三十三

 ヴァレリアの港町は、その中央を縦に走る石畳の錨の道(アーロン・ラード)で東西に分かれている。東側は数十隻の巨大な商船や軍船が繋留可能な深い桟橋から繋がる荷さばき場、倉庫、市場などが建ち並ぶ港湾施設地域であり、西側はもっぱら商店や宿屋、娯楽施設が軒を連ねる繁華街になっている。夕闇が迫ってきているが街の西側は明るい街灯に照らされ、ここ数週間、怪異が起きているとはいえ、やはり賑やかな港町そのもののヴァレリアであった。

「おじょうちゃん、かわいいじゃねえか。こっちでちょっと酒をついでくれよ」

 酔っぱらって顔を真っ赤にした酒臭い男がカミラに絡んだ。頬をカミラの銀髪に擦り付けてくる。カミラの足元に伏せていた狼姿のキースが身体を起こし、威嚇の唸り声を上げて牙を剥いた。

「なんだよ、いいじゃねえかよ。そんじゃ、こちらのおねえさん、一緒に飲まねえか」

 今度はミレーアに矛先を変えた酔っ払いは、銀の杯に果実酒を注ぎながらその手を握った。

「やめぬか!」

 強い口調で酔っ払いとミレーアの間に割って入ったのは、エルサスだった。

「なんだ、このガキ!」

 酔っ払いはエルサスを殴ろうとしたが、さすがに酔っ払いの素人ではエルサスの相手ではなかった。いつの間にか酔っ払いの背後に回り込んだエルサスは酒瓶を持った右手を逆手に捩じり上げて、男を板壁に押しやった。足がもつれた酔っ払いは派手に転んだ。

「この野郎!」

 酔っ払いがエルサスに向かって酒瓶を振り上げたところで、宿の主人が助け船を出した。宿屋の一階にあるこの食堂兼酒場の主でもある。

「オルゴン、もうやめておきな。この人たちはアラン様のお客人だぜ」

 アランの名前を聞いた酔っ払いは、一気に酔いが醒めたように青くなった。

「なんだよ、それを先に言えよ! へへ、すまなかったな、おじょうちゃんたち」

 酔っ払いはへらへら笑いながら売春婦たちがたむろする奥のテーブルへ去っていった。

 東ファールデンの呪われた森を後にしたドルキンたちは、次の魔物を斃すために聖堂神殿がある南方の、ここヴァレリアに向かったのであった。

 禁忌破戒によって魔物が復活している聖堂神殿は、最終目的地であるチェット・プラハールを除いて六つだ。教皇庁のあるアルバキーナ神殿、フォーラ神殿の最高位にあるアムラク神殿、湖の神殿サルバーラ、呪われたスヌィフト神殿、砂漠の神殿カルサス、そしてこの港町にあるヴァレリア神殿である。

 スヌィフト神殿で魔物の憑依を受けて一時、仮死状態にあったカミラとエルサスは、ミレーアによる神の祝福と、森の静者キースが施した「大地の恵みの力」による治療が功を奏した。一時は呪死も危ぶまれたのだが、スヌィフト神殿に奉じられていた宝具である赤梟の意匠が柄に刻まれた剣に呪詛を打ち消す力が秘められていたようで、ミレーアとキースの献身的な治療と相まって、二人はゆっくりと快復しつつあった。

 酔っ払いとの一件が落着してすぐ、ドルキンとマリウスが宿屋に帰ってきた。マリウスは、今は一時的に仮設された神殿に避難している枢機卿に頂礼し、神への祈りを捧げるとともにヴァレリア周辺の情報を聞き込んできていた。食事を終えた一行は、部屋に戻った。

 六人には少々狭く簡素だが、清潔な部屋だ。ドルキンが、皆に言った。

「この街でも異変は起きていた。間違いなく、聖堂神殿の魔物の仕業だ。奴は昼間明るいうちは海の下の古代フォーラ神殿に潜み、夜活動するらしい。海底に潜ることは難しいが、奴が夜、陸に上がってくる機会を狙うことは出来るだろう」

 ドルキンはマリウスに向かって言った。

「これから夜が更けるのを待って、神殿に向かう。バルバッソの兵士たちが案内してくれる。今回は、お前と私でやってみよう」

「何故? 私も連れていってください。祝福がお役に立てる場面もあるかも知れません」

 ミレーアがドルキンに言った。

「うむ。君の力は重々理解している。ただ、今回は今までと状況が違う。カミラもエルサスもまだ完全にフォーラの呪詛から解放されていないから連れていくわけにはいかない。魔物と対峙した時に、どういう副作用が起こるか分からないのだ。もしかすると、この地にいるだけで呪詛の力が増して容態が悪化するかも知れない」

 ミレーアはうつむき、エルサスが唇を噛んだ。

「カミラとエルサスに何かあった時は、君しか対応出来ない。もちろん、我々に万が一のことがあった場合はバルバッソの兵士がここへ知らせに来ることになっている。その時には君の力が本当に必要になる」

「……分かりました。お二人とも、無事に帰ってきてください。お二人に神の祝福がありますように」

 ミレーアはドルキンの後ろで装備の手入れを始めたマリウスに視線を移し、両手で、神へ祈りを捧げる印を切った。

 月が天空から少し傾き始めた時刻、バルバッソが手配してくれた兵士たちと共に、ドルキンはヴァレリアの港に繋留されている中型の舟に乗って海へ出た。バルバッソは兵士を二十人手配してくれた。

