二十七

 王城の西側に隣接した区画は官吏や軍の高官たちの館が建ち並んでおり、南側に拡がる上級貴族の邸宅の壮麗さに比べると質素ではあるが、落ち着いた清潔な佇まいを見せている。月明かりと控えめなオレンジ色の街灯が街並みに趣を添えており、そのもっとも南、目抜き通りであるメイヌ・タレラートに面した枢密院議長ダルシア・ハーメル邸は一枚の絵を思わせる美しさであった。

 広い居室には色味を抑えた渋い絨毯が敷き詰められており、据え付けられている背の高い暖炉ではときおり薪が弾け、小さな炎が幾つか散っている。スロートまで長く延びた炎はナスターリア・フルマードの影を壁から天井にかけて黒々と映しだし、灰になった薪が崩れるとその影が大きく揺れた。

「最後に君とこうやって話をしたのは、いつだったろうね」

 ダルシアは年代物のイール酒を硝子の杯に注ぎ、長椅子に腰掛けている普段着姿のナスターリアに手渡しながら言った。グラスを渡した手でナスターリアの肩に触れ、そのまま彼女の背中を撫でた。

「やめて」

 ナスターリアは、一瞬、何年かぶりに蘇ってきたその感覚に耐え、腰まで降りてきたダルシアの掌を右手で払いのけた。ダルシアは苦笑しながら、手にした自分の杯をひと息に飲み干した。

「まだ父上が亡くなったことを、私のせいだと思っているのかい?」

 ナスターリアは黙ったまま暖炉の炎を見つめた。彫りの深い相貌を、炎の影がより一層引き立てている。

「あの作戦を将軍に上奏したのは、確かに私だ。だが、計画通りに作戦を遂行しなかったのは、君の父上の方だ。私が立案した通りに進めていれば、誰一人として我が軍からは犠牲は出さなかったはずだよ」

 ダルシアはイール酒を自分の杯に注ぎながら言った。

「辺境の村を丸ごと囮にし、村人を犠牲にして敵を殲滅する作戦などに父が従うと思ったのか?」

 普段は情熱的な炎のような光を宿しているナスターリアの瞳が、冷たく青い光を帯びた。

「あれは軍事作戦だったんだよ。父上のお気持ちは一市民としては理解できるが、作戦自体参謀本部によって正式に検討され承認されたものだった。軍人である以上、私情に囚われず命令に服すべきだったと思うがね」

 ダルシアがそう言い終わるか終わらないうちに、ナスターリアの平手が飛んだ。

「君は野薔薇だ。美しいが、棘が鋭すぎる」

 ダルシアはナスターリアの掌を受け止めるとその横に座り、耳元で囁いた。

「そういうところに私は魅かれたんだ。君は信じてくれないかも知れないが、私は未だに君のことが忘れられない」

 ダルシアの声は高くもなく低くもない。ただ、身体の芯に直接響く。

「母上を軟禁している男の吐くセリフではないな」

 いつもの私を取り戻せ。ナスターリアは自分に言い聞かせながら辛うじて言葉を発した。

 この男の甘い言葉は毒蜂の蜜だ。王都にいた頃、まだ小娘だった自分にはそれが分からなかった。だが、今は分かる。この男は、人ならば当然持っているべき愛とか情けといった感情が欠如しているに違いない。おそらく、他人どころか、自分自身でさえ愛することもないのではないか。

「軟禁とは人聞きが悪いね。君の母上は父上を亡くされてから精神的にも肉体的にもずいぶん弱っておられたぞ。それが分かっていて王都に帰ってこなかった君が、私を非難するのかい? 母上は、私の保護なしでは父上の後を追われたかもしれなかったんだよ」

 ナスターリアは心臓を鷲掴みにされたような気がした。どのような戦いでも、どのような敵でも決して怯まぬ自信があるナスターリアだったが、今、彼女はダルシアの言葉に激しく動揺していた。

