二十八
王城に着いたナスターリアは城の裏手にあたる北の通用門からシュハール川に面した兵士用通路を通って石の階段を上がり、守備兵の溜まり場を経由して南東の螺旋階段を上がったところにある政務室に入った。ナスターリアの勇名は城内にも轟いているようで、すれ違う兵士たちがみな立ち止まってナスターリアに敬礼した。
「陛下との謁見は難しそうだ」
政務室に入ったナスターリアに、表情を変えることなくダルシアは告げた。
「先ほど侍医から報告を受けたのだが、衰弱が激しくとても人と会える状況ではないらしい」
「お歳を召されたとはいえ、そのように急に病状が悪化されるなんて……。一昨年の辺境守備隊謁見の儀の際は、国境まで下向されるほどお元気であらせられたのに……」
ナスターリアは、にわかに信じ難い気持ちであった。ナスターリアの知っている王は、老いたとはいえなお「獅子賢帝」と呼ばれた風格と権威に満ちていた。
「こうなると、お世継ぎについても早急に手を打たなければならない」
ダルシアは隣に立っているカルバス将軍をちらりと見ながらナスターリアに言った。
「拉致されたエルサス殿下を早急に奪還せねばならん。陛下に万が一のことがあれば、エルサス殿下はただ一人の王位継承者だからな」
沈痛な面持ちで将軍は言い、そしてナスターリアに向き直って言葉を継いだ。
「ナスターリア・フルマード、貴公を王都守備隊副司令官に任ずる。今朝の幕僚会議において、私の推薦で発議し満場一致で昇進が決まった。また、以前送った命令書に従わなかったことは不問に付す。その代わりに貴公には新たに重要な命令を受けてもらおう。エルサス殿下の奪還について、貴公に指揮を執ってもらいたい。必要な人数は集める。すぐに発ってくれ」
ナスターリアは将軍に向かって最敬礼し、言った。
「ありがとうございます。謹んで拝命いたす所存でございます。殿下奪還に必要な兵員ですが、ラードル隊長の鷹嘴隊の者を数名貸していただければ十分です。また、殿下と聖堂騎士を追うためにも、あのシバリスという老人とラードル隊長が連れてきた娘と話をさせていただきたい。何か手がかりを知っている可能性が高いと考えます」
シバリスは王城の地下牢に投獄されていた。エレノアは牢ではないが厳重に見張りのついた塔の一室に監禁されている。
「あの二人については、既に尋問官が尋問を始めている。なかなか口を割らないらしいが」
ダルシアが唇の端を歪めて、言った。
「あの老人は元円卓の騎士です。強制的な拷問は逆効果かと存じます」
ナスターリアは将軍の眼をことさら意識して応えた。
「そこまで言うなら、ここは副司令官に任せてみよう、ダルシア議長。全ては殿下奪還のためだ」
カルバス将軍はダルシアに言った。
ダルシアの眼に拒否の色が走ったことをナスターリアは見逃さなかった。何故ダルシアは、私があの老人たちと話をすることを望まないのだろうか。ナスターリアは表情を変えずに思った。
「閣下のお考えのままに」
ダルシアもすぐにいつもの表情に戻り、一礼しながら言った。
ナスターリアは側塔から続く長い螺旋階段を降りて獄舎の入り口に向かった。狭いが分厚い扉の前に上半身の筋肉が異様に発達した獄吏たちが座っており、ナスターリアを嘗め回すように見た。
ナスターリアはダルシアのサインの入った通行許可証を見せて獄舎に入った。獄舎には灯りがなく真っ暗で、獄吏の溜まり場に架けられている数本の蝋燭が唯一の光源であった。獄吏はその蝋燭の一つを手にすると、ナスターリアの先に立って獄舎の奥に進んでいった。
ナスターリアは獄吏の後について、彼が右手に持っている蝋燭の火だけを頼りにシバリスの牢の前まで歩いていった。獄吏から蝋燭と鍵を受け取り、身振りで持ち場に戻るよう指示した。
ナスターリアは牢の中を蝋燭で照らした。シバリスらしき人影は薄汚れた粗い布にくるまり、堅そうな木製の寝台に横たわっていた。
「シバリス殿。起きておいでか?」
ナスターリアは牢の鉄格子越しにシバリスに声を掛けた。寝台の上の影が微かに動いた。蝋燭の灯では牢の中を全て照らすことは出来ず、シバリスの様子はしかとは分からなかった。