 十人は別の舟で聖堂神殿へ向かう。残りの十人とドルキン、マリウスは櫂で海面を静かに掻きながら沖に向かって漕ぎ出していった。

 月が波の穏やかな海面にきらきらと蒼い光を投げ掛け、真っ暗な海とむしろ明るい夜空のコントラストは幻想的で美しく、そこに魔物が潜むものであるとは到底思えなかった。

 しばらく舟を漕ぐと、岸の方に白い円柱がいくつも屹立しているのが見えてきた。紀元前はこの聖堂神殿も陸の上にあったのだが、ファールデン紀八十年の大地震の際に海中に没したものらしい。

 二艘の舟は直接神殿には向かわず、沖を迂回してヴァレリアの街とは反対側の海岸に着岸した。そこには小さな艀があり、舟を繋留することが出来る。

 舟を降りたドルキンたちは、聖堂神殿を右手に見ながら浜辺を小走りに走り、丘を一つ越えたところにある小さな漁村に到着した。ここは最初に被害が起きた村で、既に村民は内陸の街に避難していたが、警邏していた兵士によると、未だに魔物がこの村を彷徨うことがあるという。

 ドルキンは、バルバッソから借りた兵士たちを三隊に分け、村の街道からの入り口と中央広場、海岸側の漁師小屋にそれぞれ待機させた。自分が声を掛けるまで決して手を出してはならないと堅く言い聞かせた。

 ドルキンは、神殿に面する海岸に放置された古い小さな舟の中に潜んだ。マリウスはそこを見渡せる小高い砂丘の陰に身を隠した。しかし、その夜は、魔物は現れなかった。

 二日目も三日目も現れない。

 四日目にも魔物は現れず、夜を徹したドルキンが疲労を覚え始めた五日目の朝、別の問題が持ち上がった。

 夜に備えて雨戸を閉めて仮眠をとろうとしていたドルキンのところに、バルバッソから使いの者が送られてきた。すぐにギルドまで来て欲しいという。ドルキンは身支度を手早く終え、走ってギルドまで向かった。

 ドルキンがギルドの会議場に案内された時、既にバルバッソとその副長であるコスタス、そして王国湾岸守備隊隊長でもある貴族領主、聖堂神殿の枢機卿ら貿易商人ギルドの主立ったメンバーが席に着いていた。扉を開けて会議場に入ってきたドルキンに、皆の視線が集まる。

「ドルキン、良く来てくれた。昨日も夜を徹してもらったのに申し訳ない」

 彼らしくない暗い表情で、バルバッソがドルキンに言った。

「気にするな。それより、どうしたんだ。何かあったのか?」

 バルバッソの隣の、円卓に備え付けられている木製の椅子に腰掛けながらドルキンは尋ねた。

「……大変なことになった。『大崩流』が……」

「大崩流だと?」

 ドルキンは思わず席を立ち、両こぶしを卓の上で握り締めた。

「オールレン閣下、状況の報告をお願いいたします」

 バルバッソがヴァレリアの貴族領主オールレン・サワディーレを促した。オールレンは絶望的な表情を隠そうとせず、座ったまま喋り始めた。

「本早朝、辺境守備隊隊長のニア・サルマから急使が届いた。異民族、スラバキアが昨夜国境を越えてファールデン深く侵攻を始めたと」

 重い沈黙が会議場を支配した。ドルキンの脇の下に冷たい汗が流れた。

「長城は? 長城要塞が突破されたのか?」

 枢機卿フォール・アルガノスが訊いた。

「いや、長城は無事なんだが、どうやら、カザール国経由侵入した模様だ」

「ということは、カザールは……」

「……残念ながら、亡んだということだろう……」

 ドルキンが呟いて、唇を噛んだ。若き頃からカザール王国には何度も赴き、王族とも親交があったドルキンであった。カザール王は、領民と平和を愛する良い王であった。

 その様子を見ていたバルバッソが円卓の下でドルキンの脚を蹴った。ドルキンが顔を上げると、バルバッソは眼で、後で話があると告げた。

 会議は紛糾した。大崩流が始まったからといって国境と長城を放棄するわけにはいかない辺境守備隊は、スラバキアを追撃することが出来ない。ニア・サルマのヴァレリアに対する要求は、これを追撃するための兵か、あるいは長城を護る兵の徴兵だったが、今のヴァレリアにこれ以上、兵を出す余裕はない。議論は堂々巡りし、結局、全てはバルバッソに一任された。

 ギルド長の執務室で向かい合ったドルキンとバルバッソは、お互いに最初の一言を選んで沈黙していた。夕闇が迫ってきた。バルバッソが先に口を開いた。

「お前にも事情があるのだろう。だから、できるだけお前の仕事を優先しようと考えていた。だが、大崩流が起きたとなると話が変わる。これ以上、あの化け物に手間をかけるわけにはいかんぞ……」

「……うむ。バルバッソ、私はある事情があってここへやってきた。だが、それが何であるかはまだ言えない……どうか私を信じて欲しい。今晩だけ、もう一度だけやらせてくれ」

 バルバッソはドルキンの眼をじっと覗き込んだ。そして眼を閉じて、しばらく無言で沈思した。

 再び眼を開いた時、バルバッソの表情に迷いはなかった。いつもの、元大海賊のバルバッソであった。ドルキンの肩を手で強く揺すり、言った。

「お前の言うようにしよう。さあ、どうすればいい?」

 ドルキンとバルバッソはそれから夜が更けてもしばらく執務室にとどまり、部屋の灯がなかなか消えることはなかった。

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