三十八
枢機卿カルドール・サルバトーレは夢を見ていた。漆黒の闇を何者からか逃れるように全裸で走り続けている。
喉が渇き、足はもつれ、ふくらはぎが痙攣しているのが分かる。しかし、足は止まらない。カルドールの意図とは別に、勝手に動き続けているのだ。
苦しい呼吸の中、肥え太った身体を辛うじて捻って振り返ると、後ろから血塗れの女たちが追いかけてきている。女たちも一糸纏わぬ姿だ。顔が認識出来たのは先頭にいる数人だけだった。後に続く無数の女たちに顔は無く、それぞれ腹が裂かれ内蔵が零れているにもかかわらず、それを引きずりながら追いかけてくる。
顔の分かる女の中には、フィオナがいた。先代の教皇であったサマリナ・アルバテスもいた。そして、その横に唯一、白い修道服を纏った女の姿があった。濡烏色をした長い髪の美しい少女だ。その顔を認めた時、カルドールは足を躓かせ、その場に倒れ込んだ。
血塗れの女たちは少し距離を置いてカルドールを取り囲んだ。修道服を着た黒髪の少女が前に進み出、カルドールの傍にしゃがみ込んだ。少女がにっこりと微笑んだかと思うと、見る見るうちに顔が溶け始め、カルドールの頬や額に腐った肉がぼたぼたと落ち始めた。カルドールは悲鳴を上げた。
現実の世界でも悲鳴を上げながら、カルドールは目覚めた。
水を被ったようにびっしょりと汗をかいているカルドールは、辺りを見渡した。自分の寝室ではない。
見覚えの無いその暗い部屋は、石造りの牢に見えた。
カルドールは自分が巨大なすり鉢のような石の器の上に仰向けに寝かされていることに気付いた。手足は動かせない。細いが丈夫な紐で手首と足首が縛められており、動かせば動かすほど紐が食い込んでくるのだ。
「動かない方がよいよ、カルドール」
しわがれた氷のように冷たい声が、闇の中から聞こえた。カルドールは声のした方に顔を向けようとした。首に括り付けられている紐が締まって喉仏に食い込む。
フードで顔を隠し、ローブを纏った細身の影が、そこに立っていた。
「少々特殊な呪詛を施した紐でね。動けば動くほど食い込んで、仕舞いには骨を砕いてしまうよ」
「呪詛? 誰だお前は……どういうことだ、何故こんなことをする?」
カルドールは掠れた声を絞り出した。声を出すだけで紐が食い込んでくる。
「夢で会っただろう? 女たちのことはもう忘れてしまったのかい? 女たちの方ではお前のことを忘れることは決してなかったろうがね」
その茶色い薄汚れたローブを着ているのは、老婆のようだった。枯れ木のような右手に蝋燭を持っているが、フードを被っているために陰で顔は見えない。
「……」
カルドールはもう一度その老婆を誰何したかったのであろうが、もはや声を出すことは出来なかった。
老婆は、左手でゆっくりとフードを脱いだ。チリチリと瞬く蝋燭の頼りなげな明かりが、その顔を照らした。
カルドールの顔が驚愕に歪んだ。口がその老婆の名前の形に動いたが、声は出なかった。再び毛穴から汗が噴き出し始めた。
「私も随分と気が長い方だけれどね。毎夜毎夜、女たちが私に言うんだよ。早く、早く、ってね。そのたびに、もう少し、もう少し、と言い続けて四十年も経ってしまった。もう女たちも待てないって言ってるよ。……そろそろ時も満ちてきたことだしね」
老婆は右手、左手、それぞれで別に印を結び、両手を頭の上に翳して口の中で呟くような呪詛を唱えた。老婆が呪詛を唱えるたびに、憔悴しきっていたカルドールの身体に、生命力が満ちてくるのが分かった。
「この呪詛はね、不死の呪詛だよ。カルドール、お前はもう死ぬことは出来ない。神の呪詛の力によって永遠に生き続けることが出来るのさ」
老婆は、カルドールが横たわっているすり鉢状の、大きな椀の脇にある把手を手前に倒した。
「まぁ、生き続けることが本当に良いことかどうかは、また別の話だけれどねぇ」
上から、円柱状の石で出来たすりこぎが降りてきた。ちょうど大人が二人でその周囲を抱きかかえることが出来る程度の太さだ。ゆっくりとカルドールのちょうど腹の辺りまで降りてくる。すりこぎは上部が歯車の付いた枠木にしっかりと括り付けられており、満遍なくすり鉢の上を移動できるように仕掛けが施してあった。
老婆が把手を横にずらすと、すりこぎはカルドールの脚の上に移動した。老婆はそこですりこぎを止め、把手を右に捻った。すりこぎが回転しながら更に降りてきて、カルドールの脚に触れ、そのまま腿の肉をこそげ落としながら脚の骨を磨り潰し始めた。
カルドールは激痛のあまり身を捩ろうとしたが、全く動くことが出来ない。声を上げようとするのだが、もはや声は掠れた空気の音にしかならなかった。脚の骨があらぬ方向に向かって折れた。
老婆はすりこぎを一度上げ、今度はすりこぎをカルドールの右腕の上に移動させた。同様に磨り潰し、腕の骨を折る。老婆はそれを更に二回繰り返して、カルドールの四肢を骨混じりの肉塊に変えた。カルドールは脂汗に塗れた真っ赤な顔で血走った目を剥きだしていたが、まだ生きていた。
