二十二

 手に持っていた槍を落とした音で、兵士は我に返った。何時の間にか居眠りをしていたらしい。昨日は甘いカシュールの酒を飲み過ぎた。翌朝早いのは分かっていたのだが、みなが盛り上がっている中で、朝番の自分だけ飲まずに早く寝るなんてことは出来なかった。

 西の監視塔で巡邏の任に当たっていた兵士は、立ち上がって大きく伸びをした。次の瞬間、こめかみに矢を受けた。反射的に矢を抜こうと両手を挙げた兵士の眼と胸に次々と矢が刺さった。兵士は声を上げることもできず、石で組み上げられた城郭に倒れかかり、そのまま監視塔から城壁の外に落ちていった。

 陽が昇ってくるまでは、今少し時間を要す。

 早暁の淡い光りも未だ見えない暗闇の中で、フォーラフル川に近い古代フォーラ神殿の尖塔群の麓を蠢く影が見える。数千の騎馬が粛々と打ち棄てられ崩れかけた遺跡群の中を進んでいるのだ。何れの馬にも枚を噛ませてあり、蹄には厚く布を巻いてある。

 先頭を行くひときわ巨躯の牡馬に跨がっている女は長身で、肉付き豊かな筋肉質の身体をしていた。白獅子の頭の皮を剥いで作った兜を被り、同じく白獅子の革で作った鎧を身に着けているが、それでもその見事な身体の線を隠し切ることは出来ていない。

 野生動物のように鋭く光る大きな目と、若い血潮を感じさせる鞣革のような象牙色の肌に入れ墨を施したその女は、フォーラフル川の岸辺で一度止まり、右手を上げてあとに続く兵士に合図した。

 二人の兵士が馬を下り、荒縄を幾重にも糾って耐久性を増した縒り縄を括り付けた大人の腕ほどもある鋼でできた矢と、巨大な弓を持ってきた。その弓は剛性と柔軟性を併せ持った大木からなる弓幹を強靭な動物の腱で固めた複合弓であり、とても常人の力では引けるものではない。

 その弓を兵士から受け取った女は、大きく深呼吸すると一気にその弓弦を引ききった。矢に結わい付けられている縄は塒を巻いた巨大な蛇のように女が跨がっている悍馬の脇に置かれている。

 十分に引き絞られた弓矢が放たれ、鋭く風を切る音とともに対岸に生えている大木の幹に刺さって貫通した。兵士たちがその縄を引くと、鋼でできた矢は幹の向こう側に錨のように引っ掛かり、止まった。兵士たちは、こちら岸にある大木にその縄を堅く巻き、縛りつけた。

 巨大な弓と矢を兵士に手渡した女は、左手で馬の手綱を取り、右手でその縒り縄を握り締めると、躊躇なく岩を砕くフォーラフル川の激流を渡り始めた。騎馬兵士たちもこれに続く。何騎かが激流に飲まれて馬ごと下流に流され白い飛沫の中に消えていったが、彼らは一言も声を上げることなく粛々と川を渡った。

 この月、西の砦の巡邏を担当していたのはヘルガー・ウォルカーの小隊であった。

 かつて異民族が激流のフォーラフル川を越えて西の砦を攻めてきたことはなかった。北あるいは南の砦では、付近の村や街が掠奪されて砦付近まで異民族が迫ることもあり、そのたびに辺境守備隊が迎撃し、国境線まで追い返した。

 それに比べると西の砦は、どちらかといえば北と南の砦の守備で精神的にも肉体的にも消耗した兵士たちを癒す場所として機能していた。従って、他の砦よりも警備は手薄であることは否めない。

 ヘルガーが兵士たちの騒ぐ声で眼を覚まし、砦に満ちてきた焦げる臭いと黒煙に気付いて私室から出てきた時には既に陽が昇りかけており、砦は騒然とした空気に包まれていた。

「どうした! 何事だ」

 ヘルガーは前方から走ってくる兵士を呼び止め、その肩を掴んだ。

「異民族です! スラバキアの軍勢が城壁を越えて砦に侵入してきました」

「なんだと」

 ヘルガーはいったん私室に戻り、鉄製の鎧を装備して愛用の大盾と槍を手にした。大盾を持つ左手が微かに震えた。

 西の砦を制圧したスラバキア軍は三手に分かれた。一隊は砦の長城の中を北の砦へ向かい徒歩で攻め入った。もう一隊は騎馬で長城の側面に沿って北上し、北の砦に外から攻め入った。そして残りの一隊は南の砦に通ずる通路と門を守った。

