十二

 ドルキンとマリウスは、拝殿に繋がる巨石の扉に向かった。体重を乗せ、二人で扉を押す。石が軋む大きな音がして、門が開いた。

 拝殿の中はひんやりとした空気と静寂に包まれていた。先程までの異変が嘘のようだ。中央の神室に向かってすり鉢状に灰色の石段が続いている。空間は思ったより広く、天井が高い。

 ドルキンは神斧を背負い、石段をひとつひとつ下りていった。ミレーアとマリウスがこれに続く。石段の途中、真ん中の辺りでミレーアが控えめな声で呼びかけた。

「猊下! バルカール猊下! おられますか?」

 サルバーラ聖堂神殿の主たる枢機卿の名を呼ぶミレーアの声がドーム型の天井に共鳴し、小さな細波となって響き、そして消えた。

 ドルキンは神室の前に立った。ミレーアに後ろに下がるよう右手で指示し、マリウスに眼で合図した。マリウスは頷いてハルバードを両手で構え、神室の扉を挟んでドルキンの反対側に立った。

 ドルキンは神室の扉に手を掛けた。思いのほか、音を立てずに扉が開く。薄暗い神室の中には、ひとつ、人影があった。床に蹲っているように見える。

「猊下」

 ドルキンはその人影に声を掛け、後ろから肩に触れた。枢機卿の正装を身に付けたその死骸はそのまま仰向けに倒れ、頭部が神室の扉から外に覗いた。

 ミレーアが短く叫び声を上げた。倒れた弾みに金銀の刺繍が施された高位司祭の帽子が取れ、その下から干からびたどす黒い、木乃伊のような相貌が現れた。

 ドルキンが枢機卿の屍体を検めようと手を伸ばした瞬間、大きな地響きが拝殿を包んだ。ミレーアは立っていられずに石段に座り込んだ。揺れは一段と大きくなり、ドルキンは慌てて神室から飛び出した。

 ドルキンが神室から飛び出すと同時に、大理石の神室を粉砕しながら、地下から巨大な白い影が沸き立つように眼前に現れた。その衝撃で石段に激しく身体をぶつけ、神室に向き直ったドルキンは、我が目を疑った。

 神室があった拝殿のほぼ中央に立ち上がったのは、背の高い女の姿だった。ただの女の姿ではない。全身が白い鱗で覆われている。上半身だけが人間の女の形をしていた。その長い髪は真っ白な無数の細い蛇でできており、頭頂部から腰にかけて無数に絶え間なく蠢いている。下半身は幾つもの太い尾に分かれ、それぞれの先端に大きな蛇の頭を持ち、それらが鎌首を上げて赤い眼でドルキンを睨み付けた。

 白蛇の魔物は大きく上半身を振った。頭部の長い白蛇が数十匹の塊となってドルキンを襲う。

 ドルキンは横に跳んでこれを避けた。蛇たちはドルキンが立っていた場所にぶつかって散り、再び集まって絡み合いながらドルキンの後を追った。

 ドルキンは竦み上がっているミレーアの手を引き、拝殿の外へ向かった。追いすがってくる魔物の尾をハルバードであしらっていたマリウスも、これに続いた。

 拝殿の外に出たドルキンは、白い階段の下がいまだに白い大蛇で満ちているのを見た。階段の途中で立ち止まり、後ろを振り返る。外に飛び出してきたマリウスを追って、魔物は何本もの尾で石扉を破壊しながら目の前に現れた。砕けた扉の破片がマリウスの背中に飛び散った。

 ドルキンは大斧を両手で構え、マリウスを追って背後を見せた白蛇の魔物の尾のひとつに叩き付けた。先端の蛇の頭が千切れ、千切れた頭がミレーアの目の前に転がった。ミレーアは座ったまま後退った。

 白蛇の魔物は他の尾を大きく震わせてドルキンを払おうとした。注意がドルキンに向いた瞬間に、マリウスがまた別の尾をハルバードで切断する。魔物が白蛇の塊をマリウスに投げつけた。

 まともにそれを食らったマリウスに蛇たちは絡みつき、マリウスは身動きが取れない。その彼を、尾の一つが襲った。下半身から胸部に向かって巻き付く。ドルキンはマリウスを助けようと近付いたが、他の尾たちがそれを許さない。マリウスの手からハルバードが落ちた。

