三十五

 マリウスとヴァレリアの傭兵たちはファールデンを北上し、王都を目指していた。バルバッソが手当てしてくれた兵、およそ一万。そのほとんどがこの短期間で元大海賊バルバッソの呼びかけに応じて馳せ参じたユースリア大陸近海の海賊や海軍崩れの荒くれ者たちであった。

 バルバッソ自らが舵を取る大型の海賊船が四つの大帆に風をはらませ、悠久の流れに逆らってシュハール川を遡っているのだ。その周りを中小取り混ぜた数十隻の海賊船が並航して進む光景は壮観であった。

 ヴァレリアの港を発して三日目、海賊たちの船団は王都の川下にあるバーラサクス村沿岸に差しかかろうとしていた。

 貴族領主オールレンにヴァレリア防衛を任せたバルバッソは、ドルキンに協力したいと自ら申し出た。船長室に入ることもなく、甲板で直接海賊たちに指示を与えている。

 マリウスはマストに張られた横帆の捩れを抑えるためのロープに取り付けられた長いバウスプリットの近くに立ち、王都方面を注視していた。今朝から前方に見え始めた空に向かって立ち上る無数の黒煙は、船が進むにつれてその数を増し、ここから見る王都は、各所から轟々たる炎と猛煙を吹き上げていた。

「既に手遅れだったのだろうか……?」

 マリウスは呟き、唇を噛んだ。

 彼は航海中にバルバッソと議論を重ね、兵を二つに分けることにしていた。一隊はいったんバーラサクス村に上陸し、陸路王都を目指す。もう一隊はシュハール川をさらに北上して船で王都に向かう。

 マリウスは陸上部隊を率い、バルバッソが船団を率いることになった。陸上部隊もそのほとんどが海賊たちであるため、海賊たちの扱いに慣れている副長のコスタスはマリウスとともに陸上部隊に加わった。

 複数の小舟に分かれてバーラサクス村に上陸したマリウスと傭兵千名あまりは、シバリスの修道院に向かった。ここを拠点として装備を整えて傭兵を待機させ、まず少人数で王都に向かい、ドルキンの指示通りスヌィフト神殿で出会ったナスターリアという女を探さなければならない。

 マリウスは傭兵を五つの小隊に分け、修道院近くの二ヶ所の街道辻にそれぞれ二隊ずつ配置し、残りの一隊とともに修道院へ向かった。

 修道院が見えてくると、マリウスはコスタスだけを連れて敷地に近付いていった。他の傭兵は修道院を遠巻きに潜ませ、何かあればすぐに援護させるようにしておいた。

 マリウスは腰の剣に手をかけ、修道院の門に近付いた。手を門扉に伸ばそうとした時、辺りを警戒しながら彼の後ろに続いていたコスタスがマリウスの腕を引っ張った。振り返ったマリウスに、コスタスは声を立てるなと人差指を唇に当て、身振りで姿勢を低くするように伝えた。修道院の裏門の方を指さす。

 修道女の格好をした背の低い痩せた女が、ちょうと修道院の裏口から出てくるところであった。裏門を開き、布を被せた籠を両手に抱えて修道院の裏庭に通じる小道から外に出てきた。マリウスたちが姿を隠した門壁は女からはちょうど死角になっていた。

 マリウスたちはその女の後を尾け始めた。コスタスが修道院の周りに潜んでいる傭兵たちに目と身振りでそのまま待機するように指示した。

 女は修道院の裏に広がるファーウッドの森に入り、鬱蒼として陽が届かない薄暗い小道をとぼとぼと歩いていく。少し前かがみの歩き方からして、老婆のようにも思えた。

 木々に囲まれた小さな丘を二つほど越えると、前方の森の中に神殿が見えてきた。王都の南西に位置する、ファルマール神殿だ。ファルマール神殿は聖堂神殿や他の地域の神殿と比べると規模が比較的小さかったが、その歴史は古く、「神の子(フィロ・ディオ)」アーメインがファールデン紀五〇五年に王都に下向した際に身を清めた場所として、フォーラ神聖誕祭が永く行われてきた由緒ある神殿である。

 女は、そのファルマール神殿へ、裏門から入っていった。

 マリウスは、ファルマール神殿の敷地の外にコスタスをとどめ、一人で神殿の裏口に向かった。聖誕祭では王都の領民でかなりの賑わいを見せるファルマール神殿であったが、今はひっそりと息づき、眠っているかのように見えた。

