二十六

 ラードルは、かつてファールデン王国中央守備隊の大隊長であった。昨年その任を辞して、現在はゲリラ戦専門部隊である鷹嘴隊の隊長を務めている。

 彼の兵歴は長く、先の「大崩流」が彼の初陣であった。大崩流とは、異民族スラバキアが国境を越えて深く国土に侵入してくることをいう。ナスターリアの父親と知り合ったのもその頃で、当時の王国兵の中ではナスターリアの父と並んで「双璧」と並び称されていた。

 彼の父親も兵士であったが、ラードルが幼少の頃に異民族との戦闘で命を落としている。母親は彼が生れ落ちて間もなく亡くなっており、彼は母の顔を知らない。孤児となって以来、兵士であることが彼の人生でありその全てであった。

 ラードルは待つことに慣れていた。凍てつく針葉樹林の茂みの中、砂漠の灼熱の丘陵の陰、彼は標的が現れるまで何時間でも何日でも待つことができた。ドワーフは元々辛抱強い種族であるが、その中でも彼はとりわけ待つことを倦まない戦士であった。

 今も、彼は鬱蒼と広がる森の樹の陰で石のように踞っていた。ナスターリアと王都の守備兵たちが去って、二度目の夜が来た。

 あの修道士が只者でないことは、ラードルにも一目で分かった。幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の戦士の匂い。自分やナスターリアの父親と同じ、血と、死の匂いがした。

 あれほどの男が何の抵抗もなく縄を打たれたのだ。この朽ちた石の修道院に何も秘密がないわけがない。ラードルはここで待つことをナスターリアに提案し、彼女は完全に同意した。

 文字通り石のように気配を消していたラードルが空気の揺らぎを感じたのは、月が出ていれば天空に差し掛かっていたであろう時刻であった。今宵は新月。月は無かった。ラードルは小山のような身体に似合わない身軽さで、静かにその場から動き始めた。

 ラードルが姿を消してしばらくして、暗い朱色の革の鎧に同色のフードとマスクを身に付けた男たちが、影のように修道院を取り囲んだ。一人が木の扉に近付き、先が鈎状になった細長い鉄の棒を鍵穴に差し込んだ。

 数秒を経ずして錠が解け、扉が音を立てずに開いた。五人ほどが素早く修道院の中に入り、扉の外には三人の見張りが立った。残りは、遠目に修道院を取り囲んで森の陰にそれぞれ潜んでいる。

 修道院の中に入った男たちは、めいめい散って各部屋を探索した。

 一人の男が礼拝堂の壁に飾られているフォーラ神像の仕掛けに気付いた。彫像の掌に乗った梟の飾りを水平に捻ると、彫像が滑るように動き、壁に階下へ繋がる穴が開いた。男は左脇の革鞘に納めた短剣を引き抜き、身を屈めてその穴に入っていった。

 真っ暗な穴の中に狭い階段が続いており、男は壁を左手でなぞりながら階段を静かに降りていった。地下室の入り口で一度動きを止め、念のためにしゃがみ込んで真っ暗な部屋の様子を窺う。空気に体温が感じられ、微かにかぐわしい若芽のような香りが鼻腔をくすぐった。

 正面に小さな木の机と椅子があり、その左側に寝台らしきものがある。右側の壁面には本が納められた棚が天井まで埋め込まれていた。藁のマットレスに白い布を敷き延べただけの寝台の上の毛織の掛け布団が、人の形に膨らんでいる。

 男は姿勢を低くしたまま短剣を握り、時間を掛けて寝台に近寄っていった。人は眠っていても、ある一定の距離まで近付くと気配を悟られてしまうことがあるが、男は今までの経験からそのギリギリの距離と呼吸をわきまえていた。

 寝台に手を延ばし、掛け布団を静かに捲った。男は思わず口の中で罵った。そこに人間はいなかった。掛け布団を丸めて、人の形に寝かせてあったのである。

 修道院の地下室にある大きな本棚には仕掛けが施されており、エレノアでも動かすことが出来た。シバリスから万が一の時のためにと渡された水晶でできた聖なる梟の首飾りが微かな光を放った時、エレノアはこの隠し通路を潜り、森の外まで続く狭い横坑を抜けていた。

 シバリスは修道院の周囲にフォーラ神の祝福による結界を張っていた。その結界を越えるものがある時は、それが人であれ魔物であれ聖なる梟の水晶が知らせてくれるのだ。

 エレノアは、シバリスから渡されていた村娘の服に着替えていた。修道服は横坑を抜けてすぐの森の中にあった岩の陰に隠した。シバリスは万が一の事態に備えて修道院を脱出する方法と、エレノアがそのあと向かうべき場所も教えていた。

