二十九

 ファールデン王国の版図は、古くは王都アルバキーナの近くを流れるフォーラフル川より東の広大で豊かな森林地帯まで広がっていた。

 緑の木々と湖、獣たちの生命に溢れた鬱蒼たる広葉樹林帯であった東ファールデンは、ファールデン紀五五〇年に勃発したボードゥル戦争により、その様相を一変させてしまった。王朝開闢以来、最大最悪の土着信仰宗教同士の内戦は、東ファールデンの多神教を奉ずる「森の民」と、当時はまだ正邪両方の神格を併せ持つフォーラ神を奉る西ファールデンからの移住者との間で勃発した。

 東ファールデンの土着民族であった森の民は、火の神、水の神、風の神、そして木の神を主神とする自然崇拝民族であり、「森の静者」を神の代行者として崇める人々であった。その生活は素朴で、気性が穏やかかつ従順であったため、ファールデン王国始祖アグランドもこれを尊び、決して武力を行使することはなかったという。

 その森の民の少女たちが立て続けに行方不明になったのは、ファールデン紀五四五年が明けて直ぐのことである。最初に発見されたのは、東ファールデンの背骨と言われたカラルレン山麓にある村の娘であった。父親とともに狩りに来ていた十歳の少年が彼女の遺骸を見つけた。

 当時のカラルレン山麓は緑豊かな森林であったが、野生動物も多く、その幾つかは灰色羆のように獰猛な肉食動物であり、猟師など狩りを営む者を除いて村人は決して一人では森に入ることがなかった。その少年は父親とはぐれ、一人で山麓を彷徨っていた。

 夕暮れが迫り、進むべき方向を見失っていた少年は、自分の胴体の何倍もある樹木が生い茂る樹海へ足を踏み入れていた。その中でも塒を巻くようにうねっているひときわ巨大な樹の裏側にぽっかりと開いた洞(うろ)への入り口があった。少年はこの洞で夜を明かし、朝を待とうとした。

 その洞は思いのほか深く、洞窟のように地下まで続いていた。少年が洞の奥に足を進めていくと、猟師である父親が若い鹿を捌いたときと同じような血と肉の匂いがした。

 少年は、樹の中にできた坑道のような狭い通路から、突如ひらけた広い洞に出てきた。部屋の中央には異形の石像と平たい巨石を積んで作られた祭壇があった。

 遺骸はまだ新しかった。祭壇の上で仰向けに横たわっているその頭は切断され、首の下から臍のあたりまで鋭利な刃物で切り裂かれていた。内臓は取り去られており、祭壇の周りの器に盛られている。祭壇の脇にある大振りの金色の杯の上に長い髪の頭部が置かれていた。

 恐る恐る近付いた少年は、その場に凍りついた。その頭は自分と同じ村に住む少女のものであったのだ。

 森の民の娘たちが勾引かされ荒ぶるフォーラ神の生贄にされる事件は、それからも東ファールデン各地で相次いだ。ついに耐えかねた森の民の一部の若者たちがフォーラ神殿を次々と襲って破壊し、司祭と修道女を惨殺するという事件に発展していった。

 当時のフォーラ信仰の中心は、北の最高峰チェット・プラハールにある古い寺院跡に建立された神殿であった。その最高位にあった聖堂神官は森の民に対する聖戦を宣言、東ファールデンをフォーラ神の名の下に浄化することを決めた。

 民族浄化は常に大量殺戮を伴う。荒ぶるフォーラ神の呪詛の力によって人間性を失った信者たちはただ殺戮を目的とし、聖戦という名の下に編成された遠征軍には一抹の憐憫の情もなかった。森の民はほぼ全滅し、根絶やしとなった。

 森の民の激しい抵抗を抑えるために使われた神の呪詛によって、東ファールデンは荒廃し、呪われた土地となった。かつての緑の森は姿を消し、その大半が灰色の濃霧に覆われた、異形のものが蔓延る冥府の森と化した。

 ドルキン一行は、白狼姿のキースに跨がって進むカミラを先頭に、白い骨のように痩せ細った木々と乾いた灰色の大地が一面に広がる森の残骸の中を進んでいた。森とは名ばかりで緑の木が一本もない。辺りは濃い霧に包まれており、既に夜は明けているはずなのに薄暗く見通しが利かない。

 最後尾をミレーアと並んで歩いていたエルサスは、ふと左に見える背の高い木の根元に、白い影がぼんやりとうずくまっているのに気付いた。白いワンピースを着た黒い髪の少女に見えた。後ろ姿だが、背格好がエレノアによく似ている。

 エルサスは招かれるようにその白い影に近寄っていった。少女は肩を震わせて泣いているようであった。

「その影に近付いてはならぬ」

 カミラが鋭く、叫んだ。

「えっ」

 エルサスがカミラの方に顔を向けたその時、小さな少女の形をしていた白い影が突如どす黒い影と化して大きく立ち上がった。ミレーアが慌ててエルサスの腕をつかんで抱き寄せるのと、渦巻く黒い影がエルサスを襲ったのがほぼ同時であった。

 カミラの樫の杖から白く眩しい光が発せられ、エルサスとミレーアを包んだ。黒い影はその光りに激しくぶつかり、そして四散しながら大きく弾き返された。

 黒い影は再び一つになると、両手を広げるように大きく拡散し、ミレーアとエルサスを護るその光の周りを遠巻きに窺い、そしてしばらくして消えた。

「い、今のは」

 エルサスが生唾を飲み込み、慌ててミレーアから身体を離しながら訊いた。

「かつての森の民の魂……かつてお前たちが起こした忌まわしき戦いで用いられたフォーラ神の呪詛によって森の民は滅亡したのじゃ。呪詛で呪死した者は呪われた存在となり、永遠に霊魂としてこの世を彷徨う。うかつに近付くと取り憑かれ、彼らと同様呪死することになるのじゃ」

