十三

 人の囁く声がしたような気がした。エルサス・アルファングラムはアルバキーナ城の居館にある自分の寝室で眠っていたが、微かに聞こえる物音に目覚めた。

 この数日、深夜になってから怪しい物音を耳にすることが多くなった。最初は風の音か侍女たちが用を足す足音かと思っていたが、今、そっと頭を持ち上げて周りの様子を窺うと、エルサス付きの侍女たちは眠りこけて動く気配はなかった。

 エルサスは天蓋から垂れている華麗な刺繍が施された天蓋幕を捲って寝具を抜け出し、足を忍ばせて寝室を出ていった。囁き声と微かな物音は、ここ数日の間エルサスの眠りを浅いものにしていた。

 装飾窓から月の光がエルサスの相貌を照らし出した。まっすぐな短いブロンドの髪は母親譲りだろう。十一歳にしては強靱な顎、碧い瞳には一点の曇りもない。就寝時に履く寝室用の履物を脱いで左右の手に提げ、足音を立てないよう素足でゆっくりと歩いていく。

 今日こそ音の正体を突き止めようと、少年ならではの好奇心と探求心に突き動かされるように、エルサスは広い廊下を進んだ。右手の窓から射し込む月明かりが、左の壁に掲げられている王家代々の肖像に格子状の影を落としている。

 音は王妃の間から聞こえてきているようだ。その前に控えているはずの侍女も椅子に座ったまま意識を失ったように眠っている。エルサスは異変の兆候を感じ取ったが、好奇心の方が勝った。

 壁に顔を寄せ、侍女を起こさないよう細心の注意を払いながら壁伝いに王妃の間を覗いた。寝室の前でも、やはり侍女二人が肩を寄せて長椅子の上で深い眠りに落ちているように見えた。王子と王妃付の侍女は交代で夜を徹することになっている。普段であれば居眠りも許されない。

 異音は明らかに母后の寝室から聞こえてくる。王妃の間の扉を開いたエルサスは静かに扉を閉め、滑り込むように部屋に入った。

 王妃の間と寝室の間に扉はない。エルサスは天鵞絨の幕を捲り、そっと寝室を覗き込んだ。寝台は寝室の向こう側の壁に頭側の辺が接するように置かれている。エルサスは、その豪奢な寝台の上で白い肢体を露わにした母の姿を見て凍りついた。

 彼女の上で激しく律動し、乱れた長いブロンドの髪の間から覗かせている顔に見覚えがあった。いつだったか、父王の書斎前の石段の下で、母親が見つめていたあの男ではないか。

 男の動きが激しくなるにつれて母親の喘ぎ声も高まり、低い男の呻き声とその腕を噛んでも押し殺しきれずに漏れる彼女の叫びが交錯した。

 男が身を起こす気配がした。エルサスは辛うじて、居室の横にある次の間に転がり込むようにして身を隠した。両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。言葉にはできない激しい感情が混ざり合って彼の小さな身体の中に満ち、うなじから電流が走って一瞬ブロンドの髪が逆立ったように感じられた。

 しばらくして身繕いを終えたらしい男は王妃の間を出て、密やかに大広間の方へ歩いていった。エルサスに気付いているのかどうかは分からない。

 エルサスは深呼吸し、震える身体を両手で抱き締めながらその男の跡を尾けた。男は居館の構造を熟知しているかのように迷いがなく、影のように館の中を歩いていく。

 男は大広間を通り過ぎ、普段人が出入りしない居館南西の端にある地下への扉を開けた。薄暗い階下へ下りていく。扉の前にいつも立っている衛士も壁にもたれ掛かるように座り込んでおり、意識を失い昏睡しているように見えた。

 居館の地下には、古来より使用されていた迷路のような地下道と地下室があり、その幾つかはかつて地下牢も兼ねていたと言われている。エルサスは父王から禁じられていたこともあり、まだそこへ入ったことがない。

 地上で館を照らしていた月明かりは、地下まで届かない。漆黒の闇に包まれているにもかかわらず、男は迷いもなく地下道を歩んでいく。

 エルサスの心臓が早鐘のように鳴っていた。自らを包む暗闇と黴びた匂いのする空気、そしてこの世に自分しかいないのではないかと思わせる静寂は、エルサスの燃えていた頭を少しずつ冷やしていった。

 突然、男が消えた。

 闇の中に溶けてしまったかのようであった。男の姿を見失い、我に返ったエルサスは自分のいる位置も見失った。

 エルサスは、数百年前に没した王や王族たちが自分を凝視しているような錯覚と恐怖に襲われ、思わず母の名を呼んだ。か細い声が、漆黒の地下道に反響し、そして闇に呑まれていった。

 男は錆びかかった鉄の鍵をゆっくりと回して錠を解き、古く傷んだ小さな扉を押した。扉は高い軋みの叫びを上げながら、ゆっくりと開いた。

 扉を閉じて鍵を掛け、石組みの螺旋階段を更に下っていく。男の影を、壁に架けられた松明が異形のもののそれのように細く長く落としていた。

 螺旋階段から更に三カ所、鍵のかかった扉と迷路のようないくつかの通路を経て、男は地下からその建物の中に入った。またもや螺旋階段があり、今度はそこを上がっていく。

 三階層上がった男は懐から取り出した鍵を鍵穴に挿し、金細工が施された扉を開けた。中に入ると、北側に据え付けられている巨大な暖炉で赤々と炎が瞬き、薪が小さく弾ける音だけがしていた。

