十四

 アルバキーナ王城から続く広大な石の屋外階段は、王の居館の二階にある大広間の入り口まで続いている。王子エルサスは、その居館の西に拡がる地下迷路の一室で蹲っていた。

 錆びた鉄格子の扉は既に動かない。窓もないその部屋の、石で組まれた冷たく湿った壁には鉄の輪と、それに繋がった朽ちかけた鎖が無造作に転がっており、かつては人が囚われていたことを窺わせる。

 冷たい床に座り込んで、どのくらい時が経ったであろうか。膝まである前開きの白い絹のシャツを着、裸足でしばらく座り込んでいたエルサスであったが、暗闇に目が慣れてくると恐怖感も薄れ、周りの様子を見る余裕が出てきた。

 耳を澄ませてみると、この地下迷路も完全な静寂というわけではなかった。微かにどこからか吹いてくる風の音と鼠の鳴き声、そして何人かの人々が秘かに囁き合うような声とも音ともつかないものが耳に届いた。

 エルサスは立ち上がり、壁に身体を寄せるようにして音がする方向へ歩いていった。一度恐怖が去ると、むしろ冒険に対する期待感の方がそれを上回っていた。ましてや父王アマードは決してエルサスを甘やかしていたわけではない。既に後継者として帝王学教育を始めていたし、剣術と馬術については専門の教師を付けていた。年齢から来る精神的なひ弱さは、いずれ経験が克服してくれる。

 何度も石壁に突き当たっては角を曲がり、手探りで地下道を進んでいたエルサスは、前方に木製の頑丈な扉を見つけた。鍵は付いていない。扉の隙間から微かに灯りが漏れているようだ。人が囁くような音はこの扉の向こうから聞こえる。

 エルサスは全ての体重をかけ、両手で少しずつ重い扉を押して開き、半分開いたところで部屋へ身を滑り込ませた。中に入ると、扉は自らの重みで勝手に閉まってしまった。エルサスは慌てて扉を開けようとしたが、内側に把手がないため、体重をかけて引くことができない。重い扉はびくともしなかった。

 エルサスは扉を背にして目を凝らした。奥に細長く広がっているように思えるその部屋は、足元は真っ暗であったが、壁に掛けられた蝋燭の炎で奥がかろうじて見える。エルサスは微かにちらつく蝋燭の灯がある方へ、足で床を探るようにして進んでいった。

 突然、甲高い子供の叫び声がした。啜り泣くような声も聞こえる。

 部屋の奥で蝋燭の灯に映し出されたのは、エルサスと同じくらいか、もっと歳下の少女たちの姿であった。皆、一糸纏わぬ状態で蝋燭の灯の下に身を寄せあって蹲っている。

「君たち、どうしたの?」

 エルサスは囁くように声を掛けたが、少女たちの反応がない。よく見ると、少女たちは死んだ魚のようにうつろな眼をしており、何人かは口からよだれを垂れ流している。彼女らの口からは独特の薬草のような匂いがし、それをかいだエルサスの頭もふらふらしてきた。少女たちは何か薬のようなものを飲まされているようだ。

 エルサスは反応のない少女たちをそのままにして先に進んだ。突き当たりの扉に鉄格子の窓が、ちょうどエルサスの眼の位置にある。叫び声と啜り泣きはこの向こうから聞こえてきた。

 格子窓からその部屋の中を覗いたエルサスは、息を呑んだ。

 部屋の中央には少女が三人天井から吊り下げられている。三人とも両手を枷のようなものに戒められ、天井からぶら下がっている鎖にその枷が引っかけられているようだ。

 それほど広くない部屋の四隅には、赤黒い三角のフードとローブを着た人影があった。中央にぶら下げられている少女の前に同じ服装の人影が立っており、左手に梟の飾りの付いた錫杖を、右手に鋭く湾曲した刃の剣を持っている。いずれもフードの陰に隠されて顔が見えないが、体格から判断して大人の男だろう。

 少女の胃の辺りが切り裂かれており、深紅の臓物が露出していた。錫杖を持った男は少女の臍のあたりに剣を差し込むと、さらに縦に引き裂いた。悲鳴が上がらないということは、その少女は既に絶命しているのだろう。啜り泣きはその左右に吊り下げられている少女たちのものであった。

 男は錫杖を祭壇の脇に置いて、代わりに大ぶりの杯を左手に持った。右手の剣で少女の下腹部から赤黒いものを切り出すとその杯に載せ、祭壇に戻して錫杖を大きく左右に振り、どこの言葉か分からない呪文のような言葉を繰り返した。祭壇に祀られた神像の前にある大きな篝火の炎が勢いを増し、天井まで炎が立ち昇った。杯はあと二つあった。残りの二人の少女も同じ運命を辿るのだろう。

 エルサスはこの凄惨な光景を目の当たりにして頭に血が上るのが分かった。怒り、恐怖、そして嫌悪。何故かあの母親の部屋で見た光景とイメージが重なり、激しい眩暈に襲われた。エルサスはその場に胃の中のものを吐いた。吐くものがなくなっても、胃液を吐き続けた。

 エルサスの吐瀉の音に気付いた祭壇の男たちは、エルサスが覗いていた扉に駆け寄ってきた。エルサスは慌てて引き返そうとしたが、胃はひっくり返ったように痙攣し続け、動くことができない。扉が開き、三角フードを着た男にエルサスは右腕を掴まれた。

 その時、エルサスは、自分でも信じられない行動に出た。胃液をまき散らしながら、エルサスはその男に体当たりして突き飛ばすと、そのまま神像が置かれている祭壇に向かって走った。何故そうしたのか、後で考えても分からなかった。