 カミラが囁くように説明した。エルサスの背筋に冷たいものが走った。目を凝らすと、森のそこかしこに濃い灰色の影が漂っている。

「我が『大地の恵みの力』を持ってすれば、彼らは我らに近づけぬ。そちの神の祝福でも彼らを除けることが出来よう。だが、無闇にこちらから近付かぬことじゃ」

 カミラはエルサスを見、ついでミレーアに視線を移して言った。

 呪われた森はますます深くなり、緑の森であれば樹海と言えたかも知れない。しかし、乾いた枝が白骨を想起させるこの景観は、果てしなく寂寞とした寒々しいものであった。

 進むにつれて、辺りには灰色の霧が更に濃く満ち、昼間であるにもかかわらず宵闇のようだ。ドルキンは松明を火打金と火打石で灯すと、一つはマリウスに渡し、一つは自分の左手で持った。しかし、普通の闇と違って思ったよりも明るくならない。

「そろそろ、聖堂神殿が近い。この道はかつての参道だな」

 ドルキンが足元を指さしながら言った。

 痩せ細った白灰色の木々と寒々しいだけの風景が、少しずつ変わってきた。道のところどころに明らかに人の手による石造りの像や石畳の欠片が転がっており、しばらく進むと道の両脇にドルキンの背の丈より高い大理石の円柱がいくつも並び始めた。一行は、参道に沿って立つ円柱の間をゆっくりと進んでいく。

 神殿の参道をさらに進むと、荒れ果てた広場に出た。風化してほとんど廃虚と化し、辺りを漂う亡霊たちに侵食され尽くしたかのような白色の建造物が細い木々に囲まれており、濃い鉛色の空と不吉なコントラストを見せていた。スヌィフト聖堂神殿だ。

 ドルキンは堅く閉ざされた門に手を触れ、この不吉な神殿を見上げた。灰色の雲に包まれた尖塔の先端で微かに雷が瞬くのが見えた。門は冷たく体温を奪い、ドルキンの吐く息が白くなってきた。

 氷のように凍てついた門を両手で押してみると、びくともしないかと見えた門が、意外にも滑るように開いた。

 ドルキンは腰からサルバーラの水晶の剣を抜いた。呪詛で死んだ霊は普通の武器では除けることが出来ない。祝福儀礼を与えられた武器か、あるいは聖堂神殿に奉じられた聖なる武器であれば霊を退け滅することが出来る。宝斧でも効果はあるはずだが、素早く扱えて手元のコントロールがやりやすい方を選んだ。

 ドルキンは神殿の敷地へ一歩足を踏み入れた。黒い珠のような石を敷き詰めた参道が、聖堂への入り口の扉まで続いている。

 辺りを警戒しながら慎重に聖堂の入り口まで進む。マリウスは、全員が中に入ったことを確認してから一番最後に門をくぐった。

 カミラが突然悲鳴を上げた。

 上空から風のように現れた青白い光の玉は、カミラを包み込むと、その小さな身体を空中に持ち上げた。勢いで蒼いフードが外れ、銀色の短い髪ととがった耳が顕になった。キースが牙を剥き光の玉に素早く噛み付いたが、その鋭い歯は空を噛む。光の玉は、そのままもがくカミラを連れ去り、神殿の尖塔の方へ消えた。

 今度はエルサスが叫び声を上げた。別の光の玉が同じようにエルサスを包んで、彼の身体を空中に持ち上げたのだ。

 エルサスの脚を掴もうとしたマリウスも、また別の光の玉に取り付かれ、それから逃れようと激しく身を捩る。ドルキンが剣でマリウスを傷付けることがないように、身体すれすれの間合いで水晶の剣を振るった。水晶の剣の一撃を受けた光の玉は、甲高い女の叫び声を上げて四散した。

 マリウスに取り憑いていた光の玉は消えたが、エルサスを包んだ光の玉はそのまま彼を神殿の尖塔へ連れ去ってしまった。マリウスは舌打ちし、雷光が奔る尖塔を睨み付けた。

 武器を円卓儀礼で祝福を与えられたメイスに持ち直したマリウスと水晶の剣を手にしたドルキンは、しばらくその場で辺りの様子を窺ったが、光の玉が更に現れることはなかった。

「今のは、一体……」

 マリウスが周囲に目を配りながら言った。

「二人を連れ去ったのは濃い灰色の影ではなかったし、森の民の魂とは異なる力を感じた。恐らくこの聖堂神殿で復活を遂げた魔物だろう。尖塔には祭壇と神室がある。先を急いだ方が良さそうだ」

 ドルキンは言い、聖堂の石造りの扉を両手で押して開け、中の様子を窺った。聖堂の内部は思ったよりもきれいで、ドルキンの姿が鏡のように床と壁面に映し出されている。

 聖堂は緩やかな傾斜の螺旋回廊になっており、上階にある神殿の尖塔へと続いているようであった。青白い炎の点いた蝋燭が一定間隔を置いてぼんやりと壁に灯されている。蝋燭ではなく死者の魂なのかも知れない。それほど熱を感じさせない光であった。

 ドルキンは扉の外を振り返り、マリウスに入ってくるように目配せした。マリウスは軽く頷き、霊たちの襲撃に備えてミレーアを後ろから抱きかかえるようにし、聖堂の中へ入っていった。キースがその後に続く。

 永遠に続くように見える鏡の通路とその脇の壁に青白く浮かび上がる炎は、時間の感覚を麻痺させ、天地が逆になってしまったような錯覚を抱かせた。

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