 裏口の扉の前で中の様子を窺うと、人の気配がした。ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。

「あの方はね、昔からこれが大好物なの。そうそう、表面を乾かさないようにそうやってよく捏ねてね。上手だわ。これならいい奥様になれそうよ」

「あの……私は修道女なので、結婚はしないのですけれど……」

「あらあら、そうでしたっけね。あ、もうそのくらいでいいわ……」

マリウスは中から漏れてきた少女の声を聞いて愕然とした。

「エレノア様?」

 マリウスは意を決して、その裏口の扉を開いた。裏口は土間に通じており、そこは厨房に面していた。額を寄せるようにして向かい合って座っていた二人の女がマリウスに気付き、はっとこちらを見た。

「マリウス……様?」

 驚いて声を掛けてきたのは、やはりエレノアであった。

「エレノア様、これは……こんなところで一体?」

 エレノアはマリウスを見て、今まで我慢して溜まり切っていた不安と哀しみが一気に溢れ出てきたのであろう。マリウスに駆け寄ってその胸にしがみついて泣き始めた。

「エレノア様。いったいどうしたというのです?」

 マリウスは困惑してもう一人の女を見遣った。

「あなたがマリウス様ですか。ドルキン様のお弟子さんの」

 木の椅子に座った老女は穏やかな微笑を浮かべて、静かに呟いた。

「あなたは?」

「私の名は、アルマと申します。ファルマール神殿の修道女として神に仕える身でございます」

 アルマという名前に聞き覚えがあった。エレノアをシバリスに預けて修道院を去る際、シバリスがエレノアに万が一のことがあった時に頼りにするよう言い聞かせていた修道女の名前だった。

「シバリス様にはもう長く、お世話になっております」

 マリウスはエレノアを胸に抱いたまま跪いて一礼し、敬意を示す神の印を胸元で結び、アルマに尋ねた。

「シバリス師は、どうされたのですか? どちらにいらっしゃるのでしょう」

 アルマは椅子から立ち上がり、マリウスをいざなった。

「こちらにいらしてください」

 マリウスは、ようやく泣きやんで恥ずかしげに彼の胸から離れたエレノアの涙を拭いてやり、アルマの後に続いた。エレノアもついてくる。

 アルマは軋み声を上げる古びた狭い階段を上っていき、神殿の二階にある司祭の寝室にマリウスを案内した。

「シバリス様!」

 マリウスは、その寝台の上で静かに横たわっているシバリスに駆け寄り、その姿を見て絶句した。

 全身に白い布を巻かれており、そこかしこから血が滲んでいた。耳が切り取られ、身体中が傷だらけであることが一目で分かった。目も腫れ上がって恐らく見えていないのではないかと思われた。

 思わず寝台の前に膝を突き、シバリスの手を取ったマリウスは、その指が全て折られていることに気付いた。

「誰が……誰がこのようなことを……」

 マリウスの眼から涙が込み上げてきた。言葉が途切れて、出てこない。

「王城の兵士たちですわ……」

 アルマは哀しげに言い、事の顛末を話し始めた。

 十日ほど前、ファルマール神殿に荷車を曳いた馬に乗った一人の女が姿を現した。その女は、血まみれのシバリスとおびえるエレノアを荷車に乗せて王都から運んできたと言うのである。この神殿のことはシバリス本人から聞いたらしい。アルマの名前もシバリスから聞いていた。彼女は立ち去る際に、アルマに「王都へ入ってはいけない」と念を押した。アルマがその女の去り際に名前を聞くと、その女は「ナスターリア」と名乗ったという。

 マリウスは思わず立ち上がった。

「ナスターリア、ですと?」

 その時、シバリスが微かに身じろぎし、マリウスの方に顔を向けた。

「マリウス様、ようお戻りになられた……」

 擦れた声が、腫れ上がった紫色の唇から漏れた。

「シバリス様!」

 マリウスは再び膝を突き、シバリスの手をそっと握り締めた。

「ドルキン様は、いずこに……?」

 シバリスが尋ねた。

「ドルキン様は、まだ聖堂神殿をお巡りになっておられます。先日まで私と一緒にヴァレリアにおりましたが、首尾よく魔物を……斃すことが出来たとしたら、今ごろはカルサスに向かっておられるのではないかと思います」

 シバリスは微かに頷き、吐息と共にマリウスに言った。

「マリウス様、王都は、王都は……取り返しのつかぬことになってしまいましたぞ……」

 シバリスの口元に耳を寄せて話を聞いていたマリウスの表情が、驚愕とそして次第に絶望の色へと転じていった。

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