二十一

 舟は再びバーラサクス村の船着き場に舫われていた。舟の周りを小さな羽虫が飛び回っている。羽虫は小さな柱のような群れを作り、狼の姿をしたキースのあとについてきてその尻尾に纏わり付いた。キースの上に乗ったカミラは振り向き、右手でその柱を追った。追われた羽虫の柱が崩れ、距離をおいてまた小さな柱になった。キースは羽虫から逃れるかのようにして走りだし、先を行くドルキンに追い付いた。

 かつてドルキンとマリウスの師匠であったシバリスの修道院に到着した一行は、質素な聖堂に案内された。マリウスは窓際に立ち、周囲を警戒している。シバリスは肘掛のない古びた木製の長椅子に腰掛けた。ドルキンはそのシバリスの足許に跪いて、フォーラ神への祈りの印を切った。

「ドルキン様、どうぞお座りなされ。皆様も、さあ」

 シバリスの勧めに応じて、ドルキンとミレーアはシバリスの向かい側にある長椅子に腰掛けた。エルサスとエレノアは壁際の小さな長椅子に並んで座った。カミラとキースはマリウスの傍で、やはり外の気配を気にしている。

「老師よ、お変わりなくご壮健のご様子、お慶び申し上げます」

 ドルキンはシバリスに言った。

「よして下され、ドルキン様、私ももう歳じゃ。かつてのようには参らぬ。しかし、今日は久し振りに若返った気がしましたぞ」

 シバリスが微笑みながら言ったが、すぐに引き締まった表情に変わり、言葉を続けた。

「ドルキン様、話はマリウス様から伺いました。フォーラ神の禁忌が破戒されたとのこと。あの教皇庁の拝殿の有様……。あれはまさに『荒ぶるフォーラ神』の守護魔物の一体に相違ありませぬ。我々を襲撃した者どもは、恐らく邪神を信望する狂信者たちの暗殺集団、『宵闇の刃』」

「荒ぶるフォーラ神、ですって?」

 ミレーアがぴくりと身体を震わせた。シバリスがミレーアの方を見た。

「シバリス様、この者はミレーアと申します。私とともに聖下の宣託を受けた者にございます」

 ドルキンがミレーアを紹介した。

「おお、貴女がミレーア殿か。聖下の信望厚き巫女と聞いておる」

 ミレーアは頬を微かに染め、シバリスに一礼した。そして居住まいを正して言った。

「シバリス様、今回聖堂神殿に現れた化け物は、フォーラ双生神の荒ぶる邪神を護るといわれている魔物であり、私たちを襲撃したのはそれを奉ずる司祭の末裔たちだと仰るのですか?」

「おお、ミレーア殿は、フォーラ双生神を既に承知されておられたか」

「いえ、予てから耳にはいたしておりましたが、まさかそれが事実であるとはとても信じられない思いでございます……」

「どういうことですか?」

 ドルキンがミレーアとシバリスを交互に見ながら言った。シバリスはマリウスに話した内容を再び口にした。そして、

「フォーラ双生神の歴史は禁忌として邪神ともども封印されたのじゃ。それを知るものは教皇庁でも一握りの司祭だけとなってしまった。ドルキン様が受けた聖下の宣託は、およそ察しがつきまする。禁忌破戒から三十日以内に禁忌を再度封印せねば、今はまだ聖堂神殿の領域のみに縛されている魔物どもがファールデンのみならずユースリア全土に散ることになりまする。多くの人々が死に、この大陸は再び暗黒の時代に戻ってしまうでしょう」

 と加えた。ドルキンはシバリスの言葉に頷き、そして言った。

「聖下は、双生神については何も仰らなかったが、禁忌を再び封印するよう私に宣託なされた。既にアムラク神殿で禁忌が破戒されて十日あまりが経っている。残された時間は少ない。出来るだけ早く、各地の聖堂神殿を回らなければなりません」 

