三十四

「マリウス。起きているか?」

 部屋の外からドルキンの囁くような声が聞こえた。マリウスは今晩も魔物を待つためにあの村へ行くつもりでいたから、既に出発の準備は出来ていた。

「ドルキン様、私はいつでも行けますよ」

「お前とミレーアに話しておきたいことがある。申し訳ないが、ミレーアを起こして、一緒に来てくれないか」

 マリウスはミレーアを起こそうと彼女に近付いたが、既に彼女は起きていた。マリウスが眼で合図すると、ミレーアは軽く頷いてエルサスやカミラを起こさないようにしてマリウスに従った。気配に気付いて目を覚ましたキースが、低く小さな声で鳴いた。

 ドルキンは周りに人影がないことを確認し、宿屋の裏にある納屋まで二人を連れていった。昼間の大崩流の話はギルドの円卓会議メンバー限りとなったし、万が一にでも街の者に漏れたら間違いなくパニックになる。

 ドルキンは声を潜めて、昼間聞いた話をマリウスとミレーアに伝えた。このタイミングで大崩流が起きてしまったことを聞いたミレーアは強い衝撃を受けていたが、それでも取り乱すことはなかった。マリウスは厳しい表情ではあったが、冷静にそれを受け止めた。

「そこで、我々は二手に分かれることになった。マリウス、お前はヴァレリアの傭兵たちを率いて王都に戻って欲しい。今晩中に発ってくれ。王都に戻ったらなんとかあのナスターリアという、スヌィフト神殿で会った女を探せ。ここに、王国湾岸守備隊隊長の紋章入りの書簡がある。これを見せれば、あの者ならおそらく状況を理解してくれるはずだ。禁忌が破られ魔物が復活した上に大崩流が起きている状況で、王国兵と神殿騎士とがいがみあっている場合ではない。あのナスターリアという女と協力して両者の仲立ちをし、一刻も早く王都の防衛戦を固めてくれ」

「エルサス殿下もお連れした方がよさそうですね。父君と母君がご心配でしょうから……それで、ドルキン様はどうされるのですか?」

 マリウスは尋ねた。

「カミラとキースも連れていった方がよいだろう。何かあった時には頼りになる連中だ。私はヴァレリアに残り、ここの聖堂神殿にいる魔物を斃す。そのあと、もう一つの聖堂神殿があるカルサスに向かう」

 ドルキンはマリウスに答え、ミレーアの方を向いて言った。

「君には本当に申し訳ないのだが、私と一緒に来て欲しい。もともとフィオナの宣託は我々二人で受けたものだし、やはり二人でフィオナの言う通り進めていかなければならないと思う」

「もちろんです、ドルキン様。もとより異論はありません」

 ミレーアはむしろ晴れ晴れとした表情で微笑みながら言った。

「ミレーア、もう一つ君に頼まなければならないことがあるんだ」

 ミレーアは首を少しかしげた。

「本来であればこういうことは決して頼まないのだが、時間が惜しい。我々もカルサスが終わったら王都を目指し、できるだけ早くチェット・プラハールに行かなければならん。ここの魔物を斃すために時間を無駄に過ごすことは出来ない。今晩、けりをつけたい。申し訳ないが、魔物を呼び出すために、君に囮になって欲しい」

 一瞬驚いた表情を見せ、ちらりとマリウスの方に視線を移したミレーアであったが、すぐに深く頷き言った。

「分かりました……私にお任せ下さい」

 実はこのアイディア自体はバルバッソのものであった。魔物は乙女を求めて彷徨う。村人一人いない村にはなかなか姿を現しにくかろう。そこで、街の娘を囮にすることをバルバッソは提案したが、ドルキンはそれを断った。一般領民を危険に晒すわけにはいかない。ドルキンはミレーアにそれを頼むことを決意したのだった。


 海岸沿いの村に到着したドルキンたちは、昨夜と同じ態勢で待機した。異なるのはミレーアが浜辺で佇んでいることだけだ。小さな帆舟の船縁に腰掛けている。ドルキンはその船底のキールに身を隠していた。

 数時間が過ぎ、今晩も空振りに終わるかと思われたその時、にわかに生暖かい風が海から吹いてきた。海面が騒ぎ、浜辺の木々がざわめいた。古代聖堂神殿が沈んでいるあたりが泡立ち、次いで大きく盛り上がった。しぶきを上げて巨大な影が海中から姿を現した。

 その様子はミレーアからも見ることが出来た。しかし、月明かりが逆光となって、かえって陰となり、その姿自体をはっきりと見ることまでは出来なかった。ミレーアは船縁に下ろしていた腰を上げた。ドルキンはその巨大な影の気配を感じることが出来た。間合いとタイミングを計る。

 ドルキンが舟を飛び出すと同時に、漁師小屋に待機していたバルバッソの傭兵たちが火矢を放って、あらかじめ薪を積み上げ油を撒いておいた場所に火を放ち始めた。辺りが闇を裂くように明るくなった。煌々と燃え盛る薪の明りに照らされて、その影の全貌がはっきりしてきた。

 見上げるように、巨大な蟹だ。横幅は中型の船ほどもある。

 右の第一脚に岩の塊のような鋏を、左のそれに鋭い尖った槍を持っており、甲羅は分厚く毒々しい紅色の棘で覆われている。甲羅の隙間からは鋏と槍を除いて普通の蟹のように八本の脚が生えているが、第二脚以降の脚の先端は人間の指のように枝分かれしている。甲羅上部に飛び出た二本の眼は真っ赤で、眼球がくるくると辺りを見回していた。

