三十七

 ヴァレリアの街を発ったドルキンとミレーアは夜を徹して馬を駆り、一路シドゥーラクの州都カルサスに向かっていた。

 二人が砂漠のオアシス「蒼の泉」に到着したのはヴァレリアを出て三日目の早朝であった。カルサスは、もともとゴブリン族が棲んでいたファールデン中央の砂漠地帯に、紀元後になってから西ファールデン人が入植を果たして作った街で、深い構造谷の壁部には追いやられた先住民であるゴブリン族の粗末な居住区がある。

 ドルキンとミレーアはそこを過ぎ、谷底の神殿に接して作られた裕福な領民居住区に足を踏み入れた。人の気配は全くない。ただ、砂交じりの乾いた風が街の中を舞っているだけであった。

 聖堂神殿がある蒼の泉は街の中央にある。ドルキンとミレーアは、風化し遠い過去の遺跡のようになってしまった街の中を進んでいった。蒼の泉に面した広場に出たところで、ミレーアが短く声を上げた。

 蒼の泉が、真っ赤に染まっている。

 ドルキンはあたりを見渡した。相変わらず人の気配はない。だが嫌な予感がする。背負っていた大斧を両手で握り、ミレーアに後ろに下がっているように身振りで示した。ゆっくりと泉に近づいていく。

 泉は凝固しかけた血のようにどす黒い赤い液体で満たされていた。しかし、よく見てみると、大理石を削って作られた女神像の持つ壺から湧き出る水は透明で、源泉自体が赤くなっているわけではないことが分かった。別の場所からこの赤い液体が流れ込み、泉を血の色に染めているのだ。

 赤い液体は、祭殿に続く神殿の白亜の階段から流れ落ちてきていた。

 ドルキンはゆっくりと階段を上がり始めた。階段全体が赤く染まっているため、その液体でドルキンのブーツが汚れた。血の匂いと言うよりは、腐った堆肥のような匂いが鼻についた。

 祭殿の扉は閉じられていたが、赤い液体はその扉の隙間から流れ出ているようだ。ドルキンは、扉の把手に手をかけ、引いた。

 突然、重いはずの石でできた扉が内側から開き、祭殿の中から真っ赤な液体が溢れ出し、ドルキンは頭からそれをかぶってしまった。腐って半ば凝固しかけた大量の血液だ。奔流のように、腐った肉塊と共に押し出されてきた血液がドルキンの足元を掠った。ドルキンは大斧を握り締めたまま階段を滑り落ち、蒼の泉まで押し戻された。

 開いた祭壇の扉から、腐敗した液体と共に緑色の卵の形をした巨大な虫が大量に流れ出てきた。ドルキンの周りにも流されてくる。その虫は、無数の触手を伸ばしながらドルキンに近づいてきた。

 ドルキンは泉の中で立ち上がり、一番近くにいる虫に向かって大斧を振り下ろした。虫の体表が嫌な音を立てて潰れたが、あまり効いた様子がない。触手が斧を捉えて、ドルキンの腕にするすると巻き付いてきた。背後にも別の虫が近づいてくる。

 ドルキンは左手で抜いた水晶の剣で右手に絡みついた触手を切り落とした。しかし、いつの間にか複数の虫たちに周りを囲まれ、泉の外に出ることが出来ない。

 虫たちの触手が、次々とドルキンに巻き付いていった。ミレーアの悲鳴が聞こえた。

 その時、火の点いた松明がいくつか泉に投げ込まれ、虫たちにその火が燃え移った。まるで油に火を付けたように、虫たちは勢いよく炎に包まれた。ドルキンは弱まった触手を振り解き、動きが止まった虫たちの間をすり抜けて蒼の泉から外へ飛び出した。

「ドルキン殿!」

 女の声がした。

 ドルキンは大斧を握り直しながら、声のした方を見た。白鉄の鎧に黒いマント。兜を付けていないその顔に、見覚えがあった。

「やはり、こちらにおいででしたか!」

「貴公は……ナスターリア……殿。何故、ここに?」

 スヌィフト神殿で剣を交えた、ナスターリア・フルマードが左右の手にそれぞれ松明を持ち、ドルキンの傍に駆け寄ってきた。

「この化け物は、恐らくこの聖堂神殿に復活した魔物。こやつらは、火に弱いのです。背負っている餌を燃やし尽くせば抜け殻も同然となります」

「何故、それを?」

「話は後で。まずはこやつらを斃しましょう。魔物の本体は祭殿の中にいるはずです」

 ナスターリアは両手に持っていた松明をドルキンに渡し、新たに松明に火を付けて両手に持った。ドルキンとナスターリアは、虫の魔物の背中に積み上がった肉塊に火を点けて回った。

 全ての魔物が燃え尽き、抜け殻のようになったのを確認した二人は、どちらからともなくお互いに顔を見合わせ頷き、祭殿に向かって階段を駆け上がっていった。

 祭殿の前に立ったドルキンは、既に開かれている扉の陰から中を覗いた。

 祭壇の上に、巨大な排卵管を持ち細長い身体に透明な羽を生やした魔物がいる。ドルキンとナスターリアに気付くと、こちらに向かって威嚇の声を上げた。祭壇の下にいた虫の魔物が三匹、血溜まりの中を泳ぐようにしてこちらに近づいてくる。

