十五
しばらく意識を失っていたようだ。エルサスは炎に焦がされ痛む背中をかばいながら身体を起こした。
自分の身体の上にあるものに気付いて慌てて立ち上がろうとしたが、あたりに散乱しているそれに躓き、その弾みで隣にも転がっているその物体に顔から突っ込んでしまった。
その部屋は恐らく、生け贄の儀式が終わったあとの屍体を始末する専用の部屋なのであろう。既に白骨と化した屍体や乾いてミイラ化した屍体、そしてまだ肉片が残っており白い小さな虫が群がっている屍体が無数に積み重なっていた。さまざまな長さと色の髪の毛が辺りに散乱している。その部屋に満ちている強烈な死臭に、エルサスは先ほどとは異なる、純粋な吐き気を催して更に胃液を吐いた。
しばらくして胃液すら吐き尽くし、完全に吐くものがなくなったエルサスはようやく胃液と涙にまみれた顔を上げた。臭いにも鼻が慣れてしまい、感覚も麻痺してきた。周りを見渡すことができるようになったエルサスは、身体に絡みついている死骸の肉片をはたき落として、屍体が起き出してくるのではないかという恐怖と戦いながら屍体の山から抜け出した。
エルサスが落ちてきた場所の反対側に窓のない木製の扉があった。その扉に向かって左側の燭台には火の点いた蝋燭が挿さっていた。エルサスは散乱している屍体を極力避けながら蝋燭に近付き、燭台ごと蝋燭を手にした。
扉の鉄輪の把手をゆっくりと引っ張ってみた。扉は開いた。
エルサスは半分開いた扉の陰から外をそっと覗いた。目の前に四角い石が敷き詰められた廊下が続いており、その左右には鉄格子が嵌められた小さな窓のある扉が並んでいる。所々にしか燭台には蝋燭が灯されておらず、その廊下がどれ程長いのか、部屋が幾つあるのかはここからは分からなかった。
不意に鍵を開ける音がして、並んでいる部屋のうちの一つの扉が開いた。エルサスは扉の陰に顔を隠し、扉を細めに開けて外の様子を窺った。
扉から出てきたのは、腰の曲がった老婆であった。薄汚いローブを着ており、フードを目深に被っているため顔は見えない。扉に鍵をかけ、エルサスがいる部屋とは逆の方向に脚を引きずりながら歩いていく。
エルサスは老婆の姿が見えなくなるまでその場で待った。扉が軋んで開く音がし、次いで静かに閉じる音と鍵を掛ける音が聞こえた。エルサスはその場でしばらく様子を見た上で、再び扉をそっと開けた。
老婆が出てきた扉は手前から五つ目の部屋のものだ。素足のエルサスは湿って滑りやすい石の廊下を、ゆっくりとその扉に向かって歩いていった。
部屋の前に立ったエルサスは、扉に嵌められた鉄格子の窓を見上げた。中を覗き込むには身長が頭ひとつほど足りない。
エルサスは屍体が散乱した部屋に戻り、改めて中を見回した。扉の右手に積み重なっている屍体の下に、木製の小さな椅子があった。手に取ってみると脚の部分が腐っており手荒に扱うと折れそうであるが、まだ使えそうだ。
エルサスは老婆が出てきた部屋の前にとって返し、その椅子を扉の前に置いて壊れないよう慎重にその上に乗った。ちょうど目の位置が鉄格子の窓の下から少し上に達した。部屋の中は真っ暗であったが、エルサスが蝋燭の灯った燭台を顔の横に翳すと、部屋の中から声がした。
「誰?」
少女の声だ。ここにも捕らわれた少女がいるのだろうか? だが、この少女はちゃんと声を出した。エルサスは一瞬うろたえ、その拍子に乗っていた椅子の脚が外れて壊れた。部屋の中が見えなくなった。
「あ、僕、いや、私の名はエルサス。君は?」
ためらう気配がし、しばらく沈黙したあとに少女が応えた。
「エレノア」
「エレノア……。君も他のみんなのように捕まってしまったのかい?」
「他のみんな? いえ、私、アムラク神殿にいたの。時間がどれだけ経ったのかもう分からないけれど、みんな殺されたわ。私ももう駄目かと思った」