 ドルキンは大斧を振るい、迫ってくる別の尾を叩き切った。切られた蛇の頭は独立した生き物のようにうねり、ドルキンの頭を狙って飛んだ。後ろにステップして辛うじてそれを避けたドルキンを、更にもう一つの尾が狙う。ドルキンの太腿に巻き付いた。

 白蛇の魔物は、マリウスの胴体とドルキンの脚を巻き締めたまま階段を下りていく。階段の半ば、彫刻が並ぶ手すり側に座り込んでいるミレーアを、尾の一つが威嚇した。ミレーアは動くことができなかった。

 魔物は階段の下に降り、白い大蛇たちが蠢いている一帯にドルキンとマリウスを放り込んだ。大蛇が待ちかねたように二人に殺到する。ドルキンとマリウスの姿が大蛇の群れの中に埋まり見えなくなった。

 ミレーアは震えながらも、口の中で神への祈りを唱えた。ミレーアの右手に淡いオレンジ色の光が生まれた。ミレーアはそれをドルキンとマリウスがいるはずの場所に向かって投げる。光は大蛇たちの中に吸い込まれていった。

 ミレーアの「神の祝福」は生命を生かし、回復することができる。しかし、攻撃したり破壊したりすることができないのだ。ミレーアが今できることは、ドルキンとマリウスが生きていることが前提だが、その彼らに対してダメージを和らげる祝福を与え続けることだけである。

 魔物は白蛇の髪を逆立てて振り返った。ミレーアに向かって階段を上り始める。下半身の、全ての蛇の頭がミレーアを威嚇し、耳障りな摩擦音を出した。ミレーアは思わず身震いして後退りした。

 ミレーアの細い首筋に魔物の尾が巻き付こうとした時、雷鳴が轟き大音響と共にその尾を雷が直撃した。大蛇の頭をした尾は吹き飛び、緑色の血と白い肉片がミレーアの頬と髪に飛び散った。

 深碧のローブを着、フードを被った小さな少女がいつの間にか階段の下に立っていた。丸く膨らんだ先端に蒼い大きな玉が埋め込まれている木の杖を両手でかざしている。彼女が呪文を詠唱すると同時にその周りに炎の柱が立ち上がり、白い大蛇たちが黒焦げになって吹き上げられた。

 少女の後ろから真っ白な塊が疾風のように飛び出し、ドルキンとマリウスに群がっている大蛇たちを蹴散らした。体長二メートルをゆうに越える巨大な狼だ。

 ドルキンは生きていた。

 大蛇の拘束から解放されたドルキンは、周囲を一瞥し状況を把握すると、地面に転がっている大斧を手にしてミレーアに迫っていた魔物へ突進した。尾の先端の蛇に斧を振り下ろす。魔物は大きく上体を揺らして白蛇の塊を投げ付けたが、ドルキンは横に身体を投げ出して避け、起き上がると同時にもう一つの尾に斧を叩き付ける。

 巨大な白狼もドルキンと反対側の尾に食らいつき、それを喰千切った。少女は階段の下に蠢いていた大蛇どもを炎の柱で一掃していた。そして、杖を頭上に掲げて白蛇の魔物に向かって呪文を詠唱すると、空には雲一つないというのに、再び雷鳴が轟いて天から雷光が走り、魔物本体の頭部を直撃した。ドルキンはそれがアムラク神殿で自分を救ったものと同じであることを悟った。

 さらにもう一本、尾の先にある蛇の頭を叩き切っていたドルキンは、魔物の背中に回り込んだ。両手で大斧を振り上げ、雷が走って縦に焦げて煙が上がっている背中に叩きつけた。斧の刃は魔物の背中から腹に達し、下腹部に食い込んで止まった。夥しい黒煙が吹き上がり、魔物はそのまま崩れ落ちた。

 ドルキンは大斧をその場に放り出して、マリウスに走り寄った。白蛇の魔物と大蛇に巻き締められたマリウスは微動だにせず、呼吸している気配がなかった。マリウスの胸に耳を当て心音を探る。

 フードを被った少女は、肩から斜めにかけた革袋から白い布を取り出し、ミレーアに近付いた。顔に付いた緑色の血を拭き取る。呆然と座り込んでいたミレーアが、ようやく我に返って少女を見上げた。

「ありがとう。あなたは……」

 少女はにこりともせず、「カミラ」と答えた。

 いつの間にかあの巨躯の白狼が、カミラと名乗った少女のそばに控えている。カミラは白狼の頭を撫でた。

「我らは『森の静者』。森と河の安寧を護る者」

「あなたたちが、森の静者? あの、ボードゥル戦争以来森深くに隠遁し、滅多なことでは姿を見せない……そして、この世の終末、禍いが地上を覆う時、その姿を現すといわれている?」

