二十

 王城の政務室に慌ただしく複数の足音が響いた。アマード・アルファングラム三世はやつれ果てた姿で、王家の紋章が掘り刻まれた膝掛椅子に深く座り、辛うじてその身体を支えていた。

 アマードは王子エルサスが行方不明になったこの数日で一気に老け込んでしまっていた。王妃エルーシアはエルサスが自分とダルシアの密通の場を見てしまったために城を出奔してしまったのではないかと思い悩み、不安と自責の念で半狂乱となった。今は精神状態が不安定のため城の一室に軟禁されている。

「何事だ。王の御前であるぞ。場所を弁えぬか!」

 司令官が、装備も解かずに駆け込んできた城兵を叱咤した。

「申し訳ありません、閣下。しかし、エルサス殿下を発見したという急報が入りまして……」

「なんだと! それは確かなのか? 殿下はどこにおられたのだ?」

 司令官が叫ぶように城兵を問い質すと、彼と並んで御前に控えていた王国軍将軍ダイ・カルバスがゆっくりとこちらを向いた。

 アマードがよろめきながら立ち上がり、カルバスを押しのけるようにして、ひざまずき控えている城兵に近寄った。司令官が一歩後ろに下がり、カルバスの方をちらりと見た。城兵は、頭を垂れたまま報告した。

「はっ、つい今しがたシュハール川を、聖堂騎士どもが殿下を拉致して下り、逃亡いたしました」

「何と……。聖堂騎士が? なぜ聖堂騎士と分かった?」

 アマードは兵士を直接詰問した。兵士は平伏して答えた。

「殿下を拉致した者共は五人でした。そのうち一人が聖堂騎士の甲冑を身に着け、舟の舵を取っておりました。聖堂騎士の名前はマリウス。自分は奴と、何度か試合で剣を交えたことがございますゆえ、あの姿形を見間違えることはございませぬ」

「ああ、神よ……。フィオナが崩御してからというもの、何もかもおかしくなってしまった……。カルドールめ、一体何を企んでおる……」

 アマードは深く息を吐き、肩を震わせたかと思うと、その上体が大きく揺らいだ。昏倒して倒れ掛けた王にカルバスが素早く近寄り、身体を支えた。

「陛下、お気を確かに。おい、陛下を御居室へお連れしろ」

 カルバスは王の側近に命じた。

「カルバス、すまぬ。やはり儂が間違っておったのかも知れぬ。あとを……あとを、頼む……」

 アマードは苦し気にカルバス将軍に囁き掛けると、側近と衛士に支えられながら蹌踉として政務室から立ち去っていった。そこにはもう獅子賢帝といわれたかつての英雄の姿はなかった。

 カルバスは王の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、司令官に向き直った。

「閣下、時は参りました。今こそ我々の本懐を遂げる時ですぞ」

 司令官が言った。

「フォルカ、よもや抜かりはあるまいな?」

 カルバス将軍は深く頷いて、フォルカ王国軍司令官に問うた。

「はい。既に兵の主力部隊を教皇庁に展開済みです。各貴族領の諸侯たちからも挙兵の準備は完了しているとの報告が上がってきております」

 司令官は答えた。

「よろしい。主力部隊を教皇庁に突入させよ。枢機卿、司祭は全員拘束する。抵抗するものは斬り捨てて構わぬ。南部方面守備大隊から五十名ほど選んで、エルサス殿下の探索にあたらせる。王都全域に戒厳令を敷き、全ての領民の外出を禁ずる。これを破るものは例外なく捕縛し、投獄するように」

 将軍は一気に命を下した。そして司令官に、

「それから、ダルシアを。地下牢のダルシア・ハーメルを連れてこい」

 と加えた。司令官は頷き、先ほど政務室に駆け込んできた兵士に同じ命令を発した。

 王城の牢は王の居館と反対側にある東の城壁の地下にあった。巨石を組んで構築された獄舎は堅牢でかつ側面がフォーラフル川に接しており、脱出することはまず不可能である。

 ダルシアとの密会と不倫を錯乱した王妃自身の口から聞かされたアマード王は激怒し、ダルシアを枢密院議長の任から解いてこの王城地下の牢に投獄した。ダルシアにとっては心当たりのない濡れ衣であったが、他ならぬ王妃の自白だ。どのような申し開きも通りはしなかった。

