十
北方の峻険な山岳地帯も、標高によって様々な表情を見せる。寒々とした針葉樹林を抜けて山を下るにつれて大地も灰色一色から茶色や緑色へ変化し、思わぬ景観が顔を覗かせてくれる。
聖堂騎士ドルキン・アレクサンドルと修道女ミレーアは、貴族領主オードゥルンが治めるザルガース州に足を踏み入れつつあった。ザルガースはサンルイーズ山脈を北に望む湖水地方で、州の八割は湖で占められており、大小合わせると数百に上る湖が点在するといわれている。ザルガースには七聖堂神殿の一つ、サルバーラ神殿がある。
ドルキンは、アムラク神殿の奥の院に奉じられていた神斧を背負い、黒い牡馬の背中に揺られながら湖畔を進んでいた。ミレーアの斑の牝馬がこれに続いている。
透明な水面の上をダイアモンドの塵のように朝陽が踊る。水辺には背丈の短い淡緑色の植物が生い茂り、小さな黄色や白い花が咲き乱れている。美しい風景であった。
この広大な湖は、マーレン湖という。徐々に強くなり始めた朝の陽射しを受けて湖面から水蒸気が立ち上り始め、湖畔は靄に煙っている。その向こうには針葉樹と広葉樹が混合した鬱蒼とした森が見えた。サルバーラ聖堂神殿は、この森を抜けた先の、イータル湖に浮かぶ島にある。
ドルキンは、湖の水が広い範囲で侵潤しているその森に入った瞬間に嫌な予感がした。樹高が高く、山頂付近に比べると広葉樹が目立つこの森は、湿度が高いために常に霧が発生しており見通しが悪い。
「様子を見てきます。ここで待っていてくれますか」
ドルキンは馬を下り、ミレーアに言った。ミレーアの口が開きかけた。
「分かっています。今度なにかありましたら、あなたを呼びます」
ミレーアはフードを被ったまま頷いた。馬から下り、ドルキンと自分の馬の手綱を引いて蘚苔類に覆われた大きな岩の陰に入る。
ドルキンは馬の鞍に差していた投擲ナイフを、いくつか自分の腰の革ベルトに移した。姿勢を低くして辺りの様子を窺う。
霧が濃くなってきた。銀色の髭に小さな水滴が生まれ、みるみるうちに大きな水玉となって軽金と皮のブーツの爪先に落ちた。
微かに人の気配がする。十人。いや、もう少し多い。だが、脅威となるほど近くにいるのは、三人、と見た。
ドルキンは極力水音を立てないように、足を上げずにすり足で歩き始めた。ミルクを溶かし込んだような森の中を注意深く進んでいく。ドルキンでなければ恐らく方向感覚を失い、戻るべき道も見失ったであろう。
左側で人が動く気配がした。低い水沈植物の葉が揺れ、濡れた苔が踏みつぶされる音がした。甲冑の金属板同士がぶつかる聞き慣れた重い音がし、霧の中から白金のプレートアーマーの姿が現れた。槍の穂先に斧頭、その反対側に鋭く尖った突起が取り付けられているハルバードを構えている。
同時に背後で短く、ミレーアの叫び声がした。その瞬間、その聖堂騎士はハルバードを腰に乗せるようにして大きく旋回させ、ドルキンを真横に薙ぎ払ってきた。
ドルキンは背中の斧を抜き、ハルバードの斧側の柄に近い部分に斧頭を添えるようにしてこれを受け流した。騎士の攻撃の勢いを利用して身体を入れ替え、その背後へ回る。そのまま、斧を下段に構えながら騎士の膝の裏を強く蹴った。騎士は膝を折る形で地面に俯せに倒れた。
ドルキンは素早く膝で騎士の腰を踏みつけた。左手で兜を押さえ、騎士が水分を十分に含んだ林床で溺れないよう頭を傾けさせ、右手の斧を首元にあてがった。騎士の肺から息が絞り出される音がした。
その時、霧の幕を潜り抜けるようにして複数の人影が現れた。聖堂騎士の装備を身に着けた騎士たちだ。ドルキンが脅威と感じた気配は、彼らのものであったようだ。
聖堂騎士の一人が、重い柄頭と柄から成る大振りの打撃武器であるメイスを右手に持ち、フォーラ神の遣いとされる梟を意匠した紋様に飾られた盾を左手に構え、じりじりと近づいてきた。
その後ろから、球状の柄頭に鋭い複数の棘を備えたモーニングスターを右手に持つもう一人の騎士が後ろ手に回したミレーアの手首を左手で握ったまま近づいてきた。
「ドルキン様、どうか抵抗なさらず、我々に同道いただけないでしょうか」
モーニングスターを持った騎士が、姿勢を正しながら言った。
「マリウスか」
ドルキンは騎士の兜を押さえていた手を緩め、斧を彼の首から遠ざけた。だが、まだ解放はしない。そして尋ねた。
「教皇庁の聖堂騎士が、なぜこんなところにいるのだ?」
マリウスは、右手のモーニングスターを腰へ納め、装飾が施された円筒型の兜を脱ぎながら応えた。波打った長いダークブロンドの髪が汗に濡れている。
「ドルキン様を追ってアムラク神殿へ参りました。しかし、私たちが到着したときにはあなたの姿は既になく、あるのは累々と重なる神殿騎士と修道女の遺骸だけでした」
マリウスは少し眉を顰めたが、すぐに表情を和らげて続けた。
「危うく見失うところでしたが、何とかお二人の痕跡を見つけ、後を追ってここまでやってきました。どうやら、師の教えを生かすことができたようです」
