三十九

 数日を経過して、シバリスの修道院に集結した神殿騎士及び僧兵はその数およそ一万に達した。加えてドワーフ兵ラードルが率いる王国兵残存勢力はおよそ二万。海上に待機しているバルバッソの傭兵を含めると総勢で四万強の兵力となった。

 マリウスとラードルは協力体制を敷き、王都防衛の準備を進めていた。既に、シュハール川から王都の北東に上陸したバルバッソの部隊も、外城壁の北門から王都に到着し、マリウスたちと合流していた。

 マリウスは神殿騎士・王国兵連合軍を、ラードル、バルバッソ、フォーレン、コスタスを指揮官とする四部隊と自らが指揮する部隊を加えた合計五部隊に再編成した。

 王都の外城壁には大門が南北と西に備えられている。バルバッソ、フォーレン、コスタス三部隊は、それぞれこの大門を護ることになった。ラードルの率いる鷹嘴隊を中心とした部隊は、外城壁の外側でゲリラ戦を担うことになった。

 マリウスの部隊は、王城を中心として広がる腐肉の魔物を斃すことを目的に神殿騎士を中心に編成した。エルサスは自ら志願してマリウスの部隊に加わった。マリウスはこれを許可し、カミラとキースをエルサスの護衛として同行させた。

 エルサスはヴァレリアで入手した軽い白金の鎧を身に着け、ファールデン王家の紋章が刻まれた盾を背負い、スヌィフト神殿に奉じられていた赤梟の神剣を腰に納め、隊列に加わった。人の姿をしたカミラと白狼の姿をしたキースもエルサスに付き従っている。

 マリウスの部隊は、外城壁からメイヌ・タレラートに沿って王都の中心を目指した。腐肉の魔物の姿はまだ見えない。

 しばらくすると、庶民が住む区画と貴族や教皇庁関係者が住む区画を隔てる城街壁が見えてきた。マリウスは商業地区に接するメイヌ・タレラートで一度隊列を組み直し、神殿騎士と傭兵たちをそこに待機させた。

 城街壁の上には累々と腐肉が積み重なっており、その門の前と防塁を兼ねた小塔からはところどころガスを噴き出す肉がはみ出ている。マリウスは、この腐肉が、以前教皇庁聖堂内で遭遇した魔物であることを即座に見て取った。

 腐肉から吹き出すガスは火を帯びており、王都の至る所で上がっていた火の手はこの魔物によるものだったのだ。このままでは迂闊に城街壁に近付くことが出来ない。

 城街壁の腐肉がマリウスたちに気付いた。腐肉はそれぞれ触手のような襞を伸ばし、待機している騎士や兵士たちを襲った。

 マリウスは号令をかけて防御の態勢を取るように指示した。しかし、魔物を間近に観て動揺した騎士や兵士たちは迅速に隊列を変えることが出来ない。そうしているうちに腐肉の魔物が地面を這うようにして次々と迫ってくる。

 マリウスは腰の剣を抜き手近の肉塊を斬り払ったが、何人かの神殿騎士たちが別の腐肉に飛びつかれ、そのまま地に倒れた。絶叫が上がる。一気に神殿騎士と傭兵たちが浮き足だった。

 腐肉に襲われた騎士を助け出そうとしていたマリウスの背後からまた別の腐肉が忍びより、鎧の胸から下半身にかけて纏わり付いた。マリウスは足を取られてその場に倒れた。肉の襞が眼前に迫る。

 その時、樫の木の杖を左手に持ったカミラが、呪文を唱えた。白い雪の結晶のような霧が辺りに拡がり、腐った肉塊に降り注いだ。肉塊は凍てつき、動きを止めた。

 そうだ、こいつは冷気に弱いのだった。マリウスは右手に握った剣の柄頭で鎧に纏わり付いている凍った腐肉を砕いて身体の自由を取り戻した。立ち上がると、傍にいた騎士から斧槍を受け取り、凍りついた肉塊に斧頭を振り下ろし、砕き始めた。

 カミラは再び呪文を唱えて、いつの間にか左肩に止まっていた白い梟に接吻した。その小さな梟が羽ばたいてカミラの頭上に飛び上がった瞬間、真っ白な光が辺りを照らしたかと思うと、小さな白い梟が何百、何千羽、いや何万羽とカミラの頭上を舞った。それはあたかも雪を孕んだ巨大な竜巻のように見えた。

