十九
どのくらい歩いたであろうか。ドルキンが屈まねば歩けないほど低く狭い隧道から、天井も高く明らかに人手で作られた広い地下道に突き当たった。
ドルキンは左右の気配を慎重に探り、隧道から静かにその石畳みの通路に降り立った。地下道は薄暗かったが、所々に松明の点いた突出し燭台が壁面に掛けられており、辺りの様子ははっきりと分かった。ドルキンに続いてミレーアも隧道から出てきた。
ドルキンは空気の流れを測った。右から左へ静かな空気の動きがあった。ドルキンは右へ向かう。自分の現在地が分からない場合、風下に進むのは危険であることをドルキンは経験から理解していた。第一に敵が近付いてきても気付くことができない一方、自分の気配をいち早く敵に知らせることになる。第二に空気は時間が経てば立つほどその気配を変える。常に新しい空気に向かって進むことが生存率を上げる。
ドルキンは前方から人が走ってくる足音を耳で捉えた。一人ではない。二人? いや、五、六人か?
ドルキンはミレーアに後ろに下がっているように左手で合図し、腰に納めていた水晶の剣を抜いた。背中の斧ではこの場所は狭すぎて振り回すことが出来ない。剣を胸の前辺り、中段に構える。
松明は数個おきに点けられていたため、こちらに向かって走ってくる人影が少年と少女のものであることに気付くのにしばらく時間がかかった。壊れた幻灯機のように灯りがその小さな姿をちらちらと映し出す。そして、その少年と少女の後ろから幾つもの人影が追いかけてくるのが見えた。
少年は少女の右手を左手で引き、彼の右手には古びた鉄の剣が握られていた。黒く血に濡れている。ドルキンに気付いた少年はその場に立ち止まり、剣を構えた。
少女の手を離し、両手で剣を握り締めてドルキンの方に向かって飛び込んでくる。腰の据わった良い太刀筋だ。しかし、相手はドルキンである。少年が身体ごと剣を前方に突き出した時には既にドルキンは少年の背後に回り込んでおり、横を擦り抜ける際に軽く少年の右手の甲を剣の柄頭で叩いていた。少年の手は痺れ、剣が落ちて床で鐔を中心に一回転して止まった。
ドルキンは少年の後ろにいた少女を少年の方に押しやり、叫んだ。
「ミレーア!」
後方に控えていたミレーアは、少年と少女に近付き、二人の肩を抱いて更に後方に下がった。少年は身体の大きさに合わないフード付きのローブを着ており、少女はミレーアと同じフォーラ神殿の修道服を着ていた。
追い付いてきた男たちはドルキンを見て驚いたらしく、手前で立ち止まりそれぞれが刃の短い曲剣のような短剣を構えた。ドルキンはその武器に見覚えがあった。アムラク神殿でドルキンとミレーアに矢を射掛けてきた、あの紅い革の装備の襲撃者が所持していたものだ。
一番前にいた男がドルキンの顔を目がけて短剣を一閃した。ドルキンはこれがフェイントであることを見切っていた。剣を中段で右手首を中心に回転させるように振った。男は次の攻撃をドルキンに加える前に手首を切り落とされ、短剣と共に手が床に落ちた。
ドルキンは手首から先がなくなった男の左腕に沿って剣を水平に突いた。あばら骨を砕いた剣先は男の心臓に吸い込まれた。
激しく血を噴出させながら前屈みに倒れかかる男を避け、ドルキンは身体を水平に一回転させて二人目の男に迫り、剣を左首筋に叩き込んだ。血飛沫が上がる。
三人目の男は、ドルキンが二人目の男に向かって剣を振り切ったところを狙って、ドルキンに身を寄せながら右首筋を短剣で切り込んできた。ドルキンは剣を振り切った勢いでもう一回転し、振り向きざまに左脚の踵で男の顎を蹴り上げた。男の首の骨が折れ、有らざる方向に曲がったまま崩れ落ちた。口から泡を吹いている。
