三十二

 ユースリア大陸の南部に広がるファラン海沿岸には、世界でも有数の貿易港の一つであるヴァレリアがある。ヴァレリアはファールデン王国に属しているが、もともとは貿易によって力をつけてきた商人たちが興した自治区であり、唯一、貴族や平民といった身分が廃止され、自由貿易都市として発展してきた特異な歴史を持つ街であった。

 街は貿易商人ギルドによって支配されており、街の規律はギルド協約が国法を含む全ての法に優先する。ヴァレリアでは、貴族領主も神殿司祭もギルドメンバーの一部で、前者は主としてギルドの治安維持を、後者はギルドの守護聖人として宗教的道徳的規律の維持を担っており、ファールデンの中でも良い意味で王国兵と神殿騎士が協力体制を敷いている地域であった。

 ギルド長、アラン・グラディオスは昨夜のギルド会議における神殿司祭からの報告に頭を痛めていた。

 彼はもともと、ファラン海で最大の商船隊の隊長であったが、貴族側からも神殿司祭側からも信望厚く、ギルドメンバーによる選挙において全員一致でギルド長に選ばれた。長年、海風にさらされた灰色の硬い長髪を頭の後ろで束ねたアランは、陽に焼け尽くした鞣革のような肌に刻まれた深い皺と、思慮深い濃い緑色の瞳が印象的だ。

 ひと月ほど前から神殿付近に現れる怪異は治まることがなく、むしろ状況は悪化していた。ヴァレリアの聖堂神殿は、ファラン海の港から西に舟で一時間ほどの海岸沿いの海中に沈む古代フォーラ神殿と、そこから陸に繋がる紀元後増築された聖堂からなる。ある日、枢機卿と司祭が留守をしていた間に、聖堂にいた修道女たちの行方が分からなくなった。そして翌日、海岸に皮膚片の付着した修道服が、行方不明になった人数分漂着した。

 それ以来、沿岸に住む娘が行方不明になり、修道女と同様、着ていた服と皮膚だけが発見されるということが頻発している。最初は人による犯罪という扱いで貴族領主直属の兵士が捜査していたが、そのうちの一人がたまたま、その現場を目撃した。

 彼によると、その化け物は強大で硬い皮膚を持ち、大きな斧のような武器で警邏中の同僚を真っ二つに薙ぎ払ったと言うのである。

 事態を重く見たアランは王国兵士と神殿騎士の協同対策部隊を編成し、その化け物の正体を見極めると共に排除しようとしたが、対策部隊による三度にわたる攻撃は失敗し、かなりの死傷者が出てしまったことが昨日報告されていた。

 これ以上、兵力を費やしてしまっては街全体の維持に関わる。とは言え、このまま手をこまねいていては犠牲者が増えてしまう。既に街の若い娘たちは沿岸から内陸に避難させてはいるものの、この数日では沿岸に限らず内陸部でも被害が発生していた。

 アランはギルドの執務室で深い溜息をついた。両手を胸の前で組み、椅子に深く身体を沈める。彼は以前、建前は商船隊の隊長であったが、実のところファラン海のみならず世界の海を股に掛ける海賊船の船長でもあった。彼の「バルバッソ・スポーン」という別名は、ファールデン以外の国では、神出鬼没の大海賊として知られていた。

 海ではいろいろな怪異が起こる。伝説も数多い。その中で己の目で見ることが出来るものは見尽くしてきた。その百戦錬磨の彼でさえ、今回の怪異については有効な手だてを打つことが出来ずにいた。

 海の上では自ら前線で指揮を執り、数百名の乗組員を自分の手足のように使いこなしていたとはいえ、やはり陸の上で必ずしも以心伝心とは言えない兵士たちを用いることはなかなか難しいのかも知れない。

 深い疲労が彼を包んだ。その時、執務室の扉を叩く者があった。

「入れ」

 アランは姿勢を元に戻して、腹に響く低い声で応えた。

「ギルド長閣下にお目通りしたいと申す者が参っております」

 副ギルド長のコスタスが、髭で覆われた陽に焼けた顔を扉から覗かせた。コスタスもアランの船に乗っていた元副長である。

「誰だ?」

「ドルキン・アレクサンドル」

 コスタスがにやりと笑った。

「何? ドルキンだと」

 執務机の椅子から勢い良く立ち上がったアランは、コスタスを従えて大股に執務室を出ていった。

 貿易商人ギルドの居間はそれほど広くはないものの、調度品はファールデンでは見かけない異国のもので整えられていた。素朴な装飾だがしっかりとしたほどほどの堅さの椅子と、一本の樹から削り出した重厚な円卓が部屋の中心に並べられている。壁には色鮮やかな筆致で描かれた南洋の植物の静物画がいくつか飾られていた。ドルキンはその異国の椅子に大斧を置いて、その傍らに立っていた。

