四十一

 アナスタシアは、王城の地下にある獄舎に囚われていた。白金の鎧は脱がされ、粗末な荒い麻の衣服を着せられている。両手と両脚は鉄輪で縛められ、堅い木の寝台に固定されており、身動きは出来ない。サンルイーズ山脈で追跡者たちから受けた額の傷から流れ出ていた血も今は固まっているが、手当てを受けていないので激しい痛みは治まっていなかった。

 フォーラ神の啓示を受けたのは何日前だったろう。時間の感覚が完全になくなっていた。覚えているのは、ファルマール神殿で行われたフォーラ神聖誕祭が終わった夜のことだ。

 アナスタシアは、いつものように聖誕祭の全ての典礼儀式を終えたあと、密かにドルキンと会うためにファルマール神殿から少し離れた場所にある修道院に向かった。

 本来、典礼儀式を終えた修道女は、身を清めて丸一日、祈りを唱えながら聖札を作るため神殿の祈祷室に篭らなければならない。フィオナはいつも、アナスタシアが不在であることを隠し、聖札も二人分作って奉納してくれていた。

 その晩、ドルキンは急用で地方の神殿に向かう司祭たちの護衛を急遽命じられ、その修道院に行くことが出来なかった。啓示を受けたことを直接伝えたいこともあって、待ち合わせの場所である修道院の厩でしばらくドルキンを待っていたアナスタシアであったが、やむなくファルマール神殿へ戻った。

 フィオナが待つ祈祷室に入ろうとした時、中から話し声が聞こえてきた。部屋に入りそびれたアナスタシアは心ならずもその会話を盗み聞いてしまった。

「……なぜ君があの女の代わりに我慢をしなければならないんだい? 君はもう十分、彼女のためにやってきたじゃないか。次の教皇になるべきは君だよ」

「……私は、そんなつもりは……」

「私は愛する君に、教皇になってほしいんだ。私に全て任せてくれればいい。あの女は私が始末するからね」

「アナスタシアは私の……大事な友達……」

「あの女が? 君の大好きだったドルキンを奪った女が? 君は自分を犠牲にしてあの女にドルキンを譲った。辛かったろう? 君は告解礼儀の時に私に言ったじゃないか。あの女が憎いと……もう我慢しなくていいんだよ。君は自分自身のために生きなければ」

「……ああ……」

 フィオナの声が喘ぎ声に変わったのを聞いて、アナスタシアは扉から離れた。そして何よりもその会話の内容に衝撃を受けた。フィオナとは幼い頃から、ずっと一緒に育った。生まれた孤児院も、初めて上がった修道院も全て同じだった。いつまでも二人で一緒にいれるものだとばかり思っていた。そのフィオナが私を憎んでいた……。

 確かに、ドルキンの件についてはフィオナに無理も言った。しかし、まさかフィオナもドルキンのことを想っていたとは……。それに、フィオナと一緒にいる男は何者だろう。彼は私を始末すると言っていた……。

 頭の中でいろいろな考えが駆け巡り、眩暈がしてきた。祈祷室の入り口の反対側に面した石回廊の隅で座り込んで呆然としていたアナスタシアは、フィオナのいる祈祷室から男が出てくるのを見て、慌てて角の向こうに身を隠した。

 男の姿には見覚えがあった。教皇庁を訪れた際、何度か見かけたことがある。若くて美しい司祭だったので、フィオナと誰だろうと噂をしたことがあった。大司教、カルドール・ハルバトーレであった。

 動揺する心を抑え切れないアナスタシアは、ファルマール神殿を出て再びドルキンとの待ち合わせ場所であった修道院に戻り、ドルキンを待った。相談出来るのはドルキンしかいなかった。

 しかし、ドルキンは現れない。独りで悩み尽くしたアナスタシアは、ついにアムラク神殿を出ることを決意した。ドルキンに会うのはそのあとでも出来ると、その時は考えていた。

 何事もなかったかのようにファルマール神殿に戻って、翌朝フィオナたちと共にアムラク神殿への帰還の途についたアナスタシアは、アムラク神殿に到着したその日の夜のうちに、神殿騎士の鎧と武具を携えてアムラク神殿を出奔したのであった。


 錆びた鉄が軋む音がし、獄舎に人が入ってきた。獄吏と一言ふたこと言葉を交わしたその男は、二人の獄吏と一人の尋問官、護衛の兵士を後ろに従えてアナスタシアが囚われている牢へ近付いてきた。

 獄吏が鉄の鍵を廻し、陰気な音を立てて牢の扉が開いた。アナスタシアは頭だけを動かして牢の入り口を見た。手に持った燭台の蝋燭が風もないのに揺れ、その男の相貌を照らした。カルドール・ハルバトーレだった。

 カルドールはアナスタシアを眺めると口を歪めて言った。

「手間をかけさせたね。まさか啓示を受けてこんなにすぐに逃げ出すとは思わなかったよ」

 アナスタシアは、顔を背けた。あの日のカルドールとフィオナの会話を思い出したのだ。

「君に罪はないのだが、君がいたのではフィオナが教皇になれないのでね。だが、次期教皇になるのは君でも良かったんだよ? 私は君の方が好みだったからね。だが、君は神殿騎士なんぞと出来てしまった。愚かしいにも程がある。自ら己の未来を閉ざしてしまうとはね。まぁ、だが、おかげでフィオナを私のものにすることは、それほど難しいことではなかったがね。きっと彼女も寂しかったんだろうな」