老婆は、すりこぎをカルドールの肥満した腹をの上に移動させ、把手を右に捻った。すりこぎはカルドールの腹の上でゆっくりと回転し始めた。回転しながら更に下に降りてくる。
カルドールは腹の皮が破れ、すっかり衰えてしまった腹筋を易々と引き裂いてすりこぎは回転を続けた。破れた腹から内臓が飛び出し、血飛沫が辺りに散った。
鈍い音がしてカルドールの背骨が折れたようだ。すりこぎを中心に磨り潰された下半身と無傷な上半身が不自然な形で起き上がった。カルドールの口からは鮮血が食道を逆流した胃と共に溢れだし、眼窩から目の玉が飛び出してきた。しかし、それでもカルドールはまだ生きていた。
生きながら身体をすりこぎで磨り潰され、カルドールは自分がすり身になっていくのを生きながら感じとるのだ。死はカルドールを見放した。この激烈な痛みや苦しみは、肉塊になっても永遠に続くのだ。老婆のかけた神の呪詛によって発狂することすら許されない。
老婆は把手を元に戻していったんすりこぎを上げた。すりこぎからカルドールの血と肉と脂がしたたり落ちた。身体は腹を磨り潰されてほぼ二つに別れていた。老婆が把手をスライドさせると、すりこぎはカルドールの上半身の方へ移動した。そして再びゆっくりとカルドールの顔の上に降りてきた。
嫌な音がしてカルドールの頭蓋骨が拉げた。眼球と脳味噌がすり鉢の上に散る。脳が磨り潰されているのに、カルドールは自分に何が起きているのかを理解し、感じることが出来た。ただその意識が苦痛で占有されているだけだった。脳が破壊された段階で思考もなくなったが、痛みと苦しみは感じることが出来た。
常人がそこにいれば、とても正視していられない光景が数時間にわたって続いた。老婆はそれを愉しそうに眺めていた。すり鉢の上で出来上がったのは、生きた肉塊だった。
老婆はようやく把手を元に戻した。
脂と血で染まったすりこぎは、静かに元あったところへ上がっていく。
「カルドール、お前は永遠にその肉塊のまま生き続けることになる。その姿が果たして生きている、と言えるのかどうかはかなり哲学的な問題だね。え? なんだって? 痛い? ふふ、その痛みと苦しみは永遠に続くよ。たとえこの世に終わりが訪れても」
老婆は嗤いながら言った。
「それでもお前が私たちにしたことを思えば、まだまだ、全然足りないんだよ」
王城のほぼ中央に位置する庭園に面した王の政務室で、ダルシア・ハーメルは王が座すべき豪奢な装飾に彩られた椅子に深く座って、膝の上に載せた女の胸に顔を埋めていた。その乳房は鮮血に染まっており、ダルシアの顔にもその血糊がべっとりと貼り付いている。
ダルシアの右手には、女の胸から取り出された心臓が握られていた。その持ち主は息絶えているにもかかわらず、心臓だけが独立して生きているかのように脈動を止めていない。
ダルシアは屍体の頬に貼り付いたブロンドの髪を左手でかき上げると、唇にくちづけをした。屍体の顔が顕になった。
王妃、エルーシア・アルファングラムの一糸纏わぬ屍体を抱きしめたまま椅子から立ち上がったダルシアは、エルーシアの身体を抱えてゆっくりと長い脚を運び、中央庭園へ続くパティオに出た。
大理石の長椅子には別の屍体が横たわっていた。ダルシアは木乃伊のようなその屍体の傍に蹲り、優しい声で語りかけた。
「陛下、ご安心を。もうお一人ではありませんよ。今、お妃様をお連れしました……」
呪死してどす黒く干からびたアマード・アルファングラム三世の表情は、苦悶に歪んだまま凍り付いていた。ダルシアは背筋の凍るような凄まじい笑顔を見せて、エルーシアの屍体をアマードの屍体の横に寄り添うように寝かせた。
空中庭園になっているこの庭園は、パティオから腐肉に包まれ炎上している王都の様子を眺めることが出来る。ダルシアはエルーシアの心臓を握りしめたまま、しばしそこに佇んだ。放心したようなその横顔には、心なしか孤独の色が滲んでいる。
そのダルシアの後ろに人影が差した。
「これでファールデン王国は終わりですね。全て、あなたが望む通りに」
ダルシアは振り返らずに、その人影に向かって言った。立ち上がってエルーシアの心臓を足元に捨てて踏み潰す。
政務室からパティオに出てきた人影は、茶色のフードを被った老婆のものであった。老婆は脚を引き摺りながらダルシアに近付き、その横に並んで言った。
「まだ、全て終わったわけじゃないよ、ダルシア」
老婆はフードを取り、半ば地獄と化した王都を眺めた。かつては美しい漆黒であった長い髪は灰色にくすみ、透き通るようであった白い肌も今は皺だらけとなってその半分が焼けただれ、右目は失われている。筋の通っていた鼻は折れ、額から続く裂傷で醜く歪んでいる。
ダルシアは言った。
「ええ……分かっていますよ、アナスタシア」
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