四十二

「間に合わないかも知れない」

 ドルキンは呟いた。

 外城壁の西大門にある堡塁は外城壁の中でも最も規模が大きく、王都の中で王城そのものを除いて最も堅牢な要塞であると言えた。その堡塁の中にある一室で、神殿騎士・王国兵士連合軍の主立った指揮官たちが円卓を囲んでいる。

「禁忌が破られてから三十日を越えると、聖堂神殿の領域から魔物が解放されてしまうのだ」

 ドルキンの言葉に、円卓を囲む面々は息を呑んだ。

 七つの聖堂神殿のうち、六つまでは復活した魔物を斃すことに成功したが、最後の一つである古代聖堂神殿は北方のサンルイーズ山脈より更に北に奥深く、大陸最高峰のチェット・プラハールにあり、王都からはどんなに急いでも数日かかる。

 ドルキンが教皇の宣託を受けてから、二十五日が経とうとしていた。禁忌が破られた正確な日付は分からないから、最後の魔物がいつチェット・プラハールの聖堂神殿の領域から解放されてもおかしくない。そして、もしそうなれば、宣託の内容を隠していても意味がない。ドルキンは、少なくともこの円卓に列している指揮官たちには、状況を明かしておいた方が良いと判断したのだ。

「王都にやってくるでしょうか?」

 ファルマール神殿の神殿騎士団長フォーレンが訊いた。

「解き放たれた魔物がどのような姿をしているのか、どのような行動を取るのか、全く予想がつかぬ」

 ドルキンは答えた。

「そうであれば、打つ手はありませぬ。打つ手がないのであれば、頭を悩ませてもしょうがありません。もちろん警戒は必要ですが、ここはやはり王都を動かず、まずスラバキアの侵攻に備える他ないのではありませんか」

 黙って聞いていたナスターリアが発言した。

「うむ、俺もそう思う。ただでさえ割くべき兵数は少ない。いたずらに不測の事態に備えるよりも、目の前の確度の高い脅威に備えるべきだろう」

 バルバッソがナスターリアに同意した。他の指揮官たちも頷く。

「よろしい。結論が出たようですな」

 ドルキンは全員の顔を見回し、言った。

「ラードル殿とマリウスで当初立てた計画通りに布陣を進めることにしましょう。バルバッソ、フォーレン、コスタスの部隊には、それぞれ西、南北の大門をお任せする。ラードル殿は外城壁の外側で遊撃をお願いしたい」

 ドルキンは、ナスターリアの方を向いて、言った。

「そして、ここの総指揮は貴公にお願いしたい。皆も異論ありませんな?」

 全員が大きく頷いた。

「ドルキン殿はどうなされるのですか?」

 ナスターリアが訊いた。

「私とミレーアはエレノア様を連れて、チェット・プラハールに向かわなければならぬ」

 ドルキンは答え、一同を見回してから言葉を継いだ。

「完全に禁忌を封印するためには、魔物を斃すだけではなく、一度毀損された『身世篭もり』の儀式を改めて執り行う必要があるのだ」

「三人だけでは、さすがに危険だろう。俺のところから何人か出すよ」

 バルバッソが言った。

「ありがとう。だが、お前も言ったとおり兵は貴重だ。我々のために数を割く必要はないよ。その代わりというわけではないが、カミラとキースを連れて行く」

「私も連れて行ってください!」

 立ち上がってドルキンとバルバッソの会話に割って入ったのは、エルサスだった。

「殿下、お気持ちは分かります。だが、今度こそは聞き分けていただかないと困ります。殿下は既に、名実ともにこのファールデン王国の次期国王です。十三歳の成人堅信を終えられたら、あなたは国王としてこの国を担っていかなければなりません。国王とはこの国の総大将だ。あなたがここに残って異民族たちと戦わずしてどうするのですか。エレノア様のことであれば、私が必ずお守り申し上げます。私を信じていただきたい」

 ドルキンは厳しい口調でエルサスに言った。

 エルサスは俯いた。ドルキンの言は正しい。自分は王にならなければならない。王が国の危機を前にしてその場を去るなどあり得ない。エレノアのことが心配ではあったが、ここはその想いを呑み込む他なかった。

