二十三
北の砦を守っていたニア・サルマは、部隊を三つに分け、三角形の地形に沿って北門から縦に三列に配していた。怪我を負った者、休息が必要な者を中央に寄せ、前方を手厚くし、最後尾に主力の一部を置くことも忘れていなかった。
オグランが援軍として到着したとはいえ、守備隊の中では最も規模が小さな隊である。物量で押し込まれたらひとたまりもないことを彼女は理解していた。小隊長の中で最も若いニアは現場の兵士から昇進して間がなく、指揮官としての経験も浅い。しかし、そのぶん現場を熟知している彼女は、兵士の士気と健康状態を常に注意深く観察していた。
ニアは先ほどから何度か、隊列の先頭から順番に兵士たちの様子を見ながら、最後尾に向かって歩いていた。
「マルカス、傷の具合はどうだ?」
ニアは中央の隊列の一番後ろに座っていた傷付いた兵士に声をかけた。マルカスはニアと同郷で、小隊長に昇進するまでニアのパートナーとして組んでいた兵士であった。
「ああ、もう大丈夫だ。いつでもお前の盾になってやるぜ」
ニアは声こそ上げなかったものの、笑顔を見せた。マルカスは左脹ら脛を、毒を付着させた剣で刺され、組織の壊死を防ぐためにその周りを大きく刃物で抉られていた。どんなに頑強な兵士でも一ヶ月は動けないはずだった。
「期待してるよ」
ニアは座り込んでいるマルカスの肩を右手で軽く叩いて言った。両手に持っている藁と布切れで作られた人形は娘からお守りとして渡されたものだろうか。はにかみつつ、マルカスもそれに笑顔で応えた。
立ち上がったニアは、再び隊列の前方に向かって歩き始めた。今夜は敵の襲撃はないのだろうか。細い眉を顰めて革製の兜を焦げ茶色の癖のある短い髪の上に冠った時、ニアは不意に背後で殺気に闇が揺れたのを感じた。ニアは咄嗟に振り返り、腰の剣に手をかけ鞘を払った。
急拵えの小さな篝火の炎に先ほどまで話をしていたマルカスの影が浮かび、炎の揺れに合わせて踊ったように見えた。ニアが駆け付けたとき、マルカスは喉元を抉られ、その場に倒れ伏していた。抱きかかえていた人形が黒く血に濡れて地面に転がっていた。
周りにいた他の傷を負った兵士たちも、マルカス同様に地に倒れ伏している。ニアはマルカスに駆け寄った。
その瞬間、篝火のない漆黒の闇の中から白い光が閃き、ニアの首筋を狙って剣が突き出された。ニアは辛うじてその攻撃を手に持っていた剣の鍔で防いだ。
白い火花が散り、剣を受け止めた勢いでニアは二、三歩後ろに退いた。周りを三人ほどの敵に囲まれている。みな、獣の革を鞣して作った鎧を身に着けており、顔は毛皮のマスクで隠されているが、どうみても身体付きは女のそれである。マルカスの喉笛を掻き切ったのと同じであろう、鉈の形をした鋭利な剣を構えている。
ニアが敵の襲来を自分の小隊に伝えようと声を上げかけたとき、長城の櫓の上から弓矢が激しく降り注ぎ始めた。ニアの小隊に動揺が走り、隊列の中で兵たちが狼狽しているのが分かった。
このままでは隊が混乱する。敵に囲まれたニアは歯噛みをした。敵の刺客は他にも隊列の中に紛れ込んでおり、篝火を消したようだ。闇に包まれた隊列から部下たちの悲鳴があがり始めた。
この刺客たちは、ヒルディアによって北の砦の隠し通路から放たれたスラバキア兵であった。フォーラフル川を渡って大きく迂回し、密かに忍び寄ってニアの小隊の横腹をついたのであった。
これとほぼ時を同じくして、ヒルディアの指揮によって北門から弓による一斉攻撃が仕掛けられた。更にヒルディアはこれらの動きに先立って、南回廊のオグラン部隊にも攻撃を仕掛けていたため、オグラン部隊の注意は南側に払われていた。
正面の刺客が腰を低く構えて大きく脚を踏み込んできた。ニアは下から上半身に向かって突き上げてくるその剣を、身を横に捌いて避けようとした。そこに右後ろにいた刺客が剣を閃かせ、同時に左後ろの刺客もニアを襲った。