ドルキンは斃した男たちに近付いてしゃがみ込んだ。装備と武器を検める。アムラク神殿で見かけた未知の勢力は、この者どもであったのか……。ドルキンは立ち上がり、ミレーアたちの所に戻った。少年に向かって言う。
「君たちは何者だ? 何故ここにいる?」
「まず貴公から名乗られよ」
少年は必死の面持ちで叫んだ。再び少女の手を握っている。
ドルキンは苦笑し、剣を納めながら言った。
「これは失礼した。私の名はドルキン。ドルキン・アレクサンドル。こちらはミレーアと申す」
「ドルキン? あの聖堂騎士の? 円卓の騎士のドルキン卿?」
少年の表情に興奮の色が奔り、そして慌てて言葉を継いだ。
「私の名はエルサス。エルサス・アルファングラム。命を助けていただいたこと、お礼を申し上げる」
今度はドルキンが驚く番であった。アマード・アルファングラム三世の一子、エルサス王子が何故こんな地下道にいるのか。
エルサスの後ろで少女が被っていたフードを取り、ドルキンに一礼した。
「アナスタシア」
ドルキンの口から思わず声が漏れた。その黒く長い髪の少女はアナスタシアの少女時代に瓜二つであった。ドルキンは眩暈がした。少女は不思議そうな表情を見せ、名乗った。
「私の名前はエレノアと申します」
これを聞いたミレーアが、驚いて言った。
「エレノア? まさか、当代身世代のエレノア様でございますか?」
エレノアは恥ずかし気に小さく頷いた。
ドルキンとミレーアは顔を見合わせた。王子と神の啓示を受けた「身世代」が何故このような場所にいるのか……。更にミレーアが問い掛けようとしたとき、エルサスたちが走ってきた方向から大勢の人間の足音とざわめきが伝わってきた。今度は五人や六人ではなさそうであった。
「話はあとだ。行こう」
ドルキンは三人を促し、ミレーアを先頭に来た道を遡って走り始めた。エルサスとエレノアの後ろにドルキンが続き、背後を牽制する。複雑に入り組んだ迷路のような通路を、一行は走り続けた。
ミレーアは極力狭い道を選ばず、より広い通路を選びながら先導していった。ドルキンはそれを感心して見ていた。迷路に入ったとき、最もやってはならないことは、より狭い隘路に向かうことである。大抵の場合それは行き止まりに繋がる。特に人の手で作られた迷路は、より広い路を選ぶことによって最終的には出口に到ることが多い。
ミレーアが立ち止まった。大きな木の扉を前にしてドルキンを振り返った。そのあとに扉に到達したエルサスとエレノアもこちらを振り返った。三人とも額に汗が噴き出し、肩で息をしている。
ドルキンはまだ追跡者たちを撒けていないことを知っていた。木の扉の鉄輪の把手を引いてみる。鍵が掛かっており扉は開かない。足音が迫ってくる。
ドルキンは三人を扉から離れさせて右手に持っていた水晶の剣を鞘に納め、背負っていた大斧を両手に持った。大きく深呼吸して斧を扉の鍵の部分に振り下ろす。斧は鈍い音を立てて鍵穴が空いている部分に食い込んだ。
右脚で扉を押さえながら斧を引き剥がす。再度渾身の力を込めて斧を振り下ろした。斧は鍵穴をウォードごと破壊し、扉を貫通して止まった。
ドルキンはその扉の鍵の部分を強く蹴った。扉が大きな音を立てて外れ、人が通れる隙間が空いた。素早くミレーアがその隙間をくぐり、エルサスとエレノアの手を引く。
ドルキンは右手に大斧、左手に水晶の剣を持ち、追い付いてきた追跡者たちを仁王立ちとなって迎えた。
ドルキンの表情が凄まじい鬼の形相となった。