 西の砦から直接王都に向かうためには、ファールデン王国の西の国境近く、フォーラフル川流域に広がるグレイウッドの森を越えなければならない。グレイウッドの森は樹齢を重ねた黒い巨木が深く茂る樹海であって、騎馬戦には向かない。遊牧民族であるスラバキアが騎馬を駆使した有利な戦いを行うためには、北の砦を押さえて樹海と北方の小国カザールの国境との間に広がる狭い草原地帯を突破する必要がある。

 北の砦は外から攻めるには難攻不落と言って良かったが、内側から攻められることを想定していなかった。この月、北の砦の守備にあたっていたおよそ五百名のニア・サルマの小隊は、戦闘が始めってしばらくの間は砦の外から迫るスラバキア軍に激しく抵抗し良く戦ったが、長城の内部から北の砦に侵入してきた別働隊からの挟撃に遭い、徐々に劣勢に陥っていった。

 ファールデン王国辺境守備隊隊長オグラン・ケンガが、南の砦から長城を北上して北の砦に到着した時には既に陽が落ちており、北の空には色鮮やかなオーロラが煌めき始めていた。

 オグランは西の砦から異民族侵攻の報を受けると同時に、南の砦の防衛を貿易商人ギルドの傭兵に委託し、中隊小隊合わせ千数百名を率いて北進した。通常であれば二、三日かかるところをほぼ半日で駆け上ってきたオグランの部隊は、長城の内部からスラバキア軍を攻め立てるとともに北の砦を外から包囲しているスラバキア軍の後背を襲撃した。

 予想より速いオグランの動きに、スラバキア軍は北をニア・サルマ、東、南をオグラン率いる守備隊に囲まれ身動きが取れず、戦況は膠着状態となった。

 スラバキア軍は、女王ヒルディア自らが指揮を執っていた。素晴らしい体躯をした長身のその女王は、白獅子の兜を脱ぐと北の砦の監視塔に上がり、眼下を見渡した。

 長城と一体となった砦の正門の前には巨木を組んだ幅広の橋があり、フォーラフル川から水を引いて作られた深い堀に架かっている。今はスラバキア軍によって閉じられたその門と砦の間には南北に延びる広場があり、スラバキア軍の主力約二千騎が横に長く三列に展開していた。

 砦の南回廊付近から正門の内側はスラバキア兵が支配しており、強固な城壁は今のところスラバキア軍にとって有利であった。しかし、監視塔よりも北にあるサンルイーズ山麓の草原地帯に続く北門の外はニア・サルマ率いる王国兵守備隊が未だ死守しており、そこを突破しない限りスラバキア軍は王都への道を開くことができない。

 また、正門の外にはオグラン・ケンガが指揮する兵士のうち約九百名が複数の隊列に分かれ、魚の鱗のような隊形を取って城壁から一定の距離を置いて北の砦を包囲しており、残りの数百余名は長城内部の南回廊にあるスラバキア軍が築いたバリケードを挟んでスラバキア兵と睨み合っている。

 籠城戦はヒルディアの得意とするところではない。広大な平地を戦場にしてはじめて騎馬兵の戦闘能力が生きてくるのだ。

 ヒルディアの決断も速かった。王国兵のうち最も防衛戦が薄いのは北門の部隊である。この夜は雲が多く新月であったこともあり、いつもより闇が深かった。ヒルディアは、北の砦に非常用の隠し通路があることを知っていた。暗殺に長けた数十名の精鋭をそこから密かに出砦させると共に、特に弓の上手い射手を選抜して監視塔から連なる北門の上にある長城の櫓に集めた。

 北の砦の隠し通路から影のように忍び出たスラバキア兵は、徒歩でフォーラフル川を渉った。北の砦あたりも水の流れはまだ速いが、他の流域に比べると川幅が比較的ひろく水深は浅い。黒い影の一団は川の流れに逆らわず、川上から川下へ斜めにフォーラフル川を横切っていく。足音は岩にぶつかる早い流れの音に掻き消されて、聞こえない。

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