると、剣でキースを薙ぎ払った。キースは横腹に剣を受け、神殿の壁際まで吹き飛んだ。胸から腹にかけて焼き鏝を押して引き裂いたかのような焦げた裂傷ができ、そこからはらわたが覗いた。
動かなくなったキースに、カミラが駆け寄った。カミラは背負っていた樫の杖を両手で握り、呪文を詠唱しようとしたが、既にその背後には「憎悪」の女騎士が迫っていた。カミラの背中は神剣で貫かれ、剣の切っ先が腹部まで突き通った。カミラの手から杖が落ち、濃い碧のローブが紅く色を変えていった。カミラはキースの上に重なるように倒れた。
女騎士たちの持つ神剣が再びミレーアに向かって振り下ろされた。ミレーアは憤怒の女騎士の攻撃を、身体を捩じって避けたが、足がもつれてその場に倒れた。倒れながらも神の祝福を唱えようと右手で印を結ぼうとした。しかし、その前に憎悪の女騎士の剣がミレーアの左肩を貫いた。フードが外れ、白いローブとプラチナブロンドの髪に血飛沫が舞った。
ミレーアは右手で肩を押さえ、痛みを堪えて座ったまま後ろに後退った。そこに最初に剣を振った憤怒の女騎士が迫った。再び剣を振り上げる。避けられない。ミレーアは目を瞑った。
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