最初の男が三日月の形をした刀を持つシミターを一閃させた。左手の剣でこれを受けたドルキンは、右手で斧を男の頭上目がけて振り下ろした。男はそれを剣の刃で受け止めようとしたが、ドルキンの斧はその刃を粉砕し、そのまま男の顔面を縦に裂き、鎖骨を折って止まった。それを見た後に続く男たちは一瞬怯み、背後に後退した。
ドルキンはその隙を捉まえ、素早く身を翻し、武器を両手に持ったままミレーアたちがくぐった壊れかけた扉に体当たりした。扉は蝶番ごと吹き飛んで倒れた。
そのままの勢いを利用して頭から一回転したドルキンは素早く立ち上がり、周りを見回した。その部屋はカタコンベであった。神殿の地下に拡がる大規模な墳墓だ。
「ドルキン様、こちらです!」
ミレーアの声にドルキンが顔を上げた。ミレーアたちは既に上階へ続く螺旋階段を駆け上がっていた。ドルキンもそれに続いた。
黒壇のように赤黒い革の鎧を身に付けた男たちがカタコンベに殺到してきた。ドルキンはミレーアに追い付いた。
「私について来て下さい。カタコンベから拝殿への路は私が知っています」
ミレーアはプラチナブロンドの髪を翻して先頭を走り始めた。エルサスはエレノアの手を握り、その後に続いた。ドルキンは後方に注意を払いつつ、その後を追った。
厚く垂れ下がった蜘蛛の巣を両手で払い、ミレーアは走った。ドルキンは振り返り、狭い階段を駆け上がってくる追跡者の先頭を脚で蹴った。その男が仰向けに倒れ、後ろに続く男たちが次々と倒れて階段の下に落ちていった。
ドルキンたちは遂に地上階へ達した。そこは教皇庁に属する神殿の拝殿があるべき場所であった。階段から続く狭い通路を駆け上がってきたミレーアは、そこに拡がっている光景に思わずその場に立ち尽くした。
拝殿には濛々と白く濃い霧のような蒸気が充満しており、視界が悪かった。そして蒸し暑い。ミレーアの身体を熱い蒸気が包み、衣服を染透って肌にその重い水滴が粘り着くようであった。
祭壇の方向に何か大きな黒い山のようなものがあり、時折大きく脈動している。灰色の濃霧が視界を妨げ、それが何であるのか見届けることは出来なかった。そして、その黒い山が少しずつこちらに近付き始めたとき、エルサスとエレノアがミレーアに追いついた。
それは巨大な赤茶色の肉塊であった。粘液で表面がぬらぬらと光り、強烈な悪臭とともにその物体が近付いてくる。そこにドルキンが追いついてきた。ドルキンは立ち尽くしているミレーアたちに向かって叫んだ。
「何をやっている! 止まるな、走れ!」
我に返ったミレーアはエルサスとエレノアに拝殿の出口を指で示し、ついて来るよう促した。その時、追跡者たちが拝殿に傾れ込んできた。彼らはドルキンを見つけると、それぞれ剣を構え迫ってきた。
突然、追跡者の一人が悲鳴を上げた。ドルキンは悲鳴がした方を見た。その男は肉塊から伸びた長い襞のようなものに巻かれ、押し倒されていた。肉塊が次々とその上に覆い被さっていく。
押し倒された男の装備と肉の溶ける嫌な臭いがした。男は絶叫を上げた。肉塊の間からはみ出ていた男の手は、みるみるうちに白骨と化し白い蒸気を発した。
その肉塊はいくつもの塊が積み重なったような形をしており、そのひとつひとつが襞のように延び、人間の肉を求めて触手のように伸びてくる。肉塊の塊は次々と見境なく追跡者たちを襲った。新鮮な肉であれば誰のものでもよいのだ。各所で悲鳴が上がった。
「くそっ。何だ、これは!」