 エルサスはそのまま祭壇に突っ込んだ。神像が吹き飛び、祭壇が壊れた。少女の臓物が入った杯の横にある強烈な刺激臭のする油状の液体が辺りに飛び散った。フードを着た男たちに付着する。

 祭壇の蝋燭の火が液体に引火し、一瞬にして部屋が猛火に包まれた。火は男たちを呑み込み、更に腹を割かれた少女とその横に吊り下げられている少女を包んだ。少女たちにはその液体が身体に塗り付けられていたらしい。

 少女たちの絶叫と男たちの苦悶の叫び声が交錯した。業火と化した炎がエルサスにも迫ってきた。

 炎がエルサスを呑み込む前に、エルサスは祭壇の後ろの床に開いている穴を見つけた。選択の余地はなかった。エルサスがその穴に飛び込むと同時に炎が部屋全体を覆い尽くした。エルサスはそのまま急勾配の坂を転がり落ちていった。エルサスの悲鳴が穴の中に木霊し、そして消えた。

 教皇庁の地下深くにある古い獄舎には、昼間でも明かりが射すことがない。かつては異教徒や背信者が繋がれた牢獄の冷たく湿った石の壁と床は、そこに幽閉された者の心も身体も凍てつかせたことだろう。

 狭い牢に閉じ込められた少年たちは、身体を寄せ合ってその寒さに耐えていた。教皇庁から、王都とその近郊の村に住む子供たちに召喚令が届き始めたのは教皇が崩御してすぐのことであった。召喚された子供たちは少年と少女に分けられ、この牢には少年のみが収容されている。

 ふと、暗闇の中に微かな灯りが揺れた。脚を引き摺るような足音が近付くにつれてその灯りが次第に明るさを増し、それは老婆が手にしている松明の灯りであることが分かった。

 老婆は錆びた鉄格子の牢の前に立ち、松明を顔の前に掲げて少年たちを見渡した。汚れた茶色のフードを被っているので、老婆の表情を少年たちから窺うことはできない。

 老婆に付き従っていた二人の男のうち、背が低く太った男が牢の鍵を開けた。軋んだ嫌な音を立てて錠が開き、その男は牢内に入った。少年たちを扉から遠離らせる。老婆も太った男に続いて中に入った。もう一人の背の高い男は、牢の前で周囲を警戒している。

 老婆が数人の少年を指差し、太った男が指差された少年たちの手枷に鎖を通して数珠繋ぎにした。少年たちは空腹と疲労のためか、殆ど抵抗を示さなかった。目は虚ろで顔に精気はなく、太った男に引き摺られるようにして牢の外に出る。

 老婆を先頭に太った男が少年たちの鎖を引き、背の高い男が少年たちのあとに続いた。暗く狭い通路を、老婆と背の高い男が持った松明が鬼火のように揺れながら進んでいく。

 老婆は勾配の強い石造りの螺旋階段を昇り始めた。少年のうち何人かが段差に脚を躓かせて転びそうになるのを、太った男は鎖を引いて無理矢理起き上がらせた。

 螺旋階段の行き着いた場所には大聖堂に続く木の扉があり、老婆は鉄の輪でできた把手を引いてその扉の中に入った。少年たちと二人の男もその後に続く。

 教皇庁、即ちアルバキーナ聖堂神殿の大聖堂の中は、地下牢の冷たさが嘘のように蒸し暑かった。空気は水蒸気をはらみ、ねっとりと肌に纏わり付く。

 背の高い男と太った男は、毛穴が全部開いたかのように吹き出してくる汗を拭いもしない。濃い朱の革の鎧に水滴が張り付き、足元に滴り落ちた。少年たちも額に玉のような汗をかき、髪の毛が突然の雨に降られたかのように濡れて縮んでいた。

 老婆は大聖堂の奥にある拝殿へ向かって歩いていった。本来であればそこにはフォーラの神を奉る祭壇があるはずであった。しかし、その祭壇があるはずの場所から大聖堂の中央部に亘って、巨大な赤黒い肉塊が小山のように横たわっていた。

 老婆はその分厚い肉の壁の近くまで行き、フードを取って顔を上げた。饐えた汗の匂いと、肉の腐臭が鼻についた。

「新しき血と肉をもって御身を復し、幼子の魂をもってその呪いを還らせたまえ」

 老婆が「神の呪詛」の言葉を吐くと、鞴を鳴らすような音とともにその肉塊は歓喜の声を上げた。ぬめぬめと濡れた肉の襞がゆっくりと開いていった。

 少年たちを繋ぐ鎖を持った太った男は少年たちの手枷を外して一人ずつ服を剥ぎ取り、その肉襞の前に少年を立たせた。少年たちは朦朧とした意識の中で男のなすがままであったが、肉塊が少年を包んだ瞬間、正気に戻って叫び声を上げた。声はすぐに遮られ、肉塊は次々と少年たちを呑み込んでいった。

 背の高い男はそのおぞましい姿に耐え切れなくなったのか、目を背けて額の汗を拭った。太った男は恍惚とした眼をして、少年たちが肉塊に摂り込まれているのを眺めている。

 少年たちを全て呑み込んでしまうと、肉塊はその内側からあたりに響き渡るげっぷのような音を立てて大きく震え始めた。酸が肉を焦がすような刺激臭があたりに拡がった。

 老婆は満足げに頷くと再びフードを被り、脚を引きずりながら二人の男たちとともに、再び地下道へと戻っていった。

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