「アムラク神殿ということは、君は修道女なのかい? 神殿にいた神殿騎士たちはどうしたの? 君たちを護るのが仕事だろう」
再びしばし沈黙したエレノアは、か細い震える声で応えた。涙ぐんでいるように聞こえた。
「赤い……赤い革の服を着た人たちが、突然襲ってきて……炎の……炎の魔物が……」
こらえ切れずに啜り泣き始めたエレノアに、エルサスは慌てた。
「しっ、泣かないで……何とか……うん、何とか助けてあげるから」
エルサスはエレノアを慰めようと、扉の外から囁いた。確かに、先ほどの少女たちとは違うようだが、ここにいる以上安全であるとは言えない。
「本当に?」
「うん。だから泣かないで。必ず助けに戻ってくるから、このまま待っているんだよ?」
「はい……」
エルサスは扉から離れ、老婆が姿を消した扉に向かって静かに歩き始めた。耳に全神経を集中する。
扉一つ一つに耳を付け、部屋の中の様子を探る。何れも人の気配はなかった。
部屋は二十あった。扉を一つずつ開けてみる。鍵が掛かっていない扉は三つだけだった。どれも部屋と言うよりは独房と言った方が正確だ。
エレノアが囚われている独房の隣にも鍵が掛かっておらず、扉が少し開いたままであった。エルサスは、そこに入って死角となっている扉の陰に隠れてじっと待った。
何時間経過したであろうか。微かに聞こえた扉を開ける音に、エルサスは我に返った。いつの間にか眠り込んでしまったようだ。王宮の寝室を出てから短時間の間に思いもかけぬ出来事が次々と起こり、長時間緊張を強いられていたためであろう、疲れが出てしまっていた。エルサスは慌てて身体を起こした。
扉を開けたのは先の老婆ではなかった。ボロボロのローブを着た、ずんぐりとした背の低い男がエルサスの潜んでいる扉の前を通り過ぎていった。エレノアに食事を持ってきたようだ。
男はエレノアの部屋の前で立ち止まると辺りを見回し、しばらくそのまま聞き耳を立てた。何も異常がないことを確認すると自ずと忍び笑いが漏れた。
男は慌ただしく鍵を開け、扉をそのままにして中に入った。扉が開いたままなので、部屋の前にある燭台の蝋燭の灯りが部屋の中を照らし、藁で作られた簡素な寝台の上に座っているエレノアを映し出した。
漆黒の長い髪が細い腰の辺りまで真っ直ぐに伸びており、真っ白な肌が薄暗がりに寧ろ映えていた。眉の辺りで切り揃えられている前髪の下に星を湛えた闇夜のような瞳が大きく輝いていた。整った柔らかな輪郭に縁取られた頬は監禁されているにもかかわらず健康的な桜色を保っており、淡い紅の唇から覘く歯は真珠のようであった。男は思わず生唾を飲み込んだ。
男は運んで来た茶色の粥状のスープを、扉の横にある木製の古びた棚の上に載せた。エレノアを上目遣いに見、薄ら笑いを浮かべながら寝台に近付いていった。エレノアが顔を背けた。
男は垢にまみれた右手でエレノアの髪を弄った。そして顔を近付け、勿体ぶるように囁いた。生臭い息がエレノアの頬にかかる。
「今、誰もいないんだ。婆さんも見張りの奴らも。俺たち二人だけだ」
思わず立ち上がり、男から逃れようとしたエレノアの腕を、男が掴んだ。そのまま押し倒そうとする。悲鳴を上げようとしたエレノアの口を、男が左の掌で塞いだ。
隣の独房から足を忍ばせて背後に近寄っていたエルサスは、男の腰に差してあった棍棒を素早く抜き取った。驚愕して振り返ろうとする男の横っ面に両手で握り締めた棍棒を叩き付けた。男はスープを置いた棚に激しく顔を突っ込み、頭から吐瀉物のようなスープを被った。
エルサスは棍棒を再び振り上げ、体重を乗せてその男の頭を真上から殴り落とした。頭蓋骨が潰れる鈍い音がする。男の耳の穴から血が垂れ、一度大きく痙攣した後動かなくなった。エルサスは棍棒を振るい続けた。いつしかそれが、母の寝室で見た男の姿とだぶっていた。
鈍い音を立てて棍棒が根元から折れた。