 城兵と獄吏が慌ただしく彼の牢の錠を開けたとき、ダルシアは寝台の上に端座しており、静かに微笑んでいた。端正な引き締まった相貌に緊張はなく、むしろ城兵たちから伝わってくるこの城の混乱を愉しむ趣が眼に現れていた。しかし、その深淵のような瞳は虚無に満ちていた。底知れない深い闇のようだ。

 ダルシア・ハーメルは、王都の貧しい貴族の生まれであった。貴族は自分の所領を持ち、そこからの税収とその身分に応じた王からの下賜金によって生計を立てていたが、バロネットと呼ばれる准男爵の爵位を持つ身分の低いダルシアの父親には所領もなければ下賜金も僅かばかりのものであった。

 父、アドル・ハーメルは貴族としては底辺の職である王国兵下士官であったが、若い女と駆け落ちして幼いダルシアとその母親を捨てた。ダルシアも父親の記憶がほとんどない。父親の出奔後、母親は織物の内職で家計を支えてきたが、とても追いつくものではない。借金のみが重なり、幼いダルシアも近くの市場で働くようになった。

 当時敬虔なフォーラ神教徒であった母親は乏しい蓄えから神殿司祭への上納金を欠かさず、ダルシアも神殿で母親と共に祈りを捧げる日々であった。しかし、無理を重ねて身を削り、心を削ってきた母親がついに倒れた。医薬に費やす蓄えもなく、ダルシアにできるのは神に祈ることばかりであった。

 ダルシアの祈りに反して母親の病状は悪化し、ダルシアが市場での労役を終えて帰宅した冷たい雨の日の早朝、母親はこの世を去っていた。人知れず尽きた、儚く、幸薄い命であった。骨と皮ばかりの、虫けらのような死骸だけが残された。

 ダルシアは父方の親戚に引き取られたが、男色を好む叔父の腹を刺して重傷を負わせ、各地の孤児院を転々とすることになった。しかし、次第にその類稀な頭脳と美しさで頭角を現し、十五歳の時に王都の貴族で上級官僚であったファルアラン伯爵の養子となり、その寵愛を受けた。その後、王都大学を首席で卒業すると同時に、財務府へ任官されたのであった。

 ダルシアの心の底深くに澱のように拡がり沈んでいた暗い怒りや憎しみは、誰に向けられたものでもない。それは不治の病のように彼の心を蝕み、朽ち果てさせた。彼にとっては王も神も国も、自分自身でさえ意味のあるものではなかった。命とは暗い虚空から零れ堕ちた塵芥に過ぎない。尽きれば再び虚空に戻るだけの話だ。

「ダルシア。当初の手筈通り、教皇庁は押さえた。各地の聖堂神殿も諸侯軍による制圧が始まっている。お前の書いた筋書き通りになってきたな」

 カルバス将軍は、喜色を隠さずに言った。部下の兵士たちを全員下がらせているので、執務室には将軍とダルシアの二人きりである。

「閣下、王による国政の統一は私たちの長年の悲願でした。ようやく訪れたこの機会を逸しなされますな」

 いましめを解かれた両手首をさすりながらダルシアは言った。

「分かっておる。だが、唯一の計算違いはエルサス殿下が聖堂騎士どもに拉致されたことだ。アマード王があのようなお姿になられた以上、跡を継ぐ者はエルサス殿下しかおらぬ。なんとしてでも取り返さなければならん」

 カルバスは執務机の椅子に深く腰掛けたまま言った。

「その点については私に考えがあります」

「ほほう。どのような考えか聞かせてもらえるかな」

「辺境守備隊を。西の辺境から帰ってくるであろうナスターリア・フルマードに一働きしてもらいましょう」

 ダルシアはカルバスの向かいに置いてある背の高い椅子に浅く腰掛けて言った。

「ナスターリア? サルマドフ・フルマードの孫か。しかし、彼女には使いを送ったが、未だ返事がない」

 カルバスが憮然とした表情で言った。

「彼女は、今、王都へ向かっていると思いますよ」

「何? お前は彼女には辺境の砦から兵を挙げさせよ、と言っておったではないか。命令書にもその旨明記してある」

「ええ。しかし、彼女の性格からいってそれを額面通り受け取ることはないはずです。必ず直接王都に戻り、私たちにその真意をただそうとするでしょう」

「なんだダルシア、お前は最初から彼女を王都へ呼び戻すつもりだったのか?」

 ダルシアはいたずらっ子のような無邪気な笑顔で答えた。

「ただ帰って来いと言って、言うとおりに帰ってくるような女ではありませんからね。それに、ひとつ、だめ押しもしておきました」

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