夜明けの暁光に包まれたこの象牙の尖塔ほど美しいものはないと、ナスターリア・フルマードは思った。

 旧く打ち棄てられ遺跡となった古代フォーラ神殿に屹立する複数のミナレットが朝陽を浴び、国境線に沿って連なる長城の石塁に長い影を落としている。

 その城壁の上にある西の監視塔から、ナスターリアは異民族の支配下にある尖塔群とその向こうに悠々と流れるフォーラフル川を見下ろし、軽く溜息をついた。

 眺望の美しさに反して、近年辺境の治安は悪化するばかりであった。主な理由は国境を接する異民族国家であるスラバキアが度々国境線を侵して越境し、近隣の村や街を掠奪することが増えてきているからだが、もう一つ看過できなくなっているのは、地方のフォーラ神殿司祭たちの腐敗が進んできていることだ。

 ファールデン王国は別名ファールデン十三州と呼ばれ、国王の直轄領である王都アルバキーナと十二人の貴族領主が治める十二の州都で構成されている。貴族領主が領民に賦課する税や課役については法で厳密に定められており、彼らが勝手に民を搾取することのないよう厳しく管理されている。

 一方で教皇は、アルバキーナに教皇庁周辺の狭い区画を所有するのみで、その収入のほとんどは地方の司祭が運営している各神殿からの上納金で賄われている。自ずと地方の司祭、特に枢機卿と呼ばれる聖堂神殿司祭の力は増し、現在では経済的・政治的には教皇を凌ぐほどになってきている。

 枢機卿の腐敗に伴い、その下部組織に当たる神殿司祭にも腐敗が進んでおり、神の名の下に搾取が行われ、地方都市では貧富の差が拡大していた。富めるものは更に富み、司祭の贅沢濫費はむしろ禁欲的な貴族領主を凌ぐほどであった。

 王国大将であった祖父の血なのか、昨年異民族との激戦で戦死した辺境守備隊大隊長の父から受けた厳しい教練の賜なのか、ナスターリアは王国兵士の中でも抜群の戦闘能力とカリスマ性を受け継いだ。

 頭の後ろに束ねた母親譲りの柔らかい赤毛を見なければ、男と見紛うかも知れない。父親と同様長身で、細身の身体は柔軟性に富んでいた。今、この辺境守備隊でナスターリアに敵う兵士は一人もいない。

 ナスターリアは強固な意志を感じさせる濃い眉を顰め、グラウコーピス(海のグレー)と周りの兵士たちが呼ぶ瞳で早暁に届けられた封書を見つめていた。封蝋は既に開封されており、極秘文書であることを示す紅い梟の印璽が捺されていた。

 教皇が崩御した今こそ、二つに引き裂かれた王権を一つに復古せしめ、教皇派を一掃しなければならない。

 南方の港湾都市ヴァレリアを除く、王都の主たる貴族諸侯たちが誓約の儀を交わしたことが記されていた。王国軍将軍ダイ・カルバスからの直接の私信であった。

 カルバスはナスターリアの祖父の後輩にあたり、祖父が亡くなったあと王国軍大将として王国軍を率いた。幼いナスターリアを心にかけ、実の孫のように面倒を見てくれたものだ。

 カルバスは祖父とは違い急進的な国王信望者であり、常に国権の一元化をナスターリアやその父に繰り返し説いていた。

 カルバスはナスターリアに辺境から兵を起こさせ、時を同じくして各州都の軍隊を蜂起せしめ、教皇派神殿騎士を封じ込めようとしている。既に各地の神殿に近い貴族領では、若手貴族諸侯による準備が着々と進んでいるとしたためられていた。

 ナスターリアは、今兵を動かすことに躊躇を覚えていた。

 父の死後、辺境守備隊に大隊長は不在であった。三つの小隊と一つの中隊からなる辺境守備隊は、今、それぞれの小・中隊長の合議による運営を余儀なくされている。辺境守備隊の中隊長になったとはいえ、他の小隊長が黙ってナスターリアの出砦を見逃すはずがない。ナスターリアは他の部隊との戦闘を望まなかった。

 また、特に教皇が崩御してから異民族の動きが活溌になっている。昨日も大掛かりな戦闘が行われ、百名近くの死傷者が出た。四隊からなる守備隊のうちナスターリアの中隊がここを離れることは、国境を放棄することに他ならない。

 カルバスからの書簡には、今、枢機卿の中でも最も権力と富を意のままにしているカルドール枢機卿が、教皇亡きあとの教皇庁を我がものにすべく暗躍しており、王権にまで触手を伸ばしている様子が記されていた。カルドールは、教皇を暗殺し王都を出奔したとされる聖堂騎士と修道女を追っており、アムラク神殿から行方不明になった「身世代」を探しているらしい。

 父ならどう判断しただろう。祖父なら迷わず兵を挙げるだろうか。

 ナスターリアの母親は王都アルバキーナに健在であった。もう十年以上会っていない。

 男子に恵まれなかった父親は早くからナスターリアの素質を見抜いており、常に身近に置いて彼が知る限りの戦闘技術を教え込んだ。そのため優秀な兵士に育ったナスターリアであったが、一方で母親には縁が薄く、それだけ無意識のうちに母親の愛に飢えていた。

 彼女は父親が戦死した際、王都に帰ることを一度は熟考したのである。しかし、周りの状況がそれを許さなかった。大隊長の娘であり優れた戦士である彼女を、辺境守備隊が手放しはしなかった。

「フルマード隊長。失礼します」

 西の監視塔に上がってき、直立不動で敬礼する部下の声で我に返ったナスターリアは、右の掌を左胸に翳す敬礼をもってこれに応えた。

「隊長、ラードル殿が剣技場でお待ちしているとのことです」

「ラードルが? 分かった、ご苦労」

 ナスターリアは封書を内ポケットに仕舞った。監視塔の螺旋階段を下り、城砦の地下にある剣技場へ向かう。

 この城砦は、南と北、そして西に配置された監視塔と、長城と一体化した長大な砦からなっている。西の監視塔はフォーラフル川の急流流域に面した自然の要害となっており、ほとんど異民族の攻撃を受けたことがない。

 頻繁に攻撃を受けるのは南北の国境線で、これを護るためにナスターリアの中隊が北を、残りの三小隊が南を防衛している。西の砦は南を護る三小隊のうち一小隊が当番で駐屯しており、大隊長の私室や客間、幹部用の大食堂などは西の砦にある。士官の修練場である剣技場も西の砦にあった。

「待たせたな、ラードル」

 ナスターリアは、自分の半分ほどの身長しかないが、がっしりと小岩のような体格をしたその男に向かって敬礼した。

「今朝、着いたばかりだ。そのままここに来たから、別に待ちわびたわけじゃない。気にするな」

 地の底から這い出るような低い声でラードルは応えた。

 ファールデン王国兵の中ではドワーフは珍しい。ドワーフ族は古来北西の山岳地帯にある地下洞窟で暮らしていた一族であり、信仰も独自の多神教を奉じている。ファールデンの始祖アグランドが肥沃な下流域を征討するにあたり、背後からドワーフたちの攻撃を受けないよう当時のドワーフ王と盟約を結んで以降幾つかの部族が南下し、大多数は鉱工業に従事し、一部の部族が戦士として王国兵に採用された。

「将軍はお前の返事を持って帰れ、と言っていたよ」

 ナスターリアは剣技場の壁に架けられていた刺突剣レイピアを手に取り、振り向きざま、不意にラードルを突いた。

 ナスターリアの突きは鋭く、真っ直ぐに伸ばした右腕が微かに曲がって刃身に微妙な捻りが加わっていたことは、常人の眼には留まらなかったであろう。だが、ラードルは右腿に重心を乗せながら体幹を微妙に外し、これを避けた。顔を覆う長い灰色の髭が数本宙に舞った。

「父親も、レイピアの使い方は今一つだった。腕が曲がる悪い癖は父親と同じだな。肘は伸ばしたまま。肩と手首で角度をつけて突く、と教えただろう」

 ナスターリアとすれ違いざまに、眼にも留まらぬ速さで一閃させた戦斧を右腰に納めながら、ラードルは言った。

 ナスターリアの長い髪を束ねていた飾り紐が戦斧に切断され、腰の辺りまで柔らかい赤毛が落ちて拡がった。ラードルの斧捌きだけは、ナスターリアの理解を越えていた。力任せに使うはずの斧を、何故この男は繊細な短剣のように扱えるのだろう。

「異民族の動きが激しくなっている。今ここを動くわけにはいかない」

「それが答えか?」

 岩がこびり付いたようなラードルの額と鼻の間から覗く小さな眼が微かに動いたように見え、軽く溜息が聞こえた。

「お前に、言っておかなければならないことがある」

 ナスターリアの形の良い眉がぴくりと動いた。

「枢密院議長、ダルシアは知っているな? この計画は、奴が将軍に上申したものだ」

 ナスターリアの肌が自身の髪のように紅く燃え上がった。

「ダルシアが……あの男が今回の作戦を立案した、と言うのか?」

「ああ、そして今、お前の母親はダルシアの庇護下にある。随分と体調がお悪いらしい」

 ラードルは頷いて言った。

「母が……」

 ナスターリアは絶句した。

 暫くそのままそこに立ち尽くして身動きもしないナスターリアをラードルはじっと見つめていたが、やがて重い身体を軽々と扱い、彼女が下りてきた螺旋階段を上り始めた。

「あと一日、ここにいよう。それまでに結論を聞かせてくれ」

 振り返りもせず、ラードルは言った。

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