十八

 その頃マリウスは、ドルキンの予想通り来た道を引き返していた。道案内であるミレーア無しに地下通路を進むのは、やはり危険であった。

 マリウスは再び舟を川に出し、カミラと白狼を乗せて王城側の川下にあるバーラサクス村に向かっていた。バーラサクスの村はマリウスが育った村であり、ドルキンが孤児たちを育てていた小さな修道院がある。

 村の船着き場に舟を舫ったマリウスは、カミラと白狼を連れて村の外れにある修道院に向かった。修道院はシュハール川に面しており、正面の門をくぐるとこぢんまりと整地された庭がある。その周りは背の低いプリペットの生垣で囲まれていた。春になれば、淡い黄色の斑が入ったライム色の葉が生垣を覆うのだ。

 マリウスは幼少の頃、良くここでドルキンに剣の型を教わったことを思い出した。甘酸っぱい想い出が込み上げてくる。この修道院を訪れたのも数年ぶりであった。

 石造りの修道院は長年風雨に晒されて角が取れ、ところどころ穿たれている。建物に歩み寄ったマリウスは、ふと、まだ陽が高いこの時間に子供たちが外で遊んでいないことを不審に思った。

「カミラ、ちょっと外で待っていてくれるか?」

 カミラは白狼の首を撫でながら頷いた。マリウスは修道院の古ぼけた木の扉に歩み寄り、拳で何度か扉を叩いた。

 マリウスの視線より少し下にある扉の覗き窓に被せられていた覆いが取り外され、見覚えのある優しい老人の眼が覗いた。覆いは直ぐに元に戻され、同時に鍵を回す音がした。扉が開く。

「マリウス様、これは驚きました。あなたでしたか」

 灰色のローブを着た老人は、以前よりも小さく頼りなげに見えた。この修道士は王都にある神学院の元教授で、ドルキンが幼少の頃からその側に付き、教育と身の回りの世話に従事していた。マリウスがドルキンの庇護下に入ってからは、マリウスに対してもドルキンに対するのと同様の愛情を注いでくれたのであった。

「シバリス様、お久しゅうございます」

 マリウスは跪いて長い無沙汰を詫び、右手を胸の前で斜めに切るフォーラ神への祈りの印を示した。シバリスはマリウスを部屋の中に通し、扉を閉じようとした。

「あ、少しお待ち下さい。連れの者がおります」

 マリウスは扉から外に出て、カミラに手招きしようとした。そして、カミラの傍に見覚えのない白いローブを着た白髪の若い男が立っているのを見て、思わず腰の剣に手を添えた。

「大事ない。キースじゃ」

「キース?」

「我らは人の姿にも獣の姿にも変ずることができるのじゃ」

 キースと呼ばれた青年は、無言でマリウスに一礼した。確かに豊かな白髪といい、憂いに満ちた灰色の瞳といい、あの白狼のものを彷彿とさせた。何れにせよ、狼を子供たちがいる修道院に入れることはできない。人の形になれるものなら、それに越したことはない。

 マリウスはカミラとキースを修道院の中に通した。シバリスに紹介する。カミラの尖った猫のような耳がせわしなく動いた。

「シバリス様、子供たちは息災ですか?」

 部屋の中にも子供たちがいない。マリウスはシバリスに問うた。シバリスは困惑とも怒りともつかぬ複雑な表情で応えた。

「皆、教皇庁に召喚されておる」

「皆、ですと!? 何故、また?」

「ここの子らだけではない。王都周辺の少年少女に等しく召喚令が出ておる。隠そうとすると神殿騎士どもが無理矢理連れていくのじゃ。理由は分からぬ」

 尋常な事態ではなかった。王都に、いや、教皇庁に一体何が起きているのか……。

「シバリス様、実は……」

 シバリスには事実を包み隠さず話をしておいた方が良いと判断したマリウスは、王都を出奔したドルキンを追ってアムラク神殿へ向かったこと、サルバーラで起こったこと、地下通路を使って教皇庁に潜入しようとしたことを語った。

 最初は驚いて聞き入っていたシバリスであったが、徐々に表情が険しくなり、マリウスの話が終わる頃にはその年輪のような深い皺が刻まれた面に暗い翳が差していた。

「マリウス様、フォーラ神の禁忌が破られてしまったことは、間違いがないと存じまする。由々しき事態となりました……。今まで、ドルキン様やあなた様にお伝えしておりませんでした、フォーラ双生神の話をしておくべき時がきたのかも知れませぬな」

 苦渋に満ちた表情を浮かべたシバリスは、マリウスに次のように語り始めた。

 フォーラ信仰の歴史は古い。ファールデン紀元前を遙かに遡る太古からフォーラ信仰は存在し、元々は原始太陽教に近い古代の信仰であった。当時、フォーラは陰と陽、影と光の二律双生の世界観に基づいた双生神として誕生し、荒ぶる神と和ぎる神という二つの性格を併せ持っていた。

 荒ぶる神としてのフォーラ神は残酷な破壊神であり、人々の死と夜と憎悪を司った。和ぎる神としてのフォーラ神は生と朝と愛を司った。前者は常に乙女を生贄として求める激しい神であり、呪詛の力を以て人々を支配した。後者は乙女の敬虔な信仰心を求め、穏やかな祝福の力を以て人々を治めたのである。

 荒ぶるフォーラ神を守護するのは七つの魔物であった。フォーラ神の頭、胴、左右の手、左右の脚、そして心臓に魔物が宿っており、荒ぶるフォーラ神が生贄を求めるのはこれらの七つの魔物がそれぞれそれを求めるからである。

 魔物たちは貪欲であった。フォーラ神殿の司祭に男性司祭が多いのは、かつて神殿に奉じた女性司祭が全て荒ぶるフォーラ神と七つの魔物に生贄として捧げられ死に絶え、諸儀式が行えなくなったことから、主として神儀の形式と執行を担保するために男性司祭を奉喚していた頃の名残であった。

 荒ぶる神と和ぎる神の双生神信仰は、本来不即不離であり、片方が強くなれば片方がこれを律し、双方が常に拮抗し、形影相同の関係にある。しかし、ファールデン王国第十三代国王グラフゥスがフォーラ神信仰を国教とした際に、荒ぶるフォーラ神と七つの魔物を封じ、それに仕える修道女及び司祭を根絶やしにした。

 国の安寧を護る守護宗教としてのフォーラ信仰に、荒ぶる神は不要である。荒ぶるフォーラ神は禁忌として大陸最高峰のチェット・プラハールにある古代フォーラ神殿に封印され、歴史の闇の中に葬られたのであった。以降、和ぎるフォーラ神は唯一絶対の神としてその神格性を意図的に高められ、厳しい戒律と共に現在の姿を形作っていった。

 全てを語り終えたシバリスは、深い溜息を吐いた。マリウスは目を伏せて身動ぎもしなかったが、暫時続いた重い沈黙を破った。

「それでは、以前栄えていた邪神というのは、フォーラ神の敵などではなく、フォーラ神そのものだと言うのですか?」

「はい。邪神がフォーラ神の敵という教えは、国教としてのフォーラ信仰を意図的に広めるための作り話に過ぎませぬ。以前から、双生神の片割れである荒ぶるフォーラ神に仕えていた修道女と司祭が生き残っており、その末裔が地下に深く潜り本来のフォーラ神の力の復活を待っているという言い伝えはございました……。彼らは過激な狂信者たちで歴史の表舞台には出てきませんが、彼らに暗殺された歴代の王族、枢機卿も少なくなかったと、教皇庁の司祭の間では公然の秘密となっていました」

「今回の禁忌破戒は彼らによってもたらされたと?」

「それは、分かりませぬ。しかし、彼らの組織は地下で大きく成長を遂げており、独自の暗殺集団を持っていると言われています。彼らが関与した証拠はございませぬが、事ここに到っては、関与していないと考える方が難しいかも知れませぬ」

 マリウスは伏せていた眼を上げシバリスを見た。

「まさか、聖下を弑し奉ったのも……」

「分かりませぬ。しかし、ないとも言い切れませぬ……」

 再び重い沈黙が部屋の中を支配した。マリウスもシバリスも腕を組んで沈思したまま、互いに言葉を発することが出来ないままであった。

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