 白い梟の群れはそのまま天高く飛翔し、王都上空を舞い、羽から白い結晶を振り撒き始めた。王都に満ちていた腐肉がみるみるうちに凍り始め、火を纏っていたガスも消え始めた。王都各所で上がっていた火の手が小さくなっていった。

 カミラがみたび呪文を唱えると、静かであった空がにわかに騒ぎ、突風が王都上空を舞った。腹に響く、どろどろという音が聞こえた次の瞬間、耳をつんざく雷鳴と共に天から幾つもの雷が矢のように降ってきた。雷の矢は王都全域に降り注ぎ、凍り付いていた腐肉の魔物が次々と砕け散っていった。マリウスたちは、あまりに激しい雷に立っていることが出来ず、その場に座り込まざるを得なかった。頭を抱えて伏せている者もいる。

 しばらくすると、雷は去った。王都の空が腐肉の魔物から立ち昇った大量の黒い水蒸気で覆われていき、やがて薄くなって霧散していくのを、皆が空を見上げて見入っている。地上を覆っていた腐肉の魔物は跡形もなく消え失せていた。

 マリウスは引き連れていた部隊全員に王城への突入を下知した。マリウスを先頭に神殿騎士と兵士たちは、城街壁の門をくぐり、貴族たちの居館が連なる街路を駆け抜け、一気に王城の跳ね橋を渡った。

 エルサスもマリウスについてくる。

 崩壊した城門をくぐり抜けて広い中央庭園に出た。人の気配がない。

 中央庭園の広い石段を駆け上がりパティオに出た時、マリウスは「それ」を見た。

 あっ、と思わず後ろに続くエルサスを振り返った。隠しようがなかった。マリウスに続いて石段を駆け上がってきたエルサスは、そこに横たわっている二つの屍体を見てしまった。どす黒い木乃伊と化した父王と、それに寄り添うように倒れている心臓を抉られ血塗れとなった母親を。

 エルサスの手から赤梟の剣が落ちた。彼は急激に込み上げてくる感情に耐えられなかった。身体の中で何かが弾けた。エルサスは膝を折り、両手を天に突き上げ、声にならない声で慟哭した。彼の小さな身体が激情で張り裂けるのではないかと、マリウスは思った。

 やがてエルサスはよろよろと立ち上がり、落とした剣を拾った。鞘に収める。マリウスが身体を支えようとすると、一旦はその手を払ったが、そのまま倒れ込むようにマリウスに身を預けてきた。そしてマリウスを両手で抱き締める。マリウスは自分の骨が砕けるのではないかと思った。しかし、敢えてそのままにして、エルサスの激情を受け止めた。

 中央庭園に面した玉座の間から、ダルシア・ハーメルが静かに姿を現した。玉座の間を出て、その脇から中央庭園に続く大理石の大階段をゆっくりと降り始めた。

 マリウスは右手を挙げて、神殿騎士たちに隊形を整えるよう指示した。騎士や兵士たちが少し距離を置いて、階段を半円で囲むようにして武器を構えた。

 ダルシアは大階段の途中で立ち止まり、階段の下の庭園にいるマリウスたちを余裕たっぷりに眺め、

「随分、遅かったではないですか」

 子供のように、無邪気な表情で言った。黒い瞳が悪戯っぽく光った。

「お待ちしていたのですよ」

 ダルシアは、一転してマリウスでさえ背筋が寒くなるような、地獄の底から聞こえるような甲高い声で笑い、右手で印を結んだ。

 マリウスとエルサスの頭蓋骨が軋み、激痛が走った。巨大な指で頭を握り潰されるような感覚だ。エルサスの鼻から血が流れ出した。他の神殿騎士や兵士たちも膝をついて苦悶している。カミラはその場に蹲り、キースは泡を吹いて腹を見せ、白狼の姿で痙攣を始めた。

 マリウスの横で頭を抱えて苦しんでいた神殿騎士の頭が割れた。頭蓋骨がぐしゅっと内部に向かって拉げ、脳を潰して眼球が眼窩からどろりと流れ落ちた。耳からは鮮血が迸った。

