十六

「ナーニャ様、早く、早く!」

 軽やかな少女の声が白樺の林に響いた。

 鵜の月、初夏の緑は目に鮮やかで、太陽の光が降り注ぎ群青色に輝く湖畔の丘一面に薄黄色の花が咲き乱れていた。

 少女は白樺の木に手を掛けてその周りを回った。白いローブの下に白いワンピースの清楚な修道服を身に着けており、フードを外した長い黒髪が爽やかな風に舞った。その後をもう一人、同じ服装をした少女が追う。この少女はフードを被ったままだった。

「アナスタシア、待って!」

 アナスタシアと呼ばれた少女は立ち止まって振り返ると、細く白い腕を追いかけてきた少女に向かって差し出した。息を切らして追いついた少女は、その手を握って微笑んだ。

「フィオナ、あなたは身体が強くないのだから、走っちゃだめでしょ」

 アナスタシアは悪戯っぽく笑い、フィオナを引き寄せてその胸に耳を当てた。動悸が激しい。

 アナスタシアは左手でフィオナのフードを取り、右手で背中を優しく摩った。フィオナの淡いブロンドの髪が肩の辺りまでこぼれた。

「だってアナスタシアがそんなに走るから!」

 フィオナは頬を膨らませてアナスタシアに抗議した。アナスタシアはその頬を指でつついた。ようやく、初老の修道女であるナーニャが二人に追い付いてきた。

「アナスタシア様、修道女ともあろう者がそんなに走ったりしてはいけません!」

 ナーニャは荒い息を落ち着けながら、何とか威厳を保とうと錫杖を胸の前に持ち、フォーラ神への祈りの動作を見せた。

「いいのよ、私は修道女なんかにならないの。神殿騎士、いいえ、聖堂騎士になるのよ!」

「またそのようなことを……。お二人は身世代としてアムラク神殿にお仕えする身なのですよ! 今日は教皇聖下の御印綬を枢機卿猊下から頂かねばならないのですからね」

 不意にナーニャの後ろに黒い影が立ち上がったのを見て、フィオナが叫び声を上げた。振り返ったナーニャを、灰褐色の剛毛で覆われた丸太のような腕が襲った。灰色羆だ。老修道女は半身を抉られ、白樺の林に向かって吹き飛んだ。白樺の白い幹に血飛沫が散る。

 一瞬の惨劇にアナスタシアとフィオナは凍り付いたように動くことができない。

 灰色羆は北方の高山地帯に生息する獰猛な肉食熊である。体長は大きいもので三メートルに達する。ナーニャを襲った灰色羆も優に二メートルは越えている。大きな身体に反して俊敏に二人の少女に迫り、後ろ脚で立ち上がった。

 アナスタシアとフィオナは、お互いを庇いながらその場にしゃがみ込んだ。

 灰色羆が二人に覆い被さろうとしたその時、鋭く空気を切る音と共に矢が続けざまに飛んできて、灰色羆の鼻に当たった。灰色羆は咆吼を上げながら矢が飛んできた方向を睨んだ。

 次の瞬間、矢がまた飛来し、灰色羆の左目に命中した。灰色羆は大きく両腕を振り上げ、上体を仰け反らせた。

 白樺の林の奥から灰色の髪をした少年が足早に現れ、弓を背負いながら腰に差してある剣を抜いた。両手で握る。

 片目を失った灰色羆は怒り狂い、四つん這いになって少年に向かって突進した。

 少年は猛進してくる灰色羆の死角となる失われた左目側に身体の位置を取り、その吐き気を催すような獣臭が感じられる距離まで近付いた時、剣を灰色羆の鼻に叩き付けた。灰色羆は再び仰け反り、咆吼を上げた。

 その機会を逃がさず少年は剣を水平に構え直し、そのまま身体ごと灰色羆の頭に剣をぶつけた。

 少年の剣は灰色羆の口から入り、首の後ろの頸椎に達した。断末魔の呻きと共に凄まじい蒸気のような息を口から吐き出した灰色羆は、その場に尻餅をつく。眼から光りが失われ、そのまま動かなくなった。

