翌日の早暁、ナスターリアは馬上の人となっていた。ドワーフ兵ラードルと共に辺境守備隊の西の砦を発したのであった。

 あの後、ナスターリアは砦の小隊長であるオグランとヘルガー、そしてニアの三人を大隊長室に呼び、王都に帰ること、ナスターリアの中隊の指揮はオグランが執ることを話した。そして、ナスターリアの中隊とオグランの小隊は一つの中隊となり、事実上、オグランが辺境守備隊の主たるリーダーとなった。

 ナスターリアとラードルは極力主要街道を避け、小さな街道を選んで先を急いだ。馬に鞭を加え、疾駆して一路王都を目指した。

 陽が高くなり、気温が上昇してきた。二人は小さな湖に立ち寄り、馬に水を飲ませた。

「将軍は納得しないだろうな」

 ラードルが低く呟いた。

「異民族の攻勢が増しているこの時期に、辺境から大規模な兵を挙げるのは現実的ではないよ、ラードル。それよりも隠密裏に潜行して貴族領地の兵士たちと連携し、ゲリラ戦で主たる枢機卿領である聖堂神殿を押さえ、その機能を断つ方が効果的だ。王都でも性急に兵を動かすべきではない」

 ナスターリアは、湖水に浸した冷たい手拭いで首元を拭きながら言った。

 ナスターリアは王都に戻り、直接将軍を説得するつもりであった。彼女はカルバスのやり方の中に彼らしからぬ性急さを感じていた。

 しかも、あの男、ダルシアが関与しているとなると物事をそのまま受け取ることはできない。このままではカルバス自身が反逆者となりかねないのだ。アマード王は敬虔なフォーラ神信者でもあるのだから。

「昼間のうちにできるだけ進んでおこう。この分だと明るいうちにシドゥーラク州には入れるな。カルサスの街で宿を探そう」

 ラードルが地平線を指さしながら言った。

 この辺りは乾燥した無樹林で、背の低い多肉植物が多い。シドゥーラク州に入ると更に乾燥が進み、その州の大半は砂漠である。

 ナスターリアとラードルがシドゥーラクの州都カルサスに着いた頃には夕闇が迫っており、地平線には儚げに陽の光が残っていた。

 カルサスは古より伝わる聖なる泉から湧き出す清水によって発展してきた。蒼の泉と呼ばれるその湧泉は街のほぼ中央に位置し、街を潤すには十分な水量が湧出していた。そこには聖堂神殿がある。

 ナスターリアとラードルは、大きな岩に囲まれた崖上に立っていた。カルサスは太古の大きな地殻変動による断層でできた深い構造谷の中にある。ここから見下ろすと崖の壁部に小さな無数の住居がへばり付いており、州都の中心部である谷底まで延々と続いている。

 二人は、動物の骨や皮を組み合わせて造られた、灰色にくすんだ住居に沿って狭い板の通路を下りていく。陽は既に落ち、切り立った崖に切り取られた狭い空から漏れてくる月明かりだけが、辛うじて足許を照らしていた。

 ラードルは、岩盤を掘り抜いて作られた岩の燭台に灯されていた松明から貰い火をし、自らの松明に火を移した。

「気付いたか?」

 ラードルが松明を左手に持ち直し、右手を腰の戦斧に添えながら言った。

 ナスターリアは軽く頷き、既に腰の曲剣を抜いていた。軽く彎曲した細身の刃が白く光った。左手には先端が鋭利な、十字形をした長めの刺突短剣が握られている。

「静かすぎる。人の気配がしない」

 ラードルは姿勢を低くし、音を立てないように、慎重に歩を進めた。崖の壁に密集している貧民窟の家々からも、谷底にある一般領民の家からも声一つ漏れ聞こえてこなかった。

 盆地のような谷底に到着した。家々の明かりは消え、聞こえてくるのは谷を渡る風とそれに巻き上げられる木の葉の乾いた音だけだった。

 ナスターリアは、戸口に宿屋の屋号を示す板きれが打ち付けられている小屋の扉を押してみた。陰気な軋んだ音を立てて扉は開いた。

 ナスターリアは扉の陰から中の様子を窺い、滑り込むように中に入った。ラードルは扉の外で周囲を警戒している。

 突然、黒い小さな塊がナスターリアに向かって飛び出してきた。ナスターリアは思わず身体を捻ってそれを避けた。そして、その瞬間、それが小さな子供であることに気付き、ラードルに向かって叫んだ。