「この修道院にはもう大したものは残っておりませんが、旅のために必要なものがありましたら遠慮なくお使いくだされ」

 シバリスは言い、壁際に小さく座っている少年と少女に目を移した。

「この可愛いお子方は?」

「アマード・アルファングラム三世のお世継ぎであられるエルサス殿下と、先に行方不明といわれていた当代身世代、フォーラ神の啓示を受けられた、エレノア様でございます」

 ドルキンが答えた。

 シバリスは驚愕したが、さすがにドルキンの師匠だけあって取り乱すことは無かった。ドルキンとシバリスの論点はエルサスとエレノアを今後どの様に扱うかに至った。

 エルサスは王城に帰すとして、エレノアの処遇をどうすべきかドルキンは悩んでいた。庇護者たる教皇フィオナは既に亡き人であり、何よりも邪神狂信者たちに追われている。

 ドルキンは、エレノアをシバリスに預けることを提案した。魔物が待つと分かっている各地の聖堂神殿に、身世代を連れて行くわけにはいかない。

 エルサスを除いて全員がドルキンの提案に賛同した。エルサスは王城に帰ることを拒否し、エレノアと一緒にいたい、エレノアを護ると主張した。

「殿下。殿下は城へお戻り下さい。父君、母君が探しておられましょう。正直に申し上げます。殿下がここに残られると非常に目立つのです。エレノア様が静かに安全に過ごすことが出来るよう御協力をいただけませぬか」

 ドルキンは子供だからといって侮らず、理を尽くしてエルサスを説得した。

 エルサスはエレノアを見た。光を湛えた黒い大きな瞳がエルサスを見つめている。

「私ではエレノアを護れぬと申すのか?」

 ドルキンはエルサスの眼を見て、はっきりと頷いた。エルサスは唇を噛み、俯いた。肩が小刻みに震えている。エルサスは涙を出さないように必死に堪えているように見えた。暫くそのまま黙していたエルサスが、突然ドルキンの足許に跪いて言った。

「ドルキン殿、どうか私に剣を教えてくれ! 私はもっと強くなりたい。貴方のように。私を貴方の旅に連れていっては貰えぬか?」

 ドルキンは必死に訴えるエルサスの手を取って言った。

「殿下。どうかお顔をお上げ下さい。今回の旅は、私自身今迄経験したことがないほど過酷なものとなるでしょう。そのような旅に王子たる殿下をお連れすることは出来ません」

「この国に何か異常な事態が起きており、危機が迫っていることは理解しているつもりだ。父上は、もうお年を召してしまいかつてのようにこの国を救うのは難しいと思う。父の跡を継ぐのは私しかおらぬ。私は父から王として在るにはどうすべきかを学んできた。剣術も馬術も良い師に恵まれて修練を積んできた。今の私に足りぬのは、経験なのだ。今の私に必要なのは、母の温かい胸でも父の慈愛に満ちた眼差しでもない。経験と試練が必要なのだ」

 ドルキンは驚いた。決して侮っていたわけではないが、まだ幼さの残るこの少年がこのように物事を考え、それを真っ正面から訴えてくることに心を打たれた。しかし、ドルキンは静かに言った。

「仰ることはよく分かります。しかし、たとえそうだとしても、父君、母君に何も告げずに旅立つことは、親子の信義に反します。まずは、一度城に戻られ、十分に準備を整えてからあらためて出立を考えるべきです」

 そこまで言われると、エルサスとしても反論ができなかった。確かに、自分は今、行方不明の身であるはずだ。王城の者たちが自分を探しているだろう。だが……父上はともかく、母上のもとに今は帰りたくない……。母親の寝室で見てしまったあの光景がエルサスの脳裏をよぎった。今は母に対する嫌悪感と喪失感の方が大きかった。エルサスは黙って俯いた。

「出発の準備を急ごう。老師よ、突然の訪問で大変お世話をお掛けしました。申し訳ございませぬ。エルサス様とエレノア様を、よろしくお頼み申しましたぞ」

 シバリスは微笑みながら頷いた。

 ドルキンたちはそれぞれの装備を検め、荷物を纏め始めた。事を急がねばならない。身軽であることが重要である。携行するのは必要最低限の装備にした。

 荷物を思い思いに抱えたドルキン一行は、修道院の小さな門の前で振り返り、シバリスたちに再開を約し、別れを告げた。シバリスとエレノアから少し離れたところに立っているエルサスは、いつまでもドルキンたちの後ろ姿を見つめていた。