「ドルキン! 久しいな。どうしていた?」

 居間の重い扉を勢い良く開いて、ドルキンに歩み寄ったアランは言った。

「アルム戦役以来だから、十二年……ぶりかな? お前こそヴァレリアのギルド長とは恐れ入ったよ、バルバッソ」

 ドルキンも笑顔でこれに応じ、両手で堅い握手を交わした。

「ここでその名前を呼ぶのは、やめてくれや……」

 アラン、いやバルバッソは、はにかみながら言った。ドルキンはコスタスとも握手を交わした。

 十二年前、ファールデン王国はファラン海を挟んで対岸にあるマニムス公国と一時的に戦争状態になったことがあった。きっかけは教皇庁旗を掲げてファラン海を航行していた巡礼船が、マニムス公国旗を掲げる軍用船に砲撃されたことであった。

 巡礼船は事実上、教皇庁専用の商船であり、各地の神殿からの上納品と貢ぎ物を国外に売り捌いていた。本来、教皇庁は貿易をしないのが建前であったが、実際はこの売り上げが教皇庁の重要な資金源の一つとなっていた。

 このマニムス公国籍の軍用船は、実は海賊が船籍を偽装していたものであったのだが、それが判明するまではファールデン王国とマニムス公国はお互いを非難し合い、一時、一触即発の状態にあった。ドルキンは、被害に遭った船が教皇庁のものであったこともあり、教皇庁の密命を受けてマニムス公国に入って両国間の調停と実態解明の任にあたっていた。その際、協力を仰いだのが当時大海賊として名を馳せていたバルバッソであり、彼と敵対していた海賊の首領が船籍を偽って海賊行為を働いたことを審らかにしたのであった。

「懐かしいな。今でも思い出すよ。お前がまさかファールデンの聖堂騎士だとは知らずに、俺の船に誘ったことをな」

「あの時は本当に世話になった。今でも感謝しているよ」

「まぁ、昔話はいい。円卓の騎士のお前がわざわざこんなところまで出てきたってことは、また何か起きたんじゃないのか? 俺に出来ることなら何でもするぜ」

 バルバッソは壁際の飾り棚から東方の細工が施された杯を取り出してとろりとした透明な酒を注ぎ、ドルキンに手渡しながら言った。

「うむ……」

 ドルキンは眼で乾杯の意思を表して杯を持ち上げ、一気に干した。バルバッソも同様に杯を空けた。

「街で聞いたんだが、ヴァレリアの聖堂神殿で異変が起きているそうだな」

 ドルキンは異国の椅子に座り、バルバッソに訊いた。

「もう耳に入ったか……うむ、ひと月前くらいからだろうか、沿岸に住む娘たちが失踪するという事件が頻発してな。最初はどこかの海賊が人身売買のための人狩りでもやっているのかと思ったんだが、どうも様子がおかしい」

 バルバッソの表情がにわかに曇った。

「魔物の仕業なんだろう?」

 ドルキンはずばりと言った。

「……うむ。奴らは夜しか出てこないから、その姿をつぶさに見た者はいないのだが、住み処は見つけた。どうやら海中の古代聖堂神殿がねぐらのようだ。この二週間で三回攻撃を仕掛けたんだが、三度とも返り討ちさ。正直どうしていいものやら困り果ててる」

「一度、私にやらせてもらえないか」

「お前が? 確かに魔物は、お前たち聖堂騎士の範疇なんだろうが……まさか、一人でやる気か?」

 ドルキンは軽く首を振って言った。

「覚えているか? 私の弟子でマリウスという男がいたろう。彼と一緒だ」

「しかし、二人でどうなるものでもないぞ。うちの傭兵から何人か出そうか」

 バルバッソは先ほど執務室ではこれ以上兵は出せないと考えていたが、今はドルキンのためなら何人でも出そうという気になっていた。

「無理はして欲しくない。細かい事情は今は話せないが、まずは私たちだけでやってみる。お前の目で見てこれは無理だと判断したら、お前の兵たちに手伝ってもらおう」

 ドルキンはバルバッソの眼を見ながら話した。その眼を見つめ返していたバルバッソは、深く頷いた。

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