「その子を捕まえて!」

 ラードルは、扉から飛び出してきた子供の首根っこを押さえた。小屋の中に入って扉を閉める。

 手足をばたばたと振るわせて抵抗する少年をナスターリアが抱きかかえる。腕に噛みつこうとするその頭を撫でながら言った。

「お父さんとお母さんは?」

 ナスターリアの胸の中で落ち着きを次第に取り戻してきたその少年は、静かに首を振った。瞳はどこか遠くを見ている。ナスターリアは少年の眼が見えていないことに気付いた。

「街のみんなはどうしたの?」

 少年はただ首を振るだけであった。言葉も喋れないのかも知れない。ナスターリアとラードルは眼を見合わせて肩を竦めた。

「このままにはしておけない」

 ナスターリアが言った時、ラードルが眼で合図した。小屋の外で微かに音がし、何かが動く気配がした。

 その時、大人しくなったと思っていた少年が、思いのほか素早くナスターリアの腕の中から抜け出して扉を開け、外に飛び出していった。思わずナスターリアが手を伸ばして小屋の外に出ようとした。

「しっ、待て!」

 ラードルに左腕を引っ張られ、ナスターリアはその場に尻餅をついた。

 宿屋に面した街の中央広場は蒼の泉に面しており、昼間は人々の憩いの場になっている。蒼の泉は聖堂神殿の拝殿に直接つながっていて、泉と共に神殿も人々が自由に往来できるようになっているため、この神殿は「民の聖堂(ファラミア・エスターテ)」と呼ばれ親しまれている。

 中央広場の真ん中辺りで、大きな影が蠢いているのが見えた。

 その影から蔓のような細長いものが幾つも伸び、広場を走り去ろうとした少年の脚を捕らえた。ナスターリアはラードルに制されたことも忘れて小屋を飛び出し、曲剣を抜いて広場に駆け寄った。

 広場中央にあった影が、切り取られた夜空から覗く微かな月明かりにその姿を露わにした。

 そいつは、小さな節を持った無数の細い脚が身体の下部にびっしりと生えた昆虫のように見えた。扁球をした身体の側面からは茶色の蔓のような触手がこれも無数に伸びている。その上部には肉塊が堆く無造作に積まれており、その腐臭が鼻腔を刺激した。

 その昆虫のような化け物は少年を触手で手元に手繰り寄せると、脚の間から細い無数の緑色に濡れた触手を剥き出しにし、少年の口や鼻の穴に侵入し始めた。少年はしばらく踠いて抵抗していたが、触手に包まれ身動きを封じられると痙攣を始め、じきに動かなくなった。

 化け物は、動かなくなった少年を茶色の触手で背中に堆積した肉塊の上に積み上げた。肉塊を包んでいた薄い緑の粘膜が少年の身体に滲み込んでいった。

 そこで初めて、化け物の背中に堆く盛り付けられている肉塊の正体が分かった。肉塊はこの化け物に襲われた犠牲者たちのものであったのだ。そのうちの幾つかはまだ息があるように見える。

 化け物はナスターリアに気付き、カサカサと乾いた音を立ててこちらに移動してきた。茶色の触手が数本、ぴくりぴくりと動いて様子を窺う。背中から肉塊が幾つか、ぼとりぼとりと音を立てて落ちてきた。

 ナスターリアは、するすると伸びてきた一本の触手を剣で切断した。茶褐色の体液が飛び散ってマントを汚す。しかし、触手は次々とナスターリアに向かって伸びてくる。

 化け物の背中から落ちてきた肉塊が、ゆっくりと立ち上がってきた。腐敗し身体の崩れた犠牲者たちは、触手の相手をしているナスターリアの背後から近寄ってくる。

 その気配に気付いて振り返った彼女に何人かがしがみつき、押し倒した。その隙を逃さず茶色の触手が地を這い、ナスターリアの脚を狙った。

 左手に松明を持ち、宙を高く舞ったラードルは、着地ざまにその触手を踏みつけ、踵で磨り潰した。右手に握った戦斧でナスターリアに覆い被さっている腐った屍人たちを切り裂き、払い除ける。

 ラードルはナスターリアの手を引き、立たせた。ナスターリアのフードが取れ、豊かな赤毛が薄い白鉄の鎧に拡がった。その鎧の胸から腰にかけて腐肉がこびり付いている。ナスターリアは、鋭い舌打ちをして剣を構え直し、ラードルに向かって叫んだ。