 村の船着き場に足を踏み入れようとした時、ドルキンは異常に気付いた。

 そろそろ陽が暮れ、村々の家に明かりが灯る時分だというのに船着き場に漁師たちの舟が一艘も帰ってきていない。傍らにある漁師の家も廃屋のように真っ暗だ。ただドルキンたちが乗っていた舟が、夕方から強くなってきた北風に揺れているのみであった。

 ドルキンはマリウスに目で合図した。辺りは既に薄暗かったが、マリウスはこれを察してドルキンから離れ、後ろに下がった。その瞬間、漁師の家々の窓から燃え盛る松明が幾つも放り投げられると同時に、明るくなった船着き場に矢が雨のように降り注いだ。

 ドルキンは前方に走って矢を避け、後退していたマリウスはミレーアを背負っていた大盾の陰に押し込んだ。大盾に矢が次々と刺さった。カミラとキースは何時の間にか姿を消している。

 漁師の家や船宿の屋根の上から、十数人の射手が狙いを付けている。漁師の家々に潜んでいたのであろう兵士たちが剣や槍を構えて足早に出てきて、ドルキンたちを包囲した。五、六十人はいるであろうか。舟を舫ってあるシュハール川を背にしたドルキンたちにじりじりと迫ってくる。

 ドルキンは背負っていた大斧を両手で持ち、顔の前で構えた。マリウスは大盾でミレーアを庇いながら、少しずつ後退る。ドルキンのブーツの踵が川に達し、更に足首まで浸かった。それ以上後退できなくなったのを見計らって、兵士たちが殺到した。

 雷鳴が轟き、夜の帳が下りた空に雷光が奔った。

 凄まじい風が吹き上げてきた。風は渦を巻いて太い空気の柱を形作り、みるみる内にそれが何本にも分かれ、地上にあるものを吸い上げ、上空に放り上げた。兵士たちも例外ではなかった。必死に地面に伏せたり物に掴まろうとしていた兵士は、渦を巻く風の柱に翻弄された。辛うじて木にしがみついた兵士たちの武器は、そのまま空中に巻き上げられた。

 マリウスはミレーアの左手を引き、カミラが起こした幾筋もの竜巻の間隙を縫って舟に飛び乗った。ドルキンはそのあとから斧を構え、周りを警戒しながら舟の縁に手をかけた。と、その時、ドルキンに向かって小さな影が走り寄ってきた。

「エルサス様!」

 どうしても王城に帰りたくないエルサスは、密かにドルキンたちの後をついてきたのであった。

「エルサス様、もうここまで来たら引き返すことはできませんぞ? 本当によろしいのですな?」

 エルサスはドルキンの目を見て深く頷いた。

 ドルキンは溜め息をついてエルサスを舟に乗せた。舫いを解いて桟橋を強く蹴り、シュハール川に船首を向ける。舟は岸を離れ、川下の闇に溶けるように吸い込まれていった。

 ドルキンは舟の中を素早く探った。状況から判断して、王国兵が舟に何も仕掛けをしないはずがない。

 あった。見覚えのない樽が船尾の右の舷側にある舵取り板の下に括り付けられていた。

「ドルキン様!」

 ミレーアの叫び声に振り返った。舟の底に巧妙な切り目が入れてあり、そこから川の水が激しく流れ込んできている。樽の中には恐らく火薬が詰まっており、爆発も時間の問題だろう。既に沈没を始めている舟を守ってもしょうがない。

「川に飛び込め!」

 ドルキンは躊躇するエルサスの肩を抱いて一緒に水中に飛び込んだ。マリウスとミレーアもこれに続いた。四人の姿が川の中へ消えた瞬間に樽が爆発した。轟音を立てて舟が吹き飛ぶ。舵の破片が宙に舞った。黒い川面に白い泡が渦を巻き、そして消えた。

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