「お話したいことがある。入ってもよろしいか?」
ナスターリアは再びシバリスに話しかけたが、シバリスから返答はなかった。
しばらく間を置き、牢の鍵を開ける。念のために腰の剣に手を添えながら、慎重に寝台に近付いていった。蝋燭を掲げてシバリスを包んでいる布をめくった。
修道院で着ていたローブも剥ぎ取られ、古びた腰巻きだけの姿で横たわっているシバリスの背中に、古い剣創だけではなく最近付けられたであろう、生々しい傷跡がいくつも刻まれていた。顔は青黒く腫れ上がり、眼は潰れて見えなくなっているようだ。手足の指は一本一本折られており、拷問の激しさを容易に想像させた。
ナスターリアはむしろ怒りを覚えて思わずシバリスを抱きかかえた。尋問官の馬鹿どもに拷問を許可したのは将軍か、それともダルシアか。左手でシバリスの頬を撫で、固まってこびりついた血痕を拭った。喋ることは出来るように歯は折られていないようだ。
「シバリス殿、しっかりなされよ! このような仕打ち、なんとお詫び申し上げればよいか分からぬ。私がここにお連れしたばかりに……」
何故かは分からないが急に胸に込み上げてくるものがあり、ナスターリアは思わず涙で言葉を失った。唇を強く噛む。
「……あなたが謝ることはありませぬよ……」
シバリスが呼吸の隙間から辛うじて声を絞り出した。
「シバリス殿!」
「お若いのに大したものだ。あなたの剣は、私ではとうてい躱し切れまい。太刀筋はお祖父様ゆずりですな……」
「祖父を、祖父をご存知なのですか?」
ナスターリアは驚いてシバリスの顔を見直した。
「かつての王国軍大将、サルマドフ・フルマード。若き日に何度かお手合わせいただきました。素晴らしい人物であられたよ」
シバリスの声は笑っていた。ナスターリアはあまりの意外さに言葉が出ない。
「確か、ナスターリアと申されたな。あなたにも、まだ赤ん坊のころですがお会いしたことがありますぞ。大きく……そして立派になられましたな……」
そのシバリスの声を聞いた時、ナスターリアは決断した。
「シバリス殿、どうかお聞きください。私は将軍閣下よりエルサス殿下を拉致した聖堂騎士を追う勅命を得ました。王国軍兵士としては、その命に背くことは出来ません。しかし、どうしても私には貴公が手塩にかけて育てられたマリウスという騎士が、本当に殿下を拉致したとは思えないのです。円卓の騎士の最高位にあられた貴公の薫陶を受けた男が、謀略を働くということが信じられません」
ナスターリアは半ば本気で、そして半ばシバリスの信頼を得てその言葉を引き出すために、静かにしかし熱意を込めて話した。
シバリスは大きく頷いた。そして、言った。
「……言葉を作る必要はありませんぞ。もとより、あなたには本当のことをお話するつもりでおりましたゆえな……」
ナスターリアは人さし指を唇に当ててシバリスの言葉を遮った。抱きかかえていたシバリスを一度寝台に戻し、牢の鉄格子まで戻って獄吏たちが聞き耳を立てていないか様子を窺った。こちらに注意を払っている気配はない。
再び寝台のシバリスを抱きかかえ、耳元で囁いた。
「私も貴公に聞いていただきたいことがあります。王都に向かう途上、シドゥーラク州の州都カルサスで……」
ナスターリアとシバリスの会話はそれから一時間ほど続いた。
獄舎を出たナスターリアは、王城の円塔にある部屋の一つに囚われている少女、エレノアの元を訪れた。ドワーフのゲリラ部隊隊長ラードルとその配下も一緒だ。
尋問官はエレノアを拷問するべく準備をしていたが、ナスターリアはこれを禁じた。王都を不在にしている間、エレノアとシバリスに危害が及ばないよう、ラードルの配下を護衛を兼ねた見張りに仕立て、ナスターリアは、聖堂騎士マリウスを追ってその日のうちにラードルとともに王都を後にした。
辺境守備隊小隊長ニア・サルマの命を受けた兵士がその書簡を持って王都に到着したのは、その直後のことであった。
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