「こいつはなんだ、いったい?」

「分からん。こんな生き物は俺も見たことがない。聖堂神殿がある聖地に、こういう化け物がいるはずはないんだが……」

 左手に持った松明で化け物の触手を牽制しながらラードルは応えた。

 化け物の背中から降りてきた屍人たちが次々とナスターリアたちを襲ってきた。腐敗し過ぎてただの肉塊になってしまっている者もいる。

 屍人たちは頭を切断されても怯まずに迫ってくる。ナスターリアは剣で屍人の脚を切断し動きを封じようとしたが、それでも這って近寄ってくるのだ。

「切りがないぞ」

 ラードルは屍人に戦斧を振るいながら言った。

 ナスターリアは、先の少年が襲われた光景を思い起こし、ふとあることに気付いた。あの積み上げられている腐肉が、こいつの餌だとすると……。

「ラードル、松明を!」

 松明をラードルの左手から受け取ったナスターリアは、屍人の攻撃を左右に避けながら化け物に向かって走った。触手が次々と伸びてくる。

 剣で触手を断ち切ったナスターリアは、そのまま化け物の前まで走っていき、大きく跳躍した。伸びてくる触手が一瞬ナスターリアを見失った。

 空中で体勢を入れ替え、化け物の背中に着地したナスターリアは腰の鞄から松脂の入った革袋を取り出し、中身を肉塊にぶちまけた。

 松明の火をこれに引火させると同時に再び跳躍し、化け物の背から飛び降りる。化け物の上部が炎に包まれ、化け物の悲鳴とも犠牲者たちの悲鳴ともつかぬ甲高い声が響き渡り、ナスターリアの肌に粟が立った。

 ラードルは腐肉の焦げる悪臭に顔を顰め、化け物を挟んでナスターリアの反対側に位置を移して戦斧を構えた。

 化け物の背中の肉塊は数十分にわたって燃え続けた。あれだけ堆積していた屍体が燃え尽きると、残されたのは乾いた甲虫の抜け殻のような本体だけであった。

 ナスターリアは裂帛の気合いとともに化け物に剣を叩きつけた。栄養源を失った化け物は、もはや干からびた抜け殻に過ぎず、真っ二つに切断された。真っ黒な煙が僅かに残った茶褐色の体液とともに化け物の身体から噴出し、あたりに四散した。ナスターリアは後ろに飛んでこれを避けた。残骸と化した化け物がもう動くことはなかった。

「ラードル、神殿に行ってみよう。何が起きたのか見届けておきたい」

 ラードルは戦斧を腰に納めながら頷いた。

 本来であれば、聖堂騎士の本拠地に乗り込むなど、今の自分の立場を考えるとやるべきではない。しかし、これだけの異変が起きているのに一人の聖堂騎士もいないというのはどうにも解せない。いや、もはや街全体が空っぽになっているといって良かった。

 ナスターリアとラードルは、蒼の泉から拝殿に続く広い階段を慎重に上がり始めた。依然として、辺りに生きている人間の気配はない。

 その階段を上り詰めたところに壮麗な門扉があった。

 ナスターリアはこれを少しだけ開いて拝殿の中を覗いたが、そのまますぐに扉を閉じた。滅多に顔色が変わらない彼女の表情が強張り、青白く見えた。

「どうした?」

 一歩後ろに下がったナスターリアに代わってラードルが前に出て、扉に触れた。ラードルのブーツが扉から漏れ出している血溜まりを踏んだ。ラードルは一瞬逡巡したが、思い切ってその扉を開いた。

 どろっ、と赤黒い塊が拝殿の中から流れ出た。白い大理石の壁は血飛沫で赤く染まり、床は五体がバラバラになって四散している屍体で埋め尽くされていた。その血と肉の海の中に無数の緑色の卵状の物が浮いている。

 先ほど倒したのと同じ昆虫のような化け物が数匹、祭壇を囲むように蠢いていた。祭壇の上には、それよりさらに二廻りは大きく、細長い身体に透明な羽を生やした別の化け物が見えた。巨大な排卵管のようなものが身体の端から突きだしており、そこから卵状のものが次々と産み出されている。

 祭壇の周りにいた魔物がラードルに気付き、血の海に浮いた肉を掻き分けながら拝殿の扉に近付いてきた。ラードルは押し出されてきた肉塊を押し込みながら扉を閉めた。

「これは、いかん。逃げるぞ」

 ラードルは呆然と立ち尽くすナスターリアを促して、神殿の階段を走り降り始めた。ナスターリアもそれに続く。

「いったい、カルサスに何が起きたというんだ」

 走りながらナスターリアはラードルに声をかけた。

「分からん。だが、恐らく、神殿の者共だけでなく、街の住民は皆、あの化け物に引っ張り込まれ、奴らの餌になったということだろう」

 ナスターリアとラードルは貧民窟が密集する断崖の小径を駆け上っていった。昼間は気温が上がるこの地域も、日暮れと共に気温は氷点下まで下がる。しかし、その凍てつく寒さにもかかわらず、ナスターリアとラードルの身体は汗ばみ、暑く火照ったままだった。

「何があったにせよ、とにかく、王都に急ごう。将軍にここで起きたことを報告する必要があるし、もしかすると戦略を一から練り直す必要があるかも知れん」

 ラードルが言った。ナスターリアは頷き、魔物から救えなかった少年の顔を脳裏から消そうと頭を振った。

 崖の上に到達したナスターリアとラードルは再び馬上の人となった。王都に向かい、乾いた大地を蹴って漆黒の荒野を駆けて抜けていった。

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