エルサスはようやく男を殴るのを止めた。肩で大きく息をしているエルサスの、白いシャツの前が真っ赤に染まっている。振り返ったエルサスの姿を見て、エレノアが手を唇に当てて小さく声を上げた。
我に返ったエルサスは、棍棒を握りしめていた指を左手で一本一本外さなければならなかった。折れた棍棒を投げ捨てたエルサスは、エレノアの手を取って言った。
「逃げよう。ここにいては駄目だ。こいつがさっき言ってたろう。あの婆さんも見張りもいないって。逃げるのは今しかない」
白いワンピースの修道服に白い毛織のブーツを身に付けているエレノアは少し後退ったが、エルサスに圧倒されるように頷いた。
「ここでちょっと待ってて。様子を見てくる」
エルサスは倒れている男の服をまさぐった。鉄の鍵束が腰のベルトにぶら下がっていた。これを奪って、男が入ってきた扉へ向かう。扉は閉まっていなかった。
その殺風景な部屋には大きめの木のテーブルと使い古した椅子が三脚置いてあり、壁には灰色のフード付きローブが掛けてあった。正面にこちら側と同じような扉がある。部屋に入ったエルサスはその扉に近付き、鉄輪の把手を握って引いてみたが、扉は開かなかった。男から手に入れた鍵を試してみる。三本目の鍵で錠が開いた。
エルサスは振り返り、ローブを壁のフックから取った。ローブの下に剣が立て掛けてあった。
エルサスはローブを頭から被り、剣を手にとって鞘から抜いてみた。あまり手入れはされていなかったが、武器としては十分通用する物であった。そのままではローブの裾が長すぎるので、腰の辺りで三回ほど折り込んで腰紐で強く留めた。そこに剣を差した。
エルサスはエレノアのいる独房に戻り、その手を引きながら言った。
「鍵が開いたよ。こちらから出られそうだ」
エルサスは錠を開けた扉の前に戻ると、これを静かに開けて様子を窺った。人の気配はない。地下の迷路を抜け出す自信はなかったが、とにかくここから逃げなければ。
エルサスは剣を右手に握りしめ、エレノアの手を左手で引いて先に進んだ。
エレノアは一瞬躊躇して独房の方を振り返ったが、意を決したように修道服に付いたフードを被り、エルサスの後に続いた。
エルサスは出てきた扉に鍵をかけた。彼は今まで感じたことのない高揚感と充実感に包まれており、不思議な自信に満ちていた。エレノアを助けるためであれば何でもできるような気になっていた。エレノアが、とても大事なもの、何よりも大切なものに思えてきたのだった。
エルサスたちが地下獄舎を脱出して間もなく、牢へ繋がる見張り部屋の鍵が開けられ、老婆と三人の朱色の革鎧を着た男たちが入って来た。
「なんてことだよ。フォーラ神の儀式の間を焼いてしまうとは。おかげで娘たちを何人も死なせてしまったじゃないか。乙女の証を持つ娘は貴重なんだ。最近の司祭たちは自分の愉しみのために儀式をするから困る。あのカルドールといい、愚かな連中さ」
老婆が掠れた声で独り言のように呟いた。そして見張り部屋に誰もいないことに気付くと、辺りを見回しながら叫んだ。
「ゴーガル! ゴーガルは、どこだい?」
老婆は舌打ちをしながら牢へ向かった。
薄汚れたフードを目深に被った顔を上げ、エレノアがいたはずの牢の扉が開いているのを見た老婆は、見かけに似合わない敏捷さでその独房に駆け込んだ。三人の男たちもその後に続いた。
息を呑む声が聞こえた。そして、一瞬の間をおいて男たちが部屋から飛び出してきた。その背中に向かって老婆は叫んだ。
「身世代、身世代を探すんだ! 逃がすんじゃないよ!」
その場で男たちの足音が遠ざかるのを確認した老婆は、フードを取った。ひとしきり獄舎を歩き回り、エルサスとエレノアの痕跡を検めた。そして、再びフードを被ると何度か深く頷いた。
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