 今、エレノアはその指示に従って、王都近郊にあるファルマール神殿へ向かっていた。そこにいるはずの、アルマという名の修道女を訪ねるようにとシバリスは言っていた。

 ファルマール神殿は聖堂神殿ではない通常の神殿だが、毎年フォーラ神の聖誕祭が行われる由緒ある神殿である。身世代としてアムラク神殿に上がった乙女たちも、ここの出身者が多い。

 突然、漆黒の闇を切り裂く、黒鵺の鋭い鳴き声がした。びくりと身を竦めたエレノアは、その場にしゃがみ込んで辺りの気配を窺った。

 黒鵺が数匹羽ばたいて飛び去っていく音がし、森は再び元の闇と静寂に包まれた。エレノアは胸元の梟の首飾りが再び光を帯びていることに気付いた。シバリスは、この水晶自体が小さな結界を形作り、それを身に付けるものを守ってくれると言っていた。そして、その結界を破ろうとするものが近づくとき、その水晶が光を帯びて警告してくれる、と。

 正面の闇が大きく揺らいで立ち上がったように見えた。首飾りの水晶が放つ光が強くなった。エレノアは最初それを灰色羆かと思ったが、目の前に現れた巨大な獣は大きな翼を持っており、彼女を包み込むかのようにそれを拡げた。

 エレノアはシバリスから渡されていた、神の祝福が与えられた小振りの剣を抜いた。その獣は短く尖った嘴から長い舌を吐き、剣を握ったエレノアの右手首に巻き付けた。握力を失ったエレノアの手から、剣が腐りかけた落ち葉の上に落ちる。ほとんど黒に近い暗い灰色の翼がエレノアを包み、獣の顔がエレノアに迫った。

 鳥。それも、巨大な梟に見えた。嘴の上の眼がエレノアを覗き込んだ。虚ろな感情のないその眼球は、死そのものを連想させた。エレノアの肌が粟立った。急激に意識が遠のき、身体の力が抜けていく。どこか遠くで、微かに呪文を呟く男の声がしたような気がした。黒いフードを被った太った蝦蟇を思わせる男の姿が瞼の裏に浮かんだ。

 エレノアは意識を失い、柔らかい腐葉土の上に倒れた。梟は巨大な鉤爪でその身体を掴み、大きく羽ばたこうとした。

 その時、ひゅっ、と空気を鋭く切って飛んできた手斧が梟の額に食い込んだ。梟は掴んでいたエレノアを落とし、甲高い鳴き声を上げて身体を捩じった。

 梟の正面から真っ直ぐに走ってきたラードルは、右手に持った戦斧を振り被り、梟の胸に叩き付けた。そのまま体重を乗せるようにして腹まで縦に切り裂く。素早く戦斧を引き抜いて、怯んで姿勢が低くなった梟を横薙ぎした。

 梟の首が飛んだ。同時に黒い水蒸気のようなものが巻き上がって宙に舞い、巨大な梟の姿がみるみるうちに霧散した。梟の甲高い断末魔の鳴き声は、人のかすれた叫び声に変じた。

 枢機卿カルドール・ハルバトーレは、覗き込んでいた黒水晶が粉粉になると同時に、弾かれるようにその場から吹き飛び、床に尻餅をついた。水晶の欠片が額を傷付け、そこから幾筋もの血が鼻の横に伝わって流れ、ローブの襟を汚した。

 「宵闇の刃」がエレノアを拉致することに失敗しただけでなく、神の呪詛の力で召喚した魔物も何者かによって斃されてしまった。カルドールはローブの裾で額の血を拭いて立ち上がり、粉々になった水晶を足で何度も踏みつけた。しばらく罵り声を上げながらそうしていたカルドールだったが、突然壊れた人形のように、教皇の居室にある象牙飾りの椅子にぐったりと身体を預けた。

 ラードルの足下に、首のない齢を経た小さな梟の死骸が転がっている。ラードルは足でこれをつついて反応がないことを見極めると、地面に転がっている手斧を拾った。梟の死骸の隣に横たわっているエレノアをそっと抱き起こし、背負う。

 ここに留まっていてはいけない。ラードルは既に数人の足音が近くまで迫っていることを聴き取っていた。修道院を包囲していた男たちであろう。ラードルはエレノアを背負ったまま、森の中を抜ける風のようにその場から走り去った。

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