 数人の兵士が同じように頭を潰され、その場に次々と倒れ伏していった。

 マリウスは、エルサスを抱きかかえるようにしてその場から遠離ろうとしたが、足が地面にへばり付いたように動かない。エルサスが、ついに悲鳴を上げた。

 その時、鋭く空気を切る音がし、矢がダルシアの右肩に刺さった。ダルシアはぐっと呻き、詠唱していた呪詛が途中で止んだ。

 ミレーアが、マリウスに駆け寄ってきた。そしてダルシアをひと睨みしてから、「守護の祝福」を詠唱した。中央庭園を、まばゆいオレンジ色の光球が包んだ。

 ダルシアは矢を肩から引き抜こうとしたが、握った箇所で矢は折れ、矢尻は肩に残ったままだ。折れた矢を足元に叩き付けると、再び呪詛の印を結んだ。

 ダルシアを中心として拡がる黒い光球と、ミレーアが呼び出した光球とがぶつかり合い、光の飛沫が散った。両者の力は拮抗しているようで、ダルシアの黒い光球はミレーアの祝福が守るマリウスたちまで届かない。

「マリウス、大丈夫か」

 マリウスの肩に手を置いて声をかけたのは、ドルキンであった。弓を左手に持っている。

 ナスターリアと共にカルサスから王都に到着したドルキンは、外城壁門のバルバッソと合流して、そのうちの百名あまりを引き連れて王城に駆けつけたのであった。

「ダルシア! これはどういうことなの?」

 ダルシアに向かってほとんど絶叫に近い声で尋ねたのは、ナスターリアであった。

「ああ、ナスターリア……君か。こんなところで君に会うとはね……」

 ダルシアは心なしか寂しげに呟き、ナスターリアの眼を見た。

 その妖しい瞳に引き寄せられるように、ナスターリアはダルシアに駆け寄った。ドルキンが思わず手を伸ばして止めようとしたが、彼女はその手を振り切った。

 ダルシアは指を組んで形作っていた印を解き、ナスターリアに近付いた。黒い光球は消えた。

「君だけには、本当のことを話したかったのだがね……ナスターリア。人生とは、ままならぬものだ。もはや私が、君を本気で愛していると言っても、信じてはくれまい」

「あなたの嘘は、もう十分よ。あなたに愛する者などいないわ。そうやって私を偽るのは、もうやめて」

 そう言いながらもダルシアの底が知れない瞳の磁力に、ナスターリアは抗うことが出来ない。ダルシアはナスターリアの瞳を更に覗き込みながら、彼女の腰に手を回した。ダルシアが悪魔のように笑った。

「君は……やはり、もっと早くフォーラ神の贄にしておくべきだったね」

 ダルシアの右手には、いつの間にかフォーラ神の意匠が刻み込まれた短刀が握られていた。

「……君を愛していたのは……本当なんだよ……」

 ナスターリアの耳元で熱く囁きながら、ダルシアは短刀をその喉元に添えた。研ぎ澄まされた刃が白い喉に食い込み、紅いものがそこに滲んだ。しかし、ナスターリアの身体は痺れてしまい意に反して動くことが出来ない。

 ダルシアの左胸から、突如、何かの冗談のように、剣の切っ先が覗いた。自分の心臓を貫いた剣の先を、ぽかんと見つめたダルシアの口から泡の混じった鮮血が溢れ出た。

 ダルシアの呪詛が解け、ナスターリアは慌てて彼から身を離した。

 エルサスが、いつの間にかダルシアの背後に回り込んでおり、握りしめていた赤梟の剣でその背中を突いたのであった。

 エルサスは剣を捩じり、自分の体重を使って更に深くダルシアの身体に剣を沈めた。そして剣から手を離し、呆然とその場に座り込んだ。呪詛に打ち克つ力を持つ赤梟の神剣は、ダルシアの呪詛を永遠に封印した。

 ダルシアは剣からエルサスに目を移し、その場で大きく哄笑した。何もかもが可笑しくてしょうがないとでも言うように。そして、身体に剣を刺したまま、大理石の大階段をゆっくりと降りていく。

 笑いを止めたダルシアは、階段の下に立っているドルキンを見て頷いた。

「あの方が……待っていますよ……チェット・プラハールで」

 ダルシアはそう言うと力尽きたように膝をつき、ナスターリアを振り返ってもう一度微笑み、そして、ゆっくりとその場に倒れ伏した。

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