十七
「何者かがこちらに向かっておるようだ」
いつの間にかドルキンとマリウスの傍に立っていたカミラが言った。白狼はまだうっすらと星が残っている西の空に向かって低い唸り声を上げ、警戒の姿勢を取っている。
ドルキンは石の壁に身を寄せながら、未だ暗い西の地平線に目を凝らした。ミレーアも起きてきて、壁の割れ目から地平線を見つめている。
小さな砂煙が徐々に大きくなり、濛々と巻き上がる砂埃と化し、ドルキンたちが潜んでいる見張り場がある丘の前を数十の騎馬兵士たちが駆け抜けていった。朝陽が昇る方向に向かってまっしぐらに疾駆していく。地を蹴る馬蹄の音が次第に遠ざかり、再び砂煙が小さくなっていった。
「慌ただしいな」
立ち上がったドルキンは呟いた。
「東は王都の方向です。あの装備は王都兵士のものですから、この周辺の守備兵でしょう。この辺りの守備兵に招集が掛かっているとしたら、王都で何かあったのかも知れないですね」
マリウスが徐々に明るさを増してくる陽差しを左の掌で避けながら言った。
「王都にも聖堂神殿がある。禁忌が破られたとなれば神殿のある教皇庁にも異変が起きているだろう。王都の警備が強化されているとしたらやっかいだが、聖堂神殿を避けて通るわけにはいかない」
ドルキンはマントを羽織りながら言った。
「私たちの目的は教皇庁内にあるアルバキーナ聖堂神殿のみです。ですから、王城には近付かない方がいいと思います。教皇庁には地下から近付くことができるかも知れません。以前、フィオナ様から教皇庁の地下には古代に作られた地下道が網の目のように拡がっており、シュハール川から入ることができると聞いたことがあります」
ミレーアが言った。
「よし、直接王都に向かわず、迂回して川上からシュハール川を舟で下っていこう。ミレーア、地下道への入り口に案内してくれ」
シュハール川はサンルイーズ山脈をその源流としている点では、もう一つの大河フォーラフル川と同様であるが、フォーラフル川が比較的川幅が狭く急流であるのに対して、シュハール川は川幅が広く水深が浅い。肥沃な堆積物を流域にもたらし、自然災害も少ない。ゆったりと平野を流れるシュハール川が母なる流れといわれる所以である。
そのシェハール川の、王都より上流の小さな三角州に漁師たちが住む寒村がある。ドルキン一行は年老いた漁師から舟を一艘購入し、シェハール川を下った。舵はマリウスが取る。
川を下るに従って右岸の岸壁の上にアルバキーナ城の黒い影が近付き、徐々に大きくなってくる。何時の間にか暗い雲が空を覆い始め、太陽が登り切っていないにもかかわらず辺りが薄暗くなってきた。生暖かい風が川面を渡り、波も出てきた。ドルキンたちが乗った舟が波のうねりで大きく揺れた。
「マリウス様、舟を左岸に着けて下さい」
ミレーアが右手で舟の縁に掴まりながら左手で指さし、波の音に打ち消されないよう大きな声で言った。
マリウスは大きく舵を切り、王城とは逆の方向に舟を進めた。背の高い葦が茂る川岸に舟を着岸させる。
ドルキンは荷物を背負って先に下り、舫い縄を引っ張って舟を岸に近付けた。ミレーアとカミラ、白狼が順に岸に下りた。マリウスは舵が川底にぶつかって折れないよう舟の上に引き揚げてから舟を下りた。
ドルキンとマリウスは舟を葦の茂みの中まで引っ張り込み、発見されることのないように隠した。
ミレーアは葦の葉を掻き分け、悠久の年月の間に川が岸を削って出来上がった崖に近付いていった。この崖の上から東には、かつて東ファールデンと呼ばれた広大な樹海が広がっており、事実上のファールデン王国の東側国境線となっている。
ミレーアは崖の下にある大きな岩と岩の間に蹲り、両手で砂を払い始めた。
「ここが入り口なのか?」
ドルキンがミレーアの手を止め、マリウスと一緒に堆積している砂や石ころを取り除き始めた。
地面に蓋を填め込んだような鉄の扉が現れた。
ドルキンとマリウスは扉に彫り込まれた溝に手を掛けた。呼吸を合わせて渾身の力を込め引き上げる。錆び付いてなかなか開かない。二人の顔が真っ赤になり、上半身の筋肉が膨れ上がった。
扉は大きな軋みを上げ、穴に吸い込まれた空気によって砂が舞った。血のような鉄錆の臭いが鼻をついた。
ドルキンは慎重に穴に足を踏み入れた。大人の人間がようやく一人通れる程度の狭い通路が地下に向かって続いている。背負った荷物から火打金と火打石を取り出し、火口に火を付けた。硫黄を付けて乾かした付け木に火を移してから松明に火を点ける。
ドルキンのあとに、ミレーア、カミラ、白狼そしてマリウスが続いた。地下の固い岩盤を穿って掘った通路は急な坂道となっており、下へ続いている。岩壁の隙間から地下水が染み出ており、時々上から首元に滴が落ちてくる。
「足下が滑りやすくなっている。気を付けて」
ドルキンは背後に向かって声をかけ、一歩一歩踏み締めながら通路を下っていった。
ミレーアが足を滑らせた。
流石に悲鳴を上げはしなかったが、ドルキンの脇を擦り抜けるようにしてミレーアが坂道を滑り落ちていった。ドルキンは腕を伸ばしてミレーアを掴もうとしたが、届かない。
ドルキンはミレーアを追い、身を低くして跳んだ。坂道が急なので一度滑り落ちると止まらない。身体ごとミレーアに飛びついて自らの体重で滑落を止めるしかないと判断した。しかし、ドルキンはミレーアの身体を押さえることはできたが、滑落は止まらない。
急斜面の狭い通路から突然広い空間へ出たかと思うと、ドルキンとミレーアはそのまま大きく宙に放り出された。ドルキンはミレーアの頭を胸に抱え込んで庇い、身体を丸くして衝撃に備えた。
大きく弧を描いて洞窟の宙に舞った二人は、地底に拡がる湖に着水した。そのまま数メートル湖水に突き刺さるように沈む。高い水飛沫が上がり、鏡のような湖面に波紋が拡がっていった。
ドルキンはミレーアを右手に抱えたまま左手で水を掻き、両脚で強く水を蹴った。二人の身体が水面から飛び出し、ドルキンは息を大きく吸った。ミレーアはぐったりとしており、気を失っているようだ。
ミレーアを抱きかかえたまま、装備を確認する。背負っていた荷物は落としてしまったが、背中に括り付けていた斧と腰に差していた水晶の剣は失わずに済んだようだ。松明は言うまでもなく消え失せている。
不思議な地底湖であった。洞窟の空間は暗闇に覆われているのだが、湖水が青白い色を帯び、宙に向かって仄かに光りを放っている。地底湖のどこかが外界と繋がっており、その明かりが水の中に反射して湖水を伝わってくるのだろうか。ドルキンは青白く透明な水の中でミレーアを仰向けに浮かべ、その背中に身体を合わせて横向きに引っ張るようにして泳いでいった。
黒っぽい岩に覆われた岸に辿り着いたドルキンはミレーアを抱きかかえ、乾いた平らな岩の上に寝かせた。胸に耳を当て心音を探ったが、異常はなかった。水を飲んだ形跡もない。
ドルキンは立ち上がり、辺りを見回した。天井が高く、かなり広大な空間が広がっている。大洞窟だ。
マリウスたちは、どうしただろう。
この場合、自分たちの後を追ってはならない。最も賢明なのは、来た道を引き返すことだ。マリウスなら、恐らく自分を見失ったあと、無闇に探索することはしないだろう、とドルキンは考えた。
ミレーアが意識を取り戻した。軽く呻いて上体を起こし、頭を左右に振る。
「ごめんなさい」
ドルキンはミレーアが取り乱していないのが有り難かった。普通の女ならこうは落ち着いていられないだろう。
「立てるますか? とにかく、ここを離れましょう。誰も助けには来ないし、恐らくマリウスたちは一度引き返し様子を見て待機していると思います」
ミレーアは頷いて立ち上がった。ドルキンとミレーアは地底湖からぼんやりと漏れる光を頼りに、岸辺に沿って歩いていった。
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