ユースリア大陸のほぼ中央に位置するファールデン王国は、フォーラフル川とシュハール川という二つの大河に挟まれ、豊かな自然に恵まれた沖積平野と北方に聳える峻険な山岳地帯からなり、南方のファラン海沿岸は海上交易の中心として栄え、名実共に大陸の要衝たる地位にあった。王都アルバキーナはその肥沃なシュハール川北岸に位置している。

 王国という名の通り、ファールデンには千年近く前から営々と続く王家が存在し、民の信望を集めていた。

 始祖アグランドは北方の山岳地帯出身であったが、卓越した山岳民族の戦闘技術とそのカリスマ性で、瞬く間に川下の農耕民族を席巻し支配下に治めた。彼は抵抗した兵士に対しては容赦なく厳罰と極刑を以て臨んだが、恭順の意を示した兵士や民に対してはほとんど暴力に訴えることはなく、のちに無血王と呼ばれた。

 ファールデン王国に唯一絶対の女神フォーラ信仰が持ち込まれたのは、第十三代グラフゥス王の御代、ファールデン紀七七〇年のことであった。北方のサンルイーズ山脈より更に北に奥深く、大陸最高峰のチェット・プラハールがある。この山の寺院で生まれたとされる、アーメインという娘が神の啓示を得た。

 元々ファールデンでは複数の土着信仰がアグランド以前から残っており、その信徒同士の争いが絶えなかった。五五〇年に勃発した「ボードゥル戦争」は、異なる神を信仰する土着信仰信者同士の宗教戦争であり、王国開闢以来最悪の内戦となった。

 死者は数百万人を超え、 国力は一気に傾いた。フォーラフル川以西の異民族から頻繁に侵入を受けるようになったのは、この頃からである。

 ボードゥル戦争当時の第十代国王、アドゥバールはこれを武力で鎮圧、事実上の禁教令を布いた。

 大きな犠牲を払ったこの戦争の傷が癒えない間は、みな彼の政治に良く従った。しかし、世代が変わり戦争を経験した者が戦争を語り継ぐこともなく、櫛の歯が落ちるように死に絶えていくと、王の政治に不満を持つ者が出てきた。

 そして一部の勢力は、信仰の自由を旗印にしてファールデン紀七六〇年、謀反の旗を翻した。世にいう「アルケイド十年動乱」である。

 第十三代国王グラフゥスは、宗教を弾圧するよりも慰撫する道を選んだ。グラフゥスは当時勢力を増していた女神信仰に目を付け、これを公式に国教として認めた。名実ともに正当性を得たフォーラ信徒は徹底的に他の土着信仰を排し、毀損し、根絶していった。王は国軍の力を使わずして、宗教的な不満と争いの種を自ずと取り除くことに成功したのである。

 王の目論見通り、謀反の旗は二度と翻ることはなかった。しかし、のちにこれがファールデン国の権力を王と教皇で二分する、二重権力構造の下地となってしまうことになる。

 アーメインは神の啓示を受けてすぐに、彼女を護る神殿騎士を引き連れて王都アルバキーナへ入った。グラフゥスは当時既に齢七十を超えており、アーメインが入城した時には病の床に就いていたとされる。

 アーメインとグラフゥスとの間にどういうやり取りがあったのか、どのような密約が結ばれたのかは記録に残っていない。記録に残っているのは、アーメインが王都に入った翌年、彼女が初代教皇として立った、という事実だけである。

 アーメインが教皇となって以降、唯一絶対の女神を仰ぐフォーラ信仰の頂点に立つ教皇は代々女性が務め、王権との微妙な力関係の中でファールデンは大陸の盟主としての道を歩んでいくことになる。

 時はアマード・アルファングラム三世の御代、ファールデン紀 一三一三年白い獅子の月。王都アルバキーナは、不穏な空気に包まれていた。

 王城を中心に扇形に発展したこの巨大な都市は、大きく三つの区画からなっている。

 シュハール川の反対側に位置する都市の境界は、複雑な迷路のように細かい通路が縦横無尽に走っており、主に傭兵や兵士の居住区であった。そこから王城に向かってなだらかな傾斜が続く区画は商業地区であり、種々雑多な商店や市場が建ち並んでいる。

 王城を頂点とし、これに隣接する地域は美しく区画整理され、全ての通路がメイヌ・タレラートと呼ばれる中央の街道に繋がっており、主として政治・行政そして宗教の中心となっている。

 第二十六代教皇フィオナ・ファルナードの崩御は、教皇庁のみならずアルバキーナ城に対しても大きな波紋を及ぼした。市井では教皇が暗殺されたとの噂がまことしやかに流れ、街ゆく人々の顔色も冴えない。

 教皇は王家と異なり、世襲制ではない。北方の護りの要であり、女神フォーラの祝福を最も受けているとされるアムラク神殿で幼少の頃から修行を積み、乙女の証を持つ神の啓示を受けた修道女のみが代々教皇として選出される。

 フィオナの齢は既に五十を超えており、白金と緋の法衣を受け継ぐ者の選定も進んでいたが、啓示を受けた「身世代(みよしろ)」(教皇となることができる資格を持つ乙女たちの呼称)の行方が分からなくなっていることも、王家の陰謀説を唱える者が現れる理由の一つとなっていた。

「陰謀など、断じてない!」

 アマード・アルファングラム三世は声を荒げて、枢密院から上奏されてきた報告書を足許に叩き付けた。

 アマードは温厚で公平な人物であったが、それが故に巷で陰謀説が流布されていることに我慢がならなかった。

 アマードは胸元まで伸びた白い髭を震わせ、天井が高く豪奢な内装で飾られた広い会議の間に据え付けられた大きな窓に歩み寄った。ここから街の中心を望むことができる。細密な彫り物が施された枠縁に手を掛け、暫く微動だにしない。

 歴代の教皇と国王の関係は、戦いと融和の歴史でもあった。双方が激しく対立し、神殿騎士と王国兵士が衝突した事例も一度や二度ではない。しかし、少なくともアマードは敬虔な神の信者でもあったし、教皇フィオナとはこの国の行く末について胸襟を開いて話すことができる関係にあると信じていた。

 一方で、アマードはここ数年、急激な自分の老いを感じていた。齢五十を過ぎてから授かった王子はまだ十一歳であった。ファールデン王国に於ける成人堅信は十三歳である。この国を託すにはあまりにも若すぎた。時世は必ずしも盤石とはいえなかった。

「陰謀ではないことは、ここにいる全員が分かっていることでございます。どうかお怒りをお鎮め下さい」

 大臣や将軍らが部屋の中央に据え付けられた大きなテーブルで国王を囲む御前会議の場で、枢密院議長のダルシア・ハーメルは、ちょうどアマードの向かい側の席から王に向かって静かに語りかけた。高齢の重臣たちが居並ぶその円卓の中では、眩しいまでの若さが目を引いた。みなの視線がダルシアに集まる。

 浅黒い肌に軽くウェーブがかかった黒髪が似合い、漆黒の瞳と引き締まった唇から覗く白い歯が清潔感を感じさせた。ダークブラウンのウェストコートと丈の短い漆黒の上着を瀟洒に着こなし、純白の袖に真っ赤なルビーのカフスが印象的だ。

 ダルシアはもともと財務府の官僚であったが、自ら望んで枢密院の構成員となり、その若さと野心でここ数年頭角を現してきた。その助言は的確で政策の執行もアマードの意を十分に酌んだものであったため、アマード自身も彼を重用してきた。

 重鎮である長老たちの中には彼を厭う者も少なくなかったが、ダルシアは今では事実上王の参謀であり、実質的な権力を掌握しつつあった。

「いずれにせよ浮き足立つ人心を押さえ、早急に善後策を執らねばなりません。西の異民族どもが国境を窺っているとの辺境守備隊からの報告も入っております」

 ダルシアは言いながら、右斜めに座っているダイ・カルバス将軍を一瞥した。将軍は大きく頷いた。

「陛下は国権の体現者として既に人心をしっかりと握っておられます。また同時に敬虔な神の信仰者でもあらせられます。次期教皇の選出にあたっては陛下の御意志が大きく尊重されましょう。陛下の意を酌む教皇が立てば、二分された国権を王権の元に回復し、このファールデン王国をより強大で確固なものとなさしめることも可能でしょう」

「またその話か、カルバス。その話はもうよい。国王であっても神の元では一介の信仰者に過ぎぬ。儂は教皇権に興味はないし、神の意に反してこれを簒奪するつもりもない」

 アマードは眉間に皺を寄せ、頭を軽く振った。カルバス将軍の顔に一瞬赤みが差したが、他の重臣たちからはむしろ安堵めいた溜息が漏れた。

「もうよい。みなの者もご苦労であった。下がってよろしい」

 長時間にわたっていた御前会議は、アマードの一言で終わった。

 ダルシアは、磨き上げられた石の廊下でカルバス将軍や財務大臣たちと一言二言言葉を交えたあとそこにひとり佇み、しばし眼を閉じて想いに耽った。端正な表情は静かで、内なる感情を窺い知ることはできない。

 そのダルシアを、広い吹き抜けになっているホールから王の書斎に向かう巾広の石階段の手前で見つめている人影があった。アマード王の妃、エルーシア・アルファングラムである。

 熱い視線に気付いたダルシアは王妃に向かって優雅に一礼し、周