 魔物は、人間のように縦に歩いてミレーアに近付いてきた。巨大な身体の割に動きが速い。

 ドルキンは漁師小屋に待機していた傭兵に合図すると、大斧を両手で持って魔物の前に立ちはだかった。

 傭兵の一人がミレーアを街道側に待機している傭兵のところまで連れていこうとしたその時、蟹の槍の脚が触手のように伸び、ドルキンの右脇を擦ってその傭兵の頭を襲った。その槍は伸縮自在に動いた。

 槍に頭を貫かれ即死した傭兵は、そのまま銛のような返しの付いた槍に引きずられて魔物の手元まで引き寄せられた。

 蟹の頭胸甲が唇のようにめくれ上がり、鋭い尖った歯と触手のように何本にも分かれている舌が見えた。大人の身長ほどの大きさもある口を大きく開けて、蟹の魔物は傭兵を頭からがりがりと食べ始めた。咀嚼の邪魔になる鎧や身に付けているものは、身を剥くように皮膚ごとその舌と脚の先の指を使って器用に取り除いた。

 しかし、蟹の魔物は咀嚼を途中で止め、傭兵の身体を吐き出した。どうやら気に入らなかったらしい。槍を、その場に立ちすくんでいたミレーアに向けて放つ。ドルキンは再び自分の脇をすり抜けていこうとするその槍状の脚に向かって斧を振り下ろした。鈍い音がしたが、魔物の脚は切れていない。一瞬怯んだだけであった。

 ドルキンは舌打ちをして、そのままミレーアの方に走った。右手に斧を持ち、左手でミレーアを抱えると、繰り出される蟹の槍の攻撃を躱しながら街道側の傭兵たちのところまでミレーアを連れていった。

 ミレーアを託された傭兵たちは盾を低く構えてその内側に身を隠す隊形を取りながらその場から遠ざかっていく。

 生け贄を奪われた魔物は、どす黒い朱色の甲羅を真っ赤な溶岩のように変じさせて怒った。ドルキンに向かって巨大な鋏を振りかざしながら迫ってくる。

 ドルキンは街道側の村の辻から村の中心にある広場に向かって走った。魔物の脚は思いのほか速い。あっという間にドルキンに追いついてきて、ドルキンの背中に向かって鋏を叩きつけた。ドルキンは横に跳んでこれを避けた。鋏が石畳の道を砕いて大穴が開いた。

 ドルキンは広場に駆け込むと、振り返って斧を右手に、水晶の剣を左手に持ち、魔物を待ち受けた。

 もうもうと砂煙をあげて魔物が広場に入ってきた。広場で待機していた傭兵たちが準備していた篝火に松明から火を移し、辺りの様子ははっきりと見ることが出来た。

 魔物の甲羅はアムラク神殿の大斧でも砕くことが出来そうにない。魔物が再び鋏を振り上げ、左の槍でドルキンが避ける方向を窺いながらドルキンに迫った。

 重い鋏を受け切ることは恐らく出来まい。迂闊に横に跳ぶと槍の餌食だ。ドルキンは左から横薙ぎに振られてきた鋏を皮一枚ぎりぎりで見切って、そのまま鋏に飛びついてしがみついた。

 魔物の鋏は、先端の節は細くてやや曲がった棒状になっているが、次の節は大きく重装の鎧のように膨らんでおり、鋼のような筋肉が収まっていた。動くのは最初の節のみで、筋肉が収まった節は動かない。その節と節の間には隙間があり、最初の節の腱が次の節に入り込んでいるのが見えた。

 ドルキンは水晶の剣を第一節と第二節の隙間に捻じ込み、魔物の鋏の腱を切り裂いた。張りつめた強力なゴムが千切れるように鋏の最初の節が第二関節とは逆側に曲がり、ドルキンはその勢いで魔物の背後に大きく投げ出された。火の点いた篝火の中に頭から突っ込んでしまい、火の粉が大きく舞い散った。

 髭を焦がしたドルキンは素早く立ち上がると、使い物にならなくなった鋏をぶらぶらと振り、人間のように口を開けて叫び声を上げている魔物に急迫した。背後から甲羅に飛び乗り、突起状の右眼と甲羅の隙間に水晶の剣を突き立てる。ぎりぎりと眼窩を甲羅に沿って抉り、剣を梃子のように動かした。こぶし大の眼球がどろりと地面に落ちた。

 魔物は激しく口から泡を吐いて、指を持つ第二脚と第三脚を背面に回してドルキンを掴もうとした。ドルキンはその脚を避けてしがみついたまま魔物の腹側へ回り込み、脚の関節の間に剣を捩りこんで一本ずつ腱を切断していった。

 第五脚と第六脚の腱を切断した時、魔物は大きな音を立てて仰向けに倒れた。ドルキンはすかさず、露になった魔物の白っぽい腹に大斧を叩き付けた。

 本物の蟹のように、魔物の腹部は甲羅ほど硬くはなかった。斧は魔物の体内を貫通し、広場の砂利混ざりの地面に達した。ドルキンは、起き上がろうと踠く魔物の腹の上に立ち、二度、三度と腹部に大斧を打ち込む。

 人間のそれのような臓腑をまき散らして魔物は動かなくなった。黒い水蒸気が甲羅の隙間から吹き出し、みるみるうちに魔物は甲羅だけの残骸となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る