 カルドールはアナスタシアの耳元で、身体に触れながら囁いた。アナスタシアはその手を避けるように身を捩りながらも、カルドールを睨みつけた。

「もったいないね。実に。だが、神は既に選択したもうた。次期教皇になるのはフィオナだ。君には辞退してもらう。大丈夫。殺しはしないよ。啓示を受けた身世代が死んだとあっては、いろいろと面倒なことになるのでね」

 カルドールはアナスタシアから離れ、獄吏と尋問官に合図をした。

「不具廃疾の者はたとえ神の啓示を受けても教皇にはなれないんだ。それが古来から伝わるしきたりでね。なに、痛いのは最初だけだ。すぐに痛みにも慣れるだろう」

 二人の獄吏と尋問官が大きな箱を抱えて牢の中に入ってきた。その箱の中に覗く禍々しい造形をした拷問道具を見た時、アナスタシアは意識を失った。


 その兵士は上司の隊長から直々に、教皇庁の大司祭の護衛をするよう指示された。何故、王国兵士たる自分が大司祭の護衛をしなければならないのか理解し難かったが、安くても特別手当が出ると言われれば断ることも出来なかった。

 彼の生まれは貴族であったが、准男爵程度の爵位で就ける職は、せいぜい王国兵下士官どまりで、報酬など微々たるものだ。家には養わなければならない妻と子がいる。

 最初はそう思っていた兵士であったが、目の前で繰り広げられている、その娘に対する残酷な仕打ちを、彼は正視することが出来なかった。

 この坊さんは異常だ。彼はそう思った。夜な夜なこの王城の牢獄にやってきて、娘に対する尋問官と獄吏による拷問を楽しそうに眺めている姿は、とてもまともな精神を持っているとは思えなかった。

 一晩中執拗に繰り返されるその行為は、既に数週間にも及び、流石に彼も吐き気を覚えていた。しかし、任務を放棄するわけにはいかない。この「大司教様」がここにいる限り、自分もここにい続けなければならない。彼の精神は徐々にすり減り、限界に近付いてきていた。

 一ヶ月目の夜、げっそりと憔悴し切った彼は、ついに決断した。この娘を連れて逃げよう。一度受けた任務を放棄すれば、命令違反でどうせ斬首刑だ。愛する妻と子の顔も目に浮かんだが、このままでは自分の精神も崩壊してしまいそうであった。

 その兵士は、名をアドル・ハーメルといった。アドルはその夜、娘に対する苛烈な拷問が終わり、大司教が教皇庁に帰った後、再び獄舎を訪れて大司教の命であると嘘をついて獄吏に鍵を開けさせた。身分は低かったが、腕はかなりのものであったアドルが二人の獄吏を斃すことはさほど難しいことではなかった。

 王都を出奔したアドルは、アナスタシアを介抱しながら追っ手から逃れ、西を目指した。教皇庁も王国兵側もかなりの兵員を出して二人の後を追っていた。もはやファールデンに二人の居場所はないと言って良かった。

 アドルとアナスタシアはスラバキアとの国境に近いグレイウッドの森に隠れ棲んでいたところを辺境守備隊に発見され、戦闘となった。アドルはアナスタシアを護ってそこで命を落とした。

 辺境守備隊との戦闘中にフォーラフル川に落下したアナスタシアは、下流の古代フォーラ神殿近くに流れ着いたところを、そこに棲むスラバキアの呪術師に助けられた。アナスタシアが巫女として天賦の才を持つことに気付いたその老婆は、彼女の知る限りの荒ぶるフォーラ神の秘術をアナスタシアに伝授した。アナスタシアはそこで真のフォーラ神の姿を知った。

 アドルの息子、ダルシア・ハーメルの前にアナスタシアが現れたのは、彼が孤児院を転々としていた十四の時であった。人と馴染まず、笑うこともない暗い瞳の少年に手を焼いていた孤児院の修道僧たちは、金を出してその身柄を受けるという彼女の申し出に飛びついた。

 ダルシアを修道院から買ったアナスタシアは、全てをダルシアに語った。何故、父親がダルシアたちを捨てなければならなかったのか、必ずしもそれは父アドルの本意ではなかったこと。そして憎むべきは、大司教カルドール・ハルバトーレと、それに与したアマード・アルファングラム三世である、と。

 彼女も、もはや、かつてのアナスタシアではなくなっていた。自分の過去と現在と未来を完膚なきまで蹂躙し尽くしたカルドールへの怨讐は、スラバキアの呪術師の薫陶を経て、偽りの神とそれを信奉する教皇庁とファールデン王国に対する激しい憤怒と敵意に昇華した。

 自分たちを捨てた父親が連れて王都を出奔した女であるにも関わらず、ダルシアはアナスタシアに対して、怒りや恨みよりもむしろ愛を感じた。暗黒の空虚に支配されていた彼の心に唯一例外といえる感情の一滴を落としたのがアナスタシアであった。そして、アナスタシアの癒し難い心の傷は、ダルシアの心にも深く刻まれたのである。

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