 月明かりが縦長の窓から狭く射し込むその部屋は、高い天井が一面の絵画に覆われており、フォーラ神が泉の中で復活し人々に祝福されている様子が再現されている。壁には歴代の教皇の肖像画が飾られていた。

 ちょうど第二十六代教皇フィオナ・ファルナードの肖像画の下に天鵞絨の幕が吊られており、隣の部屋からの入り口になっている。その狭い入り口から背中の曲がった背の低い老婆が幕を干からびた手で捲り、教皇の居室に入ってきた。汚い灰色のフードとローブを身に付けている。

「少し、お遊びが過ぎるようだね」

 森の老木が軋むような声で老婆が言った。

「若い女の肉はいい。しかもあの女は王妃だ。何かと便利だろう」

 神殿の権威を象徴する建築的な意匠を施した大きな木製の飾椅子に深く腰を沈め、枢機卿カルドール・ハルバトーレは呟いた。豊かな癖を持った黒髪がみるみるうちに薄くなり、王妃を抱いていたときには刃物のように研ぎ澄まされていた身体の線も、あっという間にぶよぶよと崩れた。

 その相貌は先ほどまでの枢密院議長、ダルシア・ハーメルのものではなく、湿った黒く長い髭に覆われた下膨れの顔に戻っており、老婆を見返す眼は灰色に濁っていた。眼の下の大きな隈がその相貌を一層陰湿なものにしている。

「アマード王に昔日の勢いはない。今や実質の王権を動かしているのはあのダルシアという小僧だが、それも既に我々側に取り込んだ。いずれ利用価値がなくなれば、あの女もフォーラの神の贄とすればいい」

 カルドールは彫刻が施された袖机からイール酒の瓶を取り出し、そのまま喉を鳴らして飲んだ。口の端から琥珀色の液体が零れ落ち、ガウンの襟を濡らした。

「フォーラの女神は、男を知らぬ乙女しか受け付けはせぬよ」

 老婆が乾いた声で言った。

 カルドールは鼻を鳴らし、口の中でくぐもった笑い声を上げ、老婆を見据えた。

「それにしても、フォーラ神の呪詛の力というのは凄まじいものだな。神の祝福は生命を燃やし生かすことが出来るが、呪詛はそれを凍らし破壊することが出来る。意思の弱い人間の心を操ることも、姿を思いのままに変えることも児戯に等しい。この力があれば、この国を大きく変えることが出来る」

「フォーラ神はもともと双生神なんだよ。二神にして一神。一神にして二神。いずれを欠くことも出来ない絶対の存在なんだ。歴史の闇に埋もれてしまっているだけで、どちらも力を失ってはいない。勝手にお前達が片方を忘れ去っていただけさ」

 老婆は耳障りな甲高い声で笑った。カルドールは蝦蟇のような顔を歪め、勢いを増した炎をじっと見つめた。

「件のドルキンとかいう聖堂騎士と『身世代』が一緒にいる、という情報は間違いないんだろうな?」

 カルドールは炎を見つめたまま言った。

「教皇候補となる乙女たちは、みなアムラク神殿で身を浄めるのじゃ。その聖堂騎士とミレーアがアムラク神殿に向かったことは私の卦にもはっきりと出ておる」

 老婆の声は擦れていたが、その声音には確信が感じられた。

「なんとしてでも、身世代の身柄を確保しなければならん」

 カルドールは独り言を言うように呟いた。

 次期教皇候補となるアムラク神殿の修道女は六人いたが、そのうちフォーラ神から啓示を受けた乙女は一人のみであった。エレノアという名の、バーデン州貴族領主ファーガソン・フォルバーレの末娘であった。ファーガソンはカルドールが買収していた貴族のうちのひとりだった。その娘が啓示を受けたと聞いたカルドールは自分の勝利を確信したのだった。

 しかし、その娘が教皇フィオナの崩御と前後して行方が分からなくなっている。身世代がいなくては教皇を立てることができない。神の呪詛の力を取り込んだカルドールにとって無垢の娘を意のままにすることなど容易い。王権を排除して国家権力を神の名のもとに統合し、この手に握るための正統性の証でもある。

「四十年ほど前にもこういうことがあったね」

 老婆は天鵞絨の幕の向こうにゆっくりと消えながら言った。

「あの時は啓示を受けた身世代は二人いたが、今回は一人しか居ないのだ。なんとしてでも見つけなければならん。既に聖堂騎士らと『宵闇の刃』に後を追わせたが、お前の力を以てしても居場所を見通すことはできんのか?」

 老婆から答えはなかった。

 カルドールは軽く舌打ちを鳴らし、忌々しげに天鵞絨の幕を睨み付けた。そして立ち上がると、勢いを失った暖炉の火に飲み残しのイール酒を注いだ。炎は魔物のように撥ね、勢いを取り戻した。

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