ニアは一人目の攻撃を捌くと、二人目の攻撃をそのまま身体の位置を入れ替えて辛うじて躱し、振り返る勢いで身を寄せてその脇から肩に向かって剣を撥ね上げるようにして刺し込んだ。二人目の刺客の左脇の動脈が切断され、血飛沫が舞った。しかし、三人目の攻撃を躱しきれない。刺客の剣がニアの喉を襲った。ニアは死を覚悟して思わず目を瞑った。
次の瞬間、刺客の頭は巨大な大剣の一撃を横殴りに受けて肩甲骨の辺りから原型を留めない状態で吹き飛んだ。目を見開いたニアは、オグラン・ケンガが仁王立ちに愛用の超特大剣を構え、そのまま二人目の刺客の股の間から上に向かって斬り上げたのを見た。
身体の臍まで達した大剣を引き抜かないまま、オグランは最初にニアを襲った刺客に上段へ振り上げた剣を叩き付けた。大剣に刺さったままの身体と、頭から胸まで斬り下げられたその身体が垂直に交わり、そのまま壊れた藁人形のように吹き飛んでいった。
「オグラン!」
「おう、大丈夫か、ニア。行くぞ」
オグランは、腰にぶら下げていた常人の頭ほどもある角笛を吹いた。腹の底に染み渡るような音色が早暁の空気を震わせた。漆黒の闇は徐々に払われつつあり、空気が白く光を帯びて透明になってきた。
オグランの角笛に合わせて守備隊全軍が攻撃を開始した。正門前の大橋が爆破され深い濠に水飛沫を上げて墜ちると、行き場を失ったスラバキア兵は浮き足立った。狭い空間で戦うことに慣れていない兵士たちは、広い場所を求めて長城の中を北門へ移動し始めた。
時を同じくして南回廊のバリケードが突破され、合流した六百名を加えたオグラン配下の部隊およそ千人が北の砦に傾れ込んだ。南門を護っていたスラバキア兵を北に押し込み、南門を解放して外に待機していた部隊が合流すると、スラバキア兵は先を争って北門へ逃げ込んできた。
ヒルディアはいったん退却することを決断した。砦の中で戦うのはあまりに不利である。隊列を立て直して軍兵に対する指揮命令を徹底する必要がある。しかし一方で、今がファールデン王国の辺境守備隊に痛撃を与えるチャンスであることもヒルディアは理解していた。
ヒルディアは全軍に北の門から打って出、フォーラフル川をいったん越えてフォーラ神の尖塔遺跡まで撤退する号令を出した。ファールデン王国守備兵が遺跡まで深追いしてくれれば、まだ勝機がある。
スラバキア兵は北門を開け放ち、数百の騎馬兵がファールデン王国兵の隊列に向かって馬を走らせた。距離を置いて馬上から弓矢を射かける。その間に、残りのスラバキア兵たちは粛々とフォーラフル川の方へ退いていった。
王国兵たちは、片膝を立ててしゃがみ込み、盾に身体を寄せた。盾に矢が雨のように降り注いだ。
オグランは、隊列を維持してその場に待機するように伝令を走らせた。動き回る騎馬兵に向かって攻撃を加えるのは愚の骨頂である。スラバキア兵が自分たちを挑発して誘い出そうとしていることは明白だ。
その時、スラバキア兵の後を追うように、北門から鬨の声を上げながら馬に乗った一団が砂煙を巻き上げて駆け出てきた。スラバキア兵ではない。アダブル種の黒馬はファールデン王国の軍馬である。
背中に王家の紋章の盾、右手に短い槍を持った騎兵が、王国兵守備隊に弓を射掛けていたスラバキアの騎馬兵たちの横腹に攻め込んでいった。スラバキア兵の隊列が乱れる。
「ヘルガーだわ」
ニアがオグランの方を振り向き叫んだ。騎馬兵士の先頭は、大盾を背負い左手で手綱を捌き、右手に羽根槍を手にしているヘルガー・ウォルカーであった。
オグランは鋭く舌打ちをして、傍に控えている兵士たちに命じた。
「馬を回せ! お前たち、ついてこい! ヘルガーを援護する」
オグランは振り返ってニアに言った。
「このまま隊列は維持しておけ。俺たちに何があっても異民族たちを深追いしてはならんぞ。俺たちの仕事は国境を護ることだ。いいな?」
オグランは大剣を背負い、引かれてきた巨躯の黒馬に跨った。
「行くぞ!」
オグランは黒馬に鞭をくれ、地響きを上げて騎馬の先頭を駆けた。オグランに続く騎兵は百騎あまりだった。
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