ドルキンは、包み込もうとしてくる肉の塊を水晶の剣で切り払いながらミレーアたちの後を追った。しかし、拝殿の出口は既に肉塊の一部によって塞がれ、ミレーアたちは行き場を失っていた。追跡者たちは次々と肉塊に飲まれ、断末魔の叫び声を上げている。ドルキンたちも完全に囲まれた形となった。
その時、白い大きな影が疾風のように拝殿の出口を塞いでいる肉塊に襲いかかった。食い千切られ、噛み千切られた肉の破片が、その場でのたうち回り、黒い水蒸気を発して消えた。狼の姿のキースは、縦横無尽にその場を跳ね、次々と肉塊を引き裂いていく。肉塊本体から聖堂全体を揺り動かす唸り声が響き渡った。
マリウスがハルバードを大きく旋回させ、肉塊を切り刻んでいく。肉塊の体内に溜まっていたガスが傷口から辺りに吹き出した。
ガスは引火性であるらしく、聖堂内の燭台から落ちた蝋燭の火が肉塊に燃え移り始めた。マリウスはガスを避け、持っていた松明で肉塊から延びてくる襞を牽制したが、肉塊は火には耐性があるようだ。マリウスに向かって残りの肉襞を伸ばし、包み込もうとする。
木の杖を両手に握りしめたカミラは、呪文を唱えながら肉塊に向かって杖を振り下ろした。きめ細かく燦めく白い霧が肉塊の上に降り注いだ瞬間、襞は凍てつき、動きを止めた。
凍りついた肉塊を、マリウスはハルバードで叩き割った。肉の壁に塞がれていた拝殿の出口が現れ、扉が大きく開いた。
「ドルキン様、こちらでございます!」
忘れようにも忘れられぬ懐かしい声に、ドルキンは思わず振り返った。
「老師!」
ドルキンはミレーアにシバリスを指し示し、エルサスに目で合図した。ミレーアはシバリスが開いた大きな鉄の扉に向かって走った。エルサスもエレノアの手を引いて扉の中へ飛び込んだ。その後にカミラとキースが続く。
肉塊がいったん萎縮し、肉の襞が本体へ戻っていったのを横目で睨みながら、ドルキンとマリウスは武器を構えたまま、出口の扉を一気に駆け抜けた。
アルバキーナ神殿は、教皇の居城である教皇庁と一体化しており、神殿といっても神殿らしい構造物は地下に拡がるカタコンベと教皇庁の正面広場に通じる拝殿、そしてそれに連なる神室のみである。シバリスがドルキンたちを導いた大きな鉄の扉は、正面広場に通じる正門であった。
シバリスはその広場の脇にある、裏庭に通じる小さな門扉の閂を外してくぐった。ドルキンたちもそれに続いた。
裏庭はシュハール川に面しており、ドルキンたちが上流の村で漁師から購入した舟が川辺に舫ってある。ドルキンは舫いを解き、マリウスは舵を取った。
シバリスは船尾に乗り込み、エルサスはエレノアの手を引いて船首へ乗り込んだ。次いでミレーア、そしてカミラと白狼が舟に乗り込んだ。
教皇庁はアルバキーナ城よりも川上にある。舟は緩やかな流れに乗ってシュハール川の右岸寄りを進んだ。暫くすると、眼前に王城が圧倒的な姿を以て迫ってきた。
断崖に面した城壁塔に兵士たちの姿が見え、彼らの動きが慌ただしくなった。どうやらドルキンたちの舟に気付いたらしい。兵士の一人がこちらを指さし、他の数名が弓を番え、矢を放ってきた。矢が数本舟の縁に刺さり、幾つかは川面に落ちた。
「マリウス!」
ドルキンは舵を取っているマリウスに向かって叫んだ。マリウスは既に舵を切り始めており、舟は大きくシュハール川の中央へ向きを変えた。矢が次々と降ってくるが、ほとんどが届かない。
ドルキン一行を押し潰すかのようであった王城の巨大な影が少しずつ離れ、舟が下流に進むにつれて小さな黒い景色の一部となっていった。
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