「全て私に任せておけばいい。何も案ずることはないんだ。君の母上は、単に私が衷心から保護差し上げているだけだ。他意はない。今回のことも、私には君が辺境で挙兵しないことは最初から分かっていたよ。きっと王都に戻ってきてくれると信じていた」

 干葡萄を数粒摘んだダルシアは、その幾つかは自分の口に、残りをナスターリアの口へ差し出した。部屋は汗ばむほど暖まってきており、仄かに鼻腔を擽る白檀のような香りが心地よく漂ってきた。ナスターリアは思わずダルシアの差し出した干葡萄を口にした。

 ダルシアの指を口の中に感じたとき、ナスターリアの頭の芯で濃厚な蜜の塊が弾けた。溶け始めた蜜はナスターリアの頭の中から溢れ出し、その肢体をゆっくりと包み込んでいった。

 たとえそれが毒蜜であったとしても、もう手遅れだった。ナスターリアの心と身体は痺れ、ダルシアの見た目より逞しい両腕に抱き締められてもそれに抗うことは出来なかった。ナスターリアは目眩く感覚に身を任せ、静かに眼を閉じた。

 鳥のさえずりで目が覚めた。ナスターリアは自分がどこにいるのか、最初は分からなかった。

 狭い窓から差し込んでくる眩しい朝の日差しが、そこがダルシアの寝室であると気付かせてくれた。と同時に、言いようのない自己嫌悪の波がナスターリアを襲った。傍にダルシアはいなかった。

 シーツに身体をくるんだまま、寝台から落ちるように滑り降りたナスターリアは、乱れた豊かな赤毛を左手で掻き上げ、扉の脇に据え付けられている大きな鏡に自分の姿を映してみた。気分は最悪であるにもかかわらず、普段より輝き上気した肌は、右の乳房に斜めに刻まれた刃創以外はナスターリアを数年前に戻したかのようであった。ナスターリアは、深い溜め息をついた。

 今日は王城に上がってアマード王に拝謁しなければならない。病の床から出てくることができていれば、の話だが。

 ナスターリアが王都に帰ってきた時には既にアマードの衰弱は激しく、事実上政務を執り行うことは不可能であった。今日まで拝謁が遅れたのはそれが原因だが、病状はむしろ悪化していた。

 ナスターリアは、王城に行ってもう一つやらなければならないと考えていたことがあった。それは、あの村外れにあった修道院で出会った老騎士と話をすることである。シバリスと名乗ったあの老人が、聖堂神殿の円卓でかつて最高位にあった騎士であることは城に残されている文書からも裏付けがされた。

 王都に帰還した後、ナスターリアは砂漠の都市カルサスで起きたことを全て将軍とダルシアに報告したのだが、不思議なことに彼らはあまりそれに興味を示さなかった。ナスターリアは、カルサスの聖堂神殿で起きていた異変について、あの老騎士の意見を聞いておきたかったのだ。

 脱ぎ散らかされた着衣を再び身に付けたナスターリアは、用意されていた朝食をとることもせず、使用人たちの好奇の目に見送られながらダルシアの館を出た。ダルシアは既に登城しているとのことだった。

 目に鮮やかな赤毛を自然に肩から背中に流し、タイトな白いローブに緋色のサーコートを纏った一見貴婦人に見えるナスターリアが、愛用の剣を身に付けて街を歩いている姿には、街ゆく誰もが思わず振り返らずにはいられなかった。

 ナスターリアの父親の館は、目抜き通りのメイヌ・タレラートから少し離れた王城に接する区画に現存していた。母親は、今はこの館には住んでおらず、ダルシアが言った通り彼の営む施療院の一つに収容されている。

 もちろん、王都に戻ってすぐ母親には会いに行ったのだが、別人のように衰弱した母親はナスターリアを見てもそれが誰であるかを認識できなかった。やはり、昨年帰ってきておくべきだったのか。ナスターリアは悔やんだ。

 ナスターリアは父親の館で鎧とフード付きのマントに着替えた。髪を後頭部でまとめて王国兵士士官の正装となり、王城へ向かった。

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