 カミラは小さく頷き、フードを取った。フードを避けた白い小さな梟が、肩の上で羽ばたいた。短い銀色の髪が軽く揺れる。

「地の奥深く封印され、忘れ去られた力が甦ろうとしておる。このままでは森も河も、生きとし生けるものが全て根絶やしになるだろう。この大地を護るために我らは遣わされた」

 軽やかな透き通った声だが、妙に古めかしい口調でカミラは言った。

 彼女の銀色に近い前髪は額に垂れて切り下げられており、後ろ髪は襟足辺りで無造作に切り揃えられていた。横に尖った耳が、猫のように動いた。

 森の静者はこの大陸の太古から存在する伝説的な一族で、かつてはファールデン王国の東に広がる森に数多く住んでいたと言われる。しかし、ファールデン紀五五〇年に勃発したボードゥル戦争でそのほとんどが殺され、それ以降その姿を見た者はほとんどなく、残っている文献も少ない。

 その寿命は長く、生き残った者は数百年にわたって生き続けていると言われる。ある者は彼らを小神族であると言い、またある者は人狼であるとも言う。カミラも少女に見えるが、実際のところ何歳であるかは分からない。

「聖堂騎士ドルキンの名は、我らにも聞こえておる。お前が、かつて斃した銀狼を覚えているか?」

 カミラは、マリウスのそばに跪いているドルキンに向かって声をかけた。

「……何十年前のことになるのか……王都の南の外れにある村を襲い、女子供をみな殺しにした狼か……。確かに、私が成敗した」

 ドルキンは動かなくなったマリウスの手を胸の前で組ませながら、呟くように答えた。その狼はまさに、今ドルキンが身に付けている革の鎧となった銀狼である。

「あやつは、この者の父親であった。歳を経て狂乱し、森の静者としてあるまじき行為に及んだ」

 ドルキンは白狼を見た。その瞳に一瞬哀しみの色が差し、消えた。白狼はドルキンに近付き、ドルキンの腕に頬を擦りつけた。ドルキンはその頭を撫でた。

「我らはお前に感謝しておるのじゃ。そして、この者も父に再会できて喜んでおる」

 ドルキンは白狼を優しく抱いてやった。そして、呟いた。

「アムラク神殿で私を助けてくれたのは、君たちか……」

 白狼は眼を閉じ、暫くそのまま佇んだ。

「ドルキン様、マリウス様は……」

 ミレーアに問いかけられ、振り返ったドルキンは哀しげに首を振った。

「私は、最高の弟子を失ってしまった……」

 ドルキンの瞳から頬に零れ落ちた涙を、白狼が舐めた。

 ミレーアは立ち上がり、倒れているマリウスに近付いていった。そして口の中で神の言葉を呟く。淡いオレンジ色の光がミレーアの手を静かに包み、ミレーアはマリウスの左胸にその手を置いた。

 マリウスの手が微かに動いた。ドルキンはマリウスの上体を起こして、支えた。

「マリウス! しっかりしろ!」

 マリウスは静かに眼を開けた。

「私は……一体……」

「フォーラの神の祝福だ。ミレーアがお前を取り戻してくれた」

「まだ無理をしてはいけません。もう少し時間が経っていれば戻ってくることはできませんでした。戦いの途中でかけておいた祝福の効果があったのかも知れません」

 ミレーアは、マリウスの額にも掌を当てて言った。

 ドルキンは深い安堵の息を吐いて、しばし神に感謝の祈りを捧げた。そして、ミレーアの腕にマリウスを任せると立ち上がって再び拝殿の中へ戻っていく。粉々に砕けた神室の正面にある祭壇に近付き、そこに納められた水晶の小剣を手にした。

 マリウスのところに戻ったドルキンは、アムラクの神斧を背負い水晶の剣を腰に納めた。

「もうすぐ夜になる。少し歩かなければならないが、いったん馬の所まで戻ってそこで今晩は休もう」

 ドルキンはマリウスに肩を貸して立ち上がった。来た道を、肩を並べて戻っていくその師弟のあとから、ミレーアとカミラが続く。白狼はゆっくりと尻尾を振りながら、ドルキンとカミラの間を行ったり来たりしていた。

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