 隣に座っていたナスターリアが、エルサスの背に優しく手を添えた。エルサスは頷き、腰を下ろした。

「明日の早朝、私たちは出立いたす。皆様のご武運をお祈りいたしております」

 ドルキンは立ち上がり、神の印を両手で結んで一礼した。


 その夜、マリウスはなかなか寝付くことが出来なかった。このように心が乱されるのは初めてだ。マリウスは、要塞の中にある割り当てられた自分の個室から抜け出し、城壁の外に出た。堡塁の横にある石に腰を下ろして空を見上げる。

 細い弦のような月が頭の上にあった。満天の星空の真ん中を、悠久の大河のような銀河が横切っているのが見えた。すぐそこに迫っている危機が嘘のように美しく、そして静かだった。

「マリウス様」

 背後から声を掛けられて、マリウスは思わず立ち上がった。振り返る。

 そこに佇んでいたのは、ミレーアだった。白い麻のワンピースに、修道女のガウンを羽織っている。肩まであるプラチナブロンドの髪と透き通るような白い顔が星明かりに照らされ、今まで見たどの女よりも美しかった。

 マリウスはミレーアを見つめたまま言葉を失って、暫しその場に立ち尽くした。

 ミレーアが近付いてきて、マリウスの手を取った。

「お別れをどうしても、言いたくて」

 ミレーアの言葉に、はっと我に返ったマリウスは一瞬躊躇したが、ミレーアの手を握り返した。

「お別れなど言わないでください。必ず無事に帰ってこられます。今までもそうであったように」

 ミレーアは、突然マリウスにしがみついた。腕をマリウスの身体に回して顔を胸に埋める。

 マリウスは予期せぬミレーアの行動に狼狽したが、そっとそのままミレーアを抱き寄せた。

「チェット・プラハール。たとえフィオナ様の宣託があったとしても、出来れば私は行きたくない……。不吉な予感がするのです。今までとは違う、暗雲が私には見えるのです。ああ……神の巫女などでなければ良かった。巫女でなければ未来を観ることもなく、そして……そして……マリウス様、あなたのおそばにずっといることが出来るのに……」

 ミレーアは、マリウスの胸に顔を埋めたまま泣き始めた。マリウスはミレーアを強く抱き締めた。心の奥から湧き出てくる、今まで経験したことのない感情を抑えることが出来なくなっていた。

 マリウスはミレーアを身体から離し、左手でミレーアの顎を支えその涙を唇で吸った。そして、そのまま、二人の唇は重なり、二つの影が一つになった。


 翌朝、陽がまだ地平に現れぬ早朝、ドルキンたちの姿は外城壁の北大門前にあった。

「王都を頼む」

 ドルキンは見送りに現れたマリウスの手を両手でしっかりと握った。

「はい」

 マリウスは手を握り返しながら、ドルキンの後ろに立っているミレーアを目で追う。ミレーアは、昨日マリウスの胸で泣いていたのが嘘のように、毅然としたいつもの佇まいを崩していなかった。

「強い人だ」

 マリウスは心の中で呟いた。ミレーアの健気さが胸に染み、むしろマリウスの方が心を激しく乱された。

「生きて帰れよ」

 バルバッソがドルキンの肩を両手で摑むようにして言った。ドルキンは深く頷き、言った。

「任せておけ。お前こそ、死ぬなよ」

「おう。戻ったら神殿騎士を引退しろよ。今度こそ、一緒に船に乗ろう」

 ドルキンとバルバッソは笑顔で応酬した。

「行くぞ」

 ドルキンは漆黒のアダブル種に跨がると、既に別の馬に騎乗しマリウスの手を借りてエレノアを自分の前に座らせたミレーアと、白狼と化したキースの上に跨がったカミラに言った。ミレーアとカミラが頷いた。

 ドルキンは馬に掛け声をかけると手綱を引いて馬体を北に向けた。鞭をくれ、一気に駆け出す。ミレーア、キースがそのあとを追った。

 マリウスは、一瞬、ミレーアが視線を自分に移したことに気付いた。思わず、一歩前に足を踏み出した。しかし、次の瞬間、ミレーアは馬が巻き上げる砂塵の中に姿を隠し、その表情を窺うことはできなかった。

 マリウスは、馬たちが巻き上げる砂塵が、完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

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