四十四
ユースリア大陸の最高峰、チェット・プラハールは、サンルイーズ山脈を越え、さらに北に深く踏み入った大陸の最奥にあった。一年を通して吹雪に覆われているその雪山に、フォーラ神の啓示を最初に受けた乙女である神の子(フィロ・ディオ)アーメインの出生地たる古い寺院はあった。
ドルキンは、銀革の鎧の上に羽毛を詰めた短い胴着と黒羆の毛皮を鞣したローブを着込み、横殴りの風と、叩きつけるように降り続ける雪で前がほとんど見えない山道を、一歩一歩踏みしめながら歩いていた。背中に各地の聖堂神殿で入手した武具を収めた革の袋を担いでいる。
そのドルキンの広い背中で雪や風を除けるように、後ろをぴったりとくっついて白貂のローブとフードで身を固めたエレノアとミレーアが続いていた。カミラとキースは銀色のリンクスと白狼の姿でドルキンたちの後についてきている筈だ。吹雪の山道では、むしろその姿の方が彼らにとって都合が良い。今は、辺り一面の真っ白な吹雪のため、彼らの姿を目視することは出来なかった。
不意に、リンクスの姿をしたカミラがドルキンの目の前に姿を現した。つぶらな緑の瞳がついてこいと言っているようだ。尖った耳がせわしなく動いている。ドルキンはカミラの銀色の背中を見失わないように足を速めた。ミレーアたちもそれに続いた。
全く前が見えないほど強まってきた吹雪の中で、カミラの姿を追うあまり、足元ばかりを見ていたドルキンだったが、ミレーアからローブを引っ張られて顔を上げた。
眼前に、遺跡のような古い石造りの寺院が、吹雪の中でむしろ静かに佇立していた。フィオナの宣託にあったユースリア大陸に点在する七つの聖堂神殿のうち、最後の目的地であるチェット・プラハールの古代聖堂神殿であった。
カミラの案内で寺院の入り口に辿り着いたドルキンは、その分厚い石の扉を調べてみた。石の扉は横に長い直方体で、垂直ではなく斜めに取り付けられていた。扉が開くと、恐らく地下に入っていくことになるのだろう。大きな引き戸にも見えたが、把手はなく、押してみてもびくともしない。
しばらくその石の扉を検めていたドルキンだったが、おもむろに雪と氷に覆われた扉の表面を掌で触った。そして、背中の大斧を抜いて両手で持ち、その扉の表面を叩いた。
扉を覆っていた雪と氷が地面に落ち、本来の扉の表面が現れた。丸い七つの石が組み合わさって何か文字のようなものを形作っている。古代フォーラ神の言葉のようだが、ドルキンにそれを読み解くことは出来なかった。
ドルキンはミレーアを呼び、この石の組み合わせを見せた。ミレーアは慎重に石の組み合わせを組み替え、一つの言葉として成立するように動かした。
「二神は一神の虚、一神は二神の実なり」
ミレーアが七つの石の組み合わせを変えた瞬間かちりと音がし、その扉は内側から手前へ自らゆっくりと開いていった。これは、古代からフォーラ神殿に伝わる言葉らしい。フォーラ神の二神性を表現したものなのであろうか。
ドルキンは扉の内側に足を踏み入れた。予想通り、中は洞窟状の通路になっており、古い石の階段が地下深くに向かって伸びている。
階段の壁にはところどころに松明が差してあったが火は消えている。ドルキンはフードを取った。フードやローブに付着していた雪が足元に落ちる。
ドルキンは持参した松明に火を点け、壁に差してある一番手前の松明に火を移した。持参した方をミレーアに渡し、壁の松明を抜いて右手に持った。
閉まりかかった扉を擦り抜けるようにして、白狼と銀色のリンクスが中に駆け込んできた。ドルキンの足元で大きく身震いして身体に付いた雪を飛ばす。そして、淡い水泡のような細かい光が銀のリンクスを包み、カミラはその場で人の姿に変じた。
ドルキンは松明を左手に持ち替え、背負っていた斧を右手に持ってその石段を降りていった。かなり深い。エレノアはミレーアにぴったりとくっつき、ドルキンの後についてくる。カミラとキースがこれに続いた。
どのくらい降りただろうか。ようやく石段が途切れると、ドルキンの背丈ほどもある一枚の石扉に行き当たった。
ドルキンは慎重にその扉を調べた。把手やその代わりになるような窪みはない。ただ、その扉一面が彫刻で覆われていた。様々な武器の形に彫り込まれて、石がくり抜かれたようになっている。
ドルキンは、はっと思いついて、手に持っていた斧を一番右の彫り込みに嵌めてみた。その彫刻は斧の形をしていたのである。果たして、それはぴったりとその窪みに嵌まった。
ドルキンは、腰に付けていたサルバーラの水晶の剣、それから背負っている革袋に収めていたカルサスのレイピア、教皇庁の神剣、スヌィフトの赤梟の剣、そしてヴァレリアで海中から引き上げた短槍をそれぞれその窪みに嵌め込んでいった。
全てを嵌め終えた時、その扉が、だれも触れていないのに向こう側へ開いた。
その部屋は、もともと洞窟であったものを奥に掘り拡げて造られているようで、天井が高かった。かつては祭殿であったのだろうか。古びた巨大な石の構造物が部屋の中央に組み上げられており、手前の祭壇の上に、直剣が納められていると思われる錆びた鉄製の鞘が置かれていた。祭壇の周りには部屋を支える石柱の役割を果たしている巨大な石造りの彫像が並んでいる。