ドルキンは苦笑いした。
「お前は私の弟子の中で、最も優秀だった。跡追の技術は私よりもお前の方が上だろう。だが、なぜ私の跡を追うのだ」
マリウスの瞳に憂愁の色が浮かんだ。
「私たちは、カルドール枢機卿にあなたを捕縛するよう命を受けています。……聖下暗殺の罪と、神に対する背信の罪によって」
「何だって、私が?」
ドルキンは驚愕したが、すぐに頭を振りながら言った。
「いや、待ってくれ、聖下が……暗殺された、と言ったのか?」
「やはりご存知ありませんでしたか……。あなたが王都を発った日、聖下は崩御されたのです」
「馬鹿な! 聖下は……」
ドルキンは思わずミレーアを見た。ミレーアの顔から血の気が失われ、唇が微かに震えている。マリウスが手首を握っていなければ、その場に蹲ってしまっていたかもしれない。
「いったい、何があったというのだ」
ドルキンは思わず拘束していた騎士を放り出し、激しくマリウスに詰め寄った。
もう一人の騎士がメイスでこれを制しようとしたが、その瞬間、メイスを持った腕は逆手に絞りあげられ、その騎士の肩の骨が悲鳴を上げた。
「ドルキン様!」
マリウスの呼びかけで我に返ったドルキンは、呆然と騎士の腕を手放した。自由になった騎士は、ドルキンの右手から神斧を取り上げた。ようやく身体を起こしたハルバードを持っていた騎士が、ドルキンの腹を柄で殴ろうと腕を振り上げた。
「やめろ!」
マリウスは鋭く、その騎士を叱った。
「礼を失するな。この方は私の師匠でもあるのだ。無作法な振る舞いは私が許さん」
騎士は慌てて武器を納め、頭を垂れて素早くマリウスの後ろに下がった。
ドルキンは激しく頭を振り、血を吐くように呟いた。
「そんな馬鹿なことがあるはずがない……聖下が……フィオナが死んだ、だと……」
しばし、沈黙が森の中を支配した。森の木々が囁くように葉を揺らしている。
ドルキンは静かに頭を上げ、マリウスに向かって言った。
「フォーラの神に誓って言うが、私は聖下が崩御された事実を存じ上げなかった。ましてや、聖下を弑するなど、あり得ぬ」
「私も、ドルキン様がそのようなことをするはずがないとカルドール猊下に申し上げたのですが、猊下はドルキン様が聖下の崩御後すぐに王都を出奔したことが何よりの証拠だと。猊下はドルキン様が聖下と極秘裏に会われていたこともご承知でした」
「カルドール様は……猊下は誤解されておられるのだ。拝謁を願って私から直接ご説明申し上げる」
ドルキンは声を絞り出すように言った。
「今、王都に戻ってはなりません」
ドルキンとマリウスの間に割り込むように、ミレーアが手首を後ろ手に掴まれながらも強く訴えた。頬には赤味が戻ってきている。
「ドルキン様、フィオナ様の御宣託をお忘れですか? 今、王都に戻れば必ず囚われの身となりましょう。それでは、フィオナ様の御意に沿うことが出来ません」
「どういうことですか?」
マリウスがミレーアに尋ねた。ミレーアは俯いた。
「聖下が私を召喚されたのは、フォーラ神の御宣託をお伝えになるためだった。その内容は我々二人限りという聖下の強いお言葉があったのでこの場では話せぬが、この国の存亡に関わるのだ」
ドルキンがミレーアの代わりに答えた。
「御宣託の内容を私にお聞かせ願うことはできませんか?」
マリウスはドルキンの眼を見た。ドルキンはその視線を正面から受け止めたが、静かに首を横に振った。
マリウスはしばらく沈思し、ドルキンに言った。
「私は、ドルキン様がどのような方か良く存じ上げております。枢機卿猊下から追捕の命をいただいた際にも、その罪状についてはにわかには信じ難いものでした。私はドルキン様を信じ申し上げております。ただ、しかし、円卓の神殿騎士として枢機卿猊下から受けた命を反故にすることもできません」
「お前の立場はよく分かるよ、マリウス。私でも同じことを言うだろう」
ドルキンは静かに微笑みながらマリウスを見つめた。
「王都に参れとは申しません。しかし、この近くにある聖堂神殿まで同道いただけませんでしょうか。サルバーラの枢機卿に立ち会っていただき、ドルキン様の無実を証明する手を尽くしましょう」
公平な言い分であった。そして、ドルキンにもサルバーラに行かねばならない理由があった。ドルキンはミレーアに言った。
「この男は信頼して良い。ここはマリウスの言うことに従おう」
ミレーアは無言であったが、表情には同意の色が見えた。マリウスは、二人の騎士たちに命を下した。
「サルバーラ神殿へ行く。アムラク神殿での件もある。警戒を怠るな。アルギール、後ろを頼む」
マリウスはドルキンに向かって軽く頭を下げ、言った。
「ドルキン様、ありがとうございます。くどいようですが、決して抵抗をなさらぬようお願い申します」
「分かっている。弟子を裏切るようなことはしない」
ドルキンは柔らかい笑みを見せて言った。
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