四十五
教皇庁。身世代に対する授印の儀、前々夜。
その老婆は、脚を引きずりながら天鵞絨の幕を捲って教皇の居室に入ってきた。
楡の老木を切り出して作った広い年代物の机で、神の啓示を受けた身世代に対する印綬を彫り込んでいた教皇フィオナは、手を止め、その修道女に声を掛けた。
「サドナ、このような時間までご苦労さま。どうしたのです、何かあったのですか?」
サドナはフィオナの問いに答えず、その場に立ち尽くしている。
「明後日は当代身世代に対する授印の儀が執り行われます。明日もその準備で忙殺されるはず。早めに休んでおかないともちませんよ、まる二日寝ずの儀式ですからね」
フィオナはサドナの身体を慮って優しく諭した。
「……授印の儀は、行えないわ」
「えっ?」
フィオナは耳を疑った。いつもの擦れた甲高い声とは違う柔らかな声が響いたからだ。
「『身世篭もり』は毀損された」
「一体、何を言っているの……サドナ……あなたは……」
サドナは静かにフードを取った。フィオナはサドナが人前でフードを取るのを初めて見た。若いときに病気で相貌が醜く崩れているという話だったので、フィオナは他の司祭が礼を失するとしてそれを見咎めたときも特に問題とせず、フードを被ったままでいることを許していた。
顔が醜く崩れているのは確かだったが、それは病気のせいではなかった。
醜く焼けただれ、崩れたその相貌の右目は失われ、左目だけが潰れかかった瞼の奥から辛うじてフィオナを見つめていた。
「もう、私のことは忘れてしまったかしら、フィオナ」
明らかにいつものサドナの声ではない。フィオナはその声に聞き覚えがあった。随分昔から知っているけれど、もう長く何年も聞いていないその声……。
「……まさか……そんな……アナスタシア?」
フィオナは椅子から立ち上がった。椅子が勢いで横倒しになった。
蹌踉めくようにしてサドナに近付いていったフィオナの額には玉の汗が浮かび、顔色は蒼白に転じていた。サドナに伸ばした手が、微かに震えている。
「長かったわ。もう四十年になるのね。私たちがフォーラ神の啓示を受けてから」
サドナ、いや、アナスタシアは、フィオナが差し出した手を静かに払った。
「何故? 何故、いままで黙って……」
フィオナはアナスタシアに言った。信じられなかった。四十年前、フィオナと共に神の啓示を受けたアナスタシアはその数日後から失踪したままなのだ。もう誰もがその死を疑っていなかった。しかし、その彼女が、突然、今、姿を現した。
「……心配していたのよ……ずっと……てっきり、もう……」
フィオナは震える声で言った。
「そうかしら? 私がいなくなって本当は嬉しかったのでしょう。カルドールと示し合わせて望み通り教皇になれたのですものね」
アナスタシアは唇を歪めた。
「違う、違うわ! 私は決して、そのような!」
フィオナは激しく首を振った。かつては淡いブロンドであった銀色の髪が大きく揺れた。ショックのあまり呼吸が困難になる。その場に膝を折って座り込んだ。
アナスタシアは腰紐を解いてローブの前を開き、その姿をフィオナに晒した。その姿を見上げたフィオナは思わず顔を背けた。
乳房は二つとも抉られ、腹部には下腹部までに至る引き攣れた醜い火傷の跡があった。腰は砕かれ曲がり、脚は右足が膝の先から無くなって木製の義足で継ぎ足されている。明らかに、苛烈な拷問の跡であった。
「ひどい……」
アナスタシアのむごい傷跡を見て、フィオナは彼女に何があったのかを全て理解した。カルドールとは、そういう男だった。異常者なのだ。そんな男に夢中になった若かりし頃の自分を、彼女は恥じ、悔いていた。
フィオナは床に手を突いて、顔を伏せた。床に大粒の涙が零れた。
「私は、荒ぶるフォーラの女神を復活させるわ」
アナスタシアはローブを元に戻しながら、燃え盛る暖炉の炎を見つめて言った。
「いけない! そんなことをしたら……この国が、いえ、この大陸が滅び去ってしまうわ! 今のファールデン国王に魔物を封じる力はもう、ないの!」
フィオナは顔を上げ、アナスタシアのローブの裾を掴んだ。
「偽りの神を崇める教皇庁や王国も、滅んでしまうべきなのよ」
アナスタシアは不気味なほど静かな声で言った。
「既に『身世篭もり』は毀損された。アムラク神殿の禁忌は破られたわ。身世代には荒ぶるフォーラの刻印を打ち込んだ」
「なんて……なんてことを……」
「私が、私の娘に何をしようと、あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「あなたの娘ですって……?」
「当代身世代、エレノア。この子は私とカルドールの娘よ。アルバキーナ城の牢獄で私はカルドールに犯され、エレノアを身籠もった。でもスロバキアの呪術師は私に出産を許さなかった。私を荒ぶるフォーラ神の巫女にするためにね。彼女は神の呪詛で胎児を辺境の貴族の娘の胎内に転生させた」
アナスタシアの後ろから、アムラク神殿にいるはずのエレノアが姿を現した。少女の頃のアナスタシアに生き写しだ。違うのは、瞳の奥にカルドールと同じ狂気が潜んでいることだった。
エレノアが、にっと笑った。その笑顔は、カルドールがサディスティックな愉しみに酔い痴れているときに見せる、あの邪悪な笑顔そのものだった。
フィオナの顔が恐怖に凍り付いた。
その時、フィオナの後ろに人影が差した。振り返ろうとしたフィオナの鳩尾に、いつの間にか姿を現していたダルシア・ハーメルの拳がめり込んだ。
ダルシアはフィオナの身体を軽々と抱え、彼女の寝室に運んだ。寝台の上に仰向けに寝かせる。
アナスタシアは、フィオナの手足と首に呪詛を施した細い紐を結び、寝台の天蓋を支える柱に括り付けた。
「明日、円卓の騎士団長である『あの人』を召喚するよう、あなたの名前で手配しておいたわ。エレノアがいなければ荒ぶるフォーラ神は復活出来ない。彼にエレノアを守り、チェット・プラハールまで連れて行ってもらう」
意識を失っているフィオナに語りかけたアナスタシアは、エレノアをフィオナの傍らに残し、ダルシアと共に寝室を出た。錠をかける。
「あの娘と教皇を一緒にしておいてよろしいのですか?」
ダルシアが少し眉間に皺を寄せて訊いた。
「あの部屋には私しか出入り出来ない。いいのよ、あの子にも愉しみを残しておいてあげないとね」
ダルシアでさえ、ぞくりとする凄まじい笑顔でアナスタシアは答えた。
アナスタシアは全てをドルキンに語った。そして、あの日、ドルキンを召喚したのがフィオナではなく、自分であることを告白したのだった。
「あれは、あれはフィオナではなく、君だったのか?」
ドルキンは絞り出すような声で言った。いま、はじめてあの時感じた違和感の理由が分かった。分厚い外出用の正装を身に着けていたのも、敢えて自分を遠ざけて宣託を下したのも、それがフィオナではなくアナスタシアであることを悟られないためのものだったのだ。
アナスタシアは頷いた。
「それでは、フィオナは?」
「エレノアが、始末してくれたわ」
アナスタシアの前に立っているエレノアが、にやりと笑った。それは、少女の頃のアナスタシアのものとはほど遠い、美しく整ってはいるが明らかに狂気に支配された笑顔だった。
ドルキンは惑乱し、打ちのめされていた。
今までフォーラ神とその教義を護ることに命を懸け、全てを神に捧げてきた。もちろんそれは見返りを求めてのものではなかった。しかし、その心の奥底には、アナスタシアの失踪による喪失感を埋めたい、そして会えぬならばせめて彼女が幸せであって欲しいという渇望にも似た想いが潜んでいたことは否定出来ない。しかし、その神が、アナスタシアにこれほど過酷な運命を課するとは。 そしてアナスタシアは、もう自分がかつて愛したアナスタシアではなくなってしまったのか……。
ドルキンは、自分が信じて求めてきたものに裏切られ、最悪の結果をもって目の前に提示されたことに絶望した。自分の人生とは、いったいなんだったのか。全てが虚しく思われた。自分が今まで築き上げたものが崩壊する音を、ドルキンは聞いた。
「私は、この国に真のフォーラ神を復活させるために帰ってきた。もうすぐ、フォーラ神のもう一つの神格が復活する。ようやく、真のフォーラ神による統治が再びこの大陸に施されるのよ」
アナスタシアはフォーラの呪詛の印を両手で結んだ。アナスタシアの両手が陽炎のように揺らいだ。印を解き、掌を上に向けて腕をエレノアの肩から前に突き出すと、アナスタシアの掌から黒い影のような炎が立ち上った。
アナスタシアは炎に包まれた両手をエレノアの肩に置いた。炎が生き物のように拡がって、エレノアの全身に燃え移った。あっという間にエレノアが真っ黒な炎に包まれる。エレノアが化鳥のような叫び声を上げた。
みるみるうちにエレノアの着ている白い修道服が燃え上がる。白い肌を黒い炎が覆い、肉が焦がされ始めた。
ドルキンは祭壇に駆け寄りかけたが、炎が激し過ぎて近寄ることが出来ない。右手に神剣を握ったまま、顔を腕で覆って焼け付くような炎を避けるので精一杯だ。
既にエレノアの全身は真っ赤に焼け爛れている。炭のように硬直した両手を横に伸ばし、祭壇の上で薪のように燃え盛って業火に包まれている様は、あたかも生きながら火刑にされた罪人のようでもあった。
エレノアが真っ赤に焼けた肉塊と化すると、アナスタシアは再び呪詛の印を結んだ。エレノアを焼き尽くす炎が再び大きくなり、その炎の中から巨大な紅い梟が現れた。羽毛を持たず、真っ赤に焼け爛れた皮膚に覆われ、全身から流れ続ける自らの血で、赤く染まった梟だ。
紅い梟は大きく羽ばたいた。
祭殿が大きく揺れ、天井を支える巨大な石造りの巨像が次々と倒れ始めた。天井が崩れ始める。ドルキンは梟が発した烈風に吹き飛ばされて祭殿の壁に激しく叩きつけられた。
轟音と共に祭殿の天井が崩壊し、岩や土砂が次々と落下してくる。
ドルキンは全身の痛みに耐えながら立ち上がった。祭壇の近くに倒れているミレーアを左腕に、カミラを右腕で抱え上げると、押し潰され砕けた石扉に向かって走った。扉の向こうに人の姿に変じたキースの顔が見えた。
ドルキンが階段を駆け上がると同時に祭殿が完全に崩壊し、瓦礫に埋まった。階段も祭殿崩壊の余波を受けて次々と崩れていった。
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