 少年は、灰色羆の口から剣を抜いた。どす黒い血の塊がその口から零れた。

 動転して身体の力が抜けてしまい、座り込んだままの少女たちを一瞥した少年は、剣を腰の鞘に納め、にこりともせず無言で白樺の林に向かって歩いていった。

 二人の少女は、立ち去っていく少年に声を掛けることもできなかった。

 昔の夢を見ていたようだ。

 若い頃の夢を見ることなど、ここ久しくなかった。ドルキンは苦笑して身体を起こした。そろそろ見張りを交代する時間だ。

 サルバーラ神殿を後にしたドルキンたちは、広大な湖水地方を抜けて、大陸の中央部に広がる草原地帯に達していた。今は教皇暗殺の犯人として追われる身である。ドルキンたちは街道を避け野に入り、野宿をしながら南下していた。

「マリウス、時間だ。交代しよう」

 草原に打ち棄てられた古い見張り場は小高い丘の上にあった。中心に篝火があり、その周りを崩れかけた石の壁が囲んでいる。マリウスは焦げ茶色のマントに身を包み、その壁に作られた小さな窓から丘の下を見渡していた。冷たい風が、マリウスが被っているフードを激しく揺らした。

 マリウスは眼前に広がる地平線を見ながら呟いた。

「ドルキン様、いったいこの国に何が起きているというのでしょうか。ファールデンはフォーラ神の祝福を与えられた国であったはずです。東方の『呪われし森』ならばともかく、この国はあのような魔物たちが跋扈して良い所ではありません」

 ドルキンは火が消えた篝火の前に座りしばし黙っていたが、ついに決意したようにマリウスに言った。

「教皇聖下は、宣託の内容をミレーアと私以外に知らせてはならないと言われた。だが、お前にはある程度話しておいた方が良いように思う」

 マリウスはドルキンの向かい側に腰を下ろした。

「フィオナは私に苛酷な運命が待っていると言っていた」

 ドルキンは教皇を敬称ではなく名で呼んだ。

「聖下が……」

「うむ。フィオナと会ったのは四十年振りだった。彼女が神の啓示を受けたあとアムラク神殿で〝除穢の儀式〟を受け、教皇庁に上がる前に会ったきりだ」

「アナスタシア様の行方が分からなくなったのも、その頃ということでしたね……」

 ドルキンの表情が俄かに曇り、深い眼窩の奥で黒に近いグレーの瞳が寂寥の色を帯び、そしてその眼が閉じられた。それに気付いたマリウスは慌てて言葉を継いだ。

「それで、聖下は何と」

 ドルキンは薄っすらと淡い光りを帯びて来た円い地平線を見つめながら顎に手をやり、銀色の髭を弄った。

「いにしえより封印されていた邪悪な力が蘇ると。アムラク神殿に封印された『神の禁忌』が破られてしまうと」

「神の禁忌……それはいったいどのようなものなのですか」

「かつてこの国に蔓延していた邪教があったことは知っているな」

「ええ、古来からフォーラ神に敵対していた邪神を崇める異教徒が、この国にも多くいたという話ですね」

「そうだ。五百数十年前、その邪神は自身を守護する魔物たちと共にフォーラ神の巫女によって聖堂神殿に封印されたのだ。しかし、アムラク神殿に伝わる禁忌が破られると、各地の聖堂神殿に封印された魔物たちがこの世に解き放たれてしまうというのだ」

「あのサルバーラにいた蛇の魔物が、封印を解かれた魔物だというのですか」

「うむ。アムラク神殿にも巨大な牛の頭を持つ炎の魔物が出現していた。恐らく、禁忌を破ったのは、我々が到着する前に神殿を襲った連中の仕業だろう。私とミレーアも襲撃を受けた」

「何者ですか?」

「分からん。フィオナもそこまで具体的には話してくれなかった」

「破られた禁忌を元に戻すことはできるのですか?」

「教皇に叙任される前の『身世代』がアムラク神殿で行う『身世篭もり』の祭儀を毀損することで禁忌は破られる。これを元に戻すためには、一度出現した魔物を斃し、各聖堂神殿に奉じられた聖なる武具をもって、北の最高峰、チェット・プラハールの神殿で改めて身世篭もりを執り行う必要がある」

「チェット・プラハール……あの『神の子(フィロ・ディオ)』アーメイン聖下の生まれた地で……」

「そう。あの決して人を寄せ付けることのないと言われた、雪と氷に閉ざされた古代聖堂神殿だよ」

 マリウスは絶句した。

「彼女から聞いた宣託はそこまでだ……そして、彼女は最後にこうも言っていた」

 しばらく間を置いてドルキンは呟いた。

「アナスタシアを……アナスタシアを救え、と」

「アナスタシア様を? アナスタシア様は生きておられるのですか?」

 ドルキンとアナスタシアが再会したのは、ドルキンがアナスタシアとフィオナを灰色羆から救った数日後のことであった。

 ドルキンはアナスタシアとフィオナが身世代としてアムラク神殿に奉喚される道程の護衛騎士に選ばれ、王都に近いファルマール神殿からアムラク聖堂神殿の入り口までを共にしたのである。