 ドルキンはナスターリアを振り返り、三匹の魔物を指さした。身振りでその三匹をナスターリアが、魔物の本体を自分が斃すことを伝える。ナスターリアは頷いた。

 ドルキンは祭殿の入り口に迫ってくる魔物とその触手を避け、祭壇に向かって走った。ドルキンに反応して触手を伸ばしかけた魔物の背後から、ナスターリアが松明の炎を投げつける。虫の魔物は耳障りな甲高い叫び声を上げて燃え上がった。

 ドルキンは羽を生やした魔物に肉薄すると、排卵管と魔物本体の胴体の繋ぎ目を大斧で切断した。大量の羊水が溢れ出し、透明な排卵管の中にあった数百個、あるいは数千個とも思われる卵が外へ流れ出した。

 ドルキンは卵を踏みつけ、一つ一つ潰していった。魔物の本体が羽を大きく羽ばたかせ、祭壇からドルキンに向かって跳躍した。鋭い牙で喉元を抉ろうとする。

 ドルキンはその攻撃を躱して大斧を振り上げた。魔物の首のあたりをめがけて、渾身の力を込めて振り下ろす。魔物の首が飛び、その切り口から黒い水蒸気が吹き出した。同時に、あたりに散らばっていた大量の魔物の卵もみるみるうちに縮んで溶けてしまった。

 ドルキンは斧を背中に戻しながら、祭壇の上でひときわ美しい光を放っているレイピアに目を留めた。華麗な宝飾が施されているこの刺突剣は、カルサス聖堂神殿に奉じられている神剣である。通常のレイピアよりも長めで、それこそ蒼の泉を彷彿とさせる、清い水の滴のような光が刃から零れている。ドルキンはこれを手に取り、軽く振ってみた。素晴らしいバランスであった。

 ナスターリアはドルキンの傍まで歩いてきて、その場で敬礼をした。ドルキンはレイピアを鞘に収め、敬意を示す祈りの印をもってこれを返した。

「エルサス殿下の仇を討ちに来られたか」

 ドルキンはレイピアを腰に差し、苦笑しながら言った。

「まさかに。あれから王都に戻り、あらためてシバリス様とお話させていただく機会がありました。シバリス様には一言の偽りの言葉もありませんでした。その話を伺うにつれ、ますます貴公がそのようなことをなさる方ではないと意を深くいたしました」

 ナスターリアは、祭殿の入り口から恐る恐る中に入ってきたミレーアに会釈をしながら言った。

「殿下は生きておられる。あの時、スヌィフト神殿の魔物の呪詛を受けて一時的に仮死状態にありましたが、今はお元気になられております」

「やはり、そうでしたか……」

 ナスターリアは、ほっと息を吐き、続けてドルキンに尋ねた。

「それで、殿下はどちらへ?」

「既にご存じかも知れぬが、『大崩流』が発生しております。ヴァレリアのギルド長の協力を得て傭兵を集め、王都防衛を図るために我が弟子、マリウスとともに王都に向かっておられます」

「な、なんですって!」

 突然、ナスターリアの顔色が変わった。

「いけませぬ! いま王都に戻ってはいけませぬ!」

 それまでのナスターリアらしくなく、動揺を隠さないその言いざまにドルキンは驚き、訊いた。

「どういうことですか? 王都に一体、何が……」

 ナスターリアは、はっと我に返って言った。

「失礼いたしました。大崩流が起きていることについては、私も承知いたしております。王都で『異変』が起きた後、私は辺境の長城要塞に向かいました。そこで、そこの指揮官から話は聞きました」

「王都で異変、ですと?」

 ナスターリアはスヌィフト神殿から王都に帰還した後に王都を襲った異変と、異民族の攻撃を待たずして既に王都が崩壊してしまったことを語った。

「なんと……まさかそのようなことに……」

 暗い表情になったドルキンは、王都の教皇庁聖堂で遭遇した腐肉の魔物のことを思い起こしていた。あの時、なぜ最後まで斃し切ることなく、王都を後にしてしまったのか……。ドルキンは悔やんだ。

「私がここに参ったのは、ドルキン殿、貴公にお会いするためです。どうしてもお話しなければならないことがあるのです」

 ナスターリアは姿勢を正して続けた。

「王都の現状はともかく、大崩流に備えてこの国土を護る必要があります。そのために、どうか神殿騎士の協力をいただきたい。その仲立ちをお願いしたいのです」

 ドルキンは力強く頷いた。

「もとより、そのつもりであった。既に弟子のマリウスには、貴公に会って王国兵士と共同防衛線を張るように指示をいたした。まさかここにおられるとは思いませんでしたが……。しかし、マリウスは仮に貴公に会えなくても次善の策を打って、王国兵士と連携をとることでしょう」

 ナスターリアはほっとした表情を見せて、さらに言葉を継いだ。

「貴公は聖堂神殿を巡って、現出した魔物を斃し、祭壇に奉られた神具を集めていらっしゃるとシバリス様から伺いました。それで、もしかするとこの地にいらっしゃるのではないかと思い、こうして参ったのです」

「シバリス師は、貴公にそこまで話されたか……」

「はい。私は以前、王都に向かう途中、ここカルサスに立ち寄った際に、この魔物と遭遇いたしました。奴らが炎に弱いことは、その時に見極めました」

 ドルキンはあらためてナスターリアを見直した。若く美しい女だが、剣の腕がただものではないことは、そのしぐさ、立ち居振る舞いからも窺うことが出来た。

 ドルキンとナスターリアはお互いの眼を見て、同時に言った。

「王都へ、参りましょう」

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