ドルキンは祭壇に近付き、その上に置かれている剣を手に取り、鞘を払ってみる。
見た目の印象に反して、すらりと抵抗なく剣の刃が現れた。通常の直剣よりも長いが大剣と言うほど大きくはない。刃は十分に鍛え抜かれ、錆び一つ付いていない。燻されたような渋さと、水滴を纏ったような美しい光を同時に纏っている。
ドルキンは剣を慎重に検めた。剣の刃は諸刃になっており、刃身から先端にかけてなだらかなカーヴを描き、剣の重さもバランスも素晴らしいものであった。チェット・プラハールに奉ぜられた最後の神剣であろうか。
ドルキンは剣を鞘に納めると、大斧に巻き付けてあった革鞘に結び付けた。右肩に背負い、辺りを見渡した。神剣を護っているはずの魔物の気配はない。既に、この神殿の領域を離れ、ファールデン国土に解き放たれてしまったのだろうか。
「ドルキン様」
ミレーアの声に、ドルキンは振り返った。
「身世篭もりの儀式を始めてもよろしいでしょうか?」
エレノアはミレーアに寄り添うように立っている。フードを取ったエレノアを見ていると、どうしてもアナスタシアを想い出してしまう。あまりにも瓜二つなので、胸が甘く締め付けられ、ドルキンは二人から目をそらした。
「ああ。ここがこの神殿の祭殿だろう。進めてくれ」
ドルキンはキースに目配せをし、一緒に祭殿の外に向かった。「身世篭もり」は男子禁制の儀式だ。その場に立ち会えるのは修道女か巫女のみである。
ドルキンは祭殿の中に転がっている手頃な石を抱えた。入り口の石扉は、今は大きく開け放たれているが、万が一に備えて石扉の前にその石を置き、すぐには閉まらないようにしておいた。
祭殿にはエレノアとミレーア、そしてカミラが残った。ドルキンとキースは降りてきた階段を途中まで戻る。ドルキンは階段に腰掛け、深い溜息をついた。
先ほどエレノアの中に見たアナスタシアの面影が頭から消えない。
四十年前のあの日、アナスタシアの行方が分からなくなって以来、彼女のことを想わなかった日はなかった。忘れようとすればするほど、得体の知れない焦燥感に身を焼かれ、寂寥感に身が引き裂かれる思いであった。フォーラ神の戒律に没頭し、自分を厳しく律した修行僧のような生活を送ったのも、今考えてみると、彼女への思いを断ち切るためのものだったのかも知れぬ。
老境を迎えた今でさえ、若い頃のような激しい衝動に襲われることはなくなってきたし、仮に襲われても自分を律することが出来るようになってはいるものの、それでも時に人混みの中でアナスタシアの気配を感じ、目でそれらしき影を追ってしまうことがあるのだ。
ドルキンは頭を振り、想いを振り払おうとしたが、フィオナから神の宣託を受けた際の「アナスタシアを救え」という言葉が頭を離れない。今更、アナスタシアを救えとは、どういうことなのか。
その時、ドルキンの足下に蹲っていたキースが警戒の唸り声を上げた。ミレーアの叫び声が階下から聞こえた。ドルキンは我に返り、慌てて立ち上がった。階段を駆け下りる。
重い石で留めてあったはずの石扉が、まさに今、閉じようとしていた。ドルキンは階段を降りきらないうちに跳んだ。
辛うじて、扉の隙間を転がりながら擦り抜ける。その拍子に石の床に頭を強く打ち付け、一瞬意識が遠のいた。キースは間に合わなかった。
ドルキンは歯を食いしばり、薄れそうになる意識を意思の力で取り戻した。身体の方は自然に、背負っていた革鞘から神剣を抜き、両手で持って身構えていた。
祭壇の上に、二つの人影があった。
一つは茶色の汚いローブとフードを身に着けた老婆。そしてもう一つは、エレノアであった。ミレーアとカミラは祭壇の横に倒れている。
老婆はエレノアの後ろに立ち、その両肩に手を添えている。エレノアは今まで見せたことのない表情で、嬉しそうに微笑んでいた。
「何者だ?」
剣を構えたままゆっくりと祭壇に近付いたドルキンは、慎重に老婆とエレノアから距離を置きながら尋ねた。
老婆はフードを被ったまま頷き、そして言った。
「お久しゅうございます、ドルキン様」
老婆は口や喉を使って声を出していなかった。ドルキンの頭の中に直接響く声で語りかけてくる。懐かしく、忘れようにも忘れられない声。ドルキンは愕然とした。フィオナの宣託を受けてから、何度も否定しては頭をもたげ、それでも押さえつけてきた感情が、もうどうにも押さえ切れないものになってドルキンの胸の内を満たしていった。剣を握っていた手が下がる。
「まさか……お前は……」
老婆はフードを脱いだ。
「アナスタシア……なのか?」
見た目は全く違うその姿に、しかしドルキンは確かにアナスタシアの面影を見出した。
ドルキンは剣を構えるのを忘れ、その場に立ち尽くした。
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