 まだ少年であったドルキンが、抜けるような白い肌と漆黒の長く美しい髪を持つ少女に恋心を抱いたとしても責めることはできないだろう。少年らしい潔癖さで自分の任務を全うしたドルキンであったが、その後、年に一度アナスタシアとフィオナがファルマール神殿で行われるフォーラ神聖誕祭の為に帰郷する度に、フィオナの手引きでアナスタシアと密会した。

 アナスタシアは騎士としての素質も持っていた。アムラク神殿の聖堂騎士から手解きを受けた彼女は、ドルキンと会う度に強く、そして美しくなっていった。数年後にはドルキンと剣を交えても三本に一本はドルキンが不覚を取ることもあるほどであった。

 ドルキンが若手聖堂騎士として確固とした地位を築く頃には、アナスタシアもアムラクの女神殿騎士として名前が知られるようになっていた。しかし、どんなにお互いの想いが強くなっても、どんなに強くお互いを求めることがあっても、二人は剣を交える以外に触れ合うことは遂になかった。ドルキンはフォーラ神に全てを捧げる聖堂騎士であったし、アナスタシアは次期教皇となり得るフォーラ神の「身世代」であった。

 アナスタシアがアムラク神殿の神殿騎士団を脱走し行方が分からなくなったのは、フォーラ神の啓示を受けた数日後のことである。代々、身世代の中から神の啓示を受けるのは一人であるが、歴史上、何度か複数の乙女が同時に啓示を受けることがあった。この時も、フィオナと、アナスタシアの二人が神の啓示を受けたのである。

 アナスタシア失踪の報を受け取ったドルキンは自分の立場を顧みず王都を出奔し、彼女を探した。ファールデンのみならずユースリア大陸をその姿を求めて彷徨った。しかし、彼女の行方は杳として知れなかった。

 その後、フィオナは正式に第二十六代教皇となり、ドルキンはアナスタシアへの想いを永遠に封印して円卓の騎士となったのであった。

「分からないのだよ、マリウス。彼女と再会したとき、私はなんとも言えない違和感を感じたのだ。それが何故なのか、いまでも分からない。ただ、フィオナは思い悩んでいるようだった。深く。彼女は私が立ち去る時、こうも言った。己の運命と対決せよ、神の御心ではなく自分の心に従え、と」

「神の御心に従うなと?」

 ドルキンは否定も肯定もしなかった。そして呟いた。

「私は今しばらく、宣託に従って自分の運命に身を委ねてみようと思う。そうすれば、フィオナが何を思い悩んでいたのか、分かるような気がするのだ」

 マリウスはフードを取って、跪いて言った。

「ドルキン様。私はあなたに返し切れないほどの恩を授かりました。今こそ私があなたのために働く時です。どうか、あなたの運命の旅に私もお連れ下さい」

 孤児であったマリウスの才能を見抜き、王都騎士団に引き抜いたのはドルキンであった。

 当時ドルキンは十数人の孤児を養っていたが、そこから弟子に取り立てたのはマリウスが初めてであった。マリウスはドルキンの期待に良く応え、円卓の試練もドルキンに次ぐ最年少記録で克服した。子がいないドルキンにとってもマリウスは我が子同然の存在であり、幾度も修行の旅を共にし、もはやかけがえのない分身であるといって良かった。ドルキンとアナスタシアのことを知っているのは、今やマリウスのみである。

「顔を上げなさい、マリウス。お前は私に何の恩義も感じる必要はないのだよ。私の虚しい人生は、お前によって満たされていたのだから。お前は自分の為に、自分の人生を生きよ」

 そう言ってから、ドルキンは自分の人生が虚しいと吐いた自分の言葉に驚いた。神の祝福を受け、神に殉じた自分の人生を虚しいと口にするとは……。

「ドルキン様、私はもう自分の人生はあなたと共にあると決めたのです」

 決然と言い切ったマリウスをしばらく見つめていたドルキンは、その肩に右手を置いた。

 二人はどちらからともなく手を力強く握り合った。もはや言葉は不要であった。師弟二人の影が、ゆっくりと昇ってきた朝陽を受けて長く見張り場の石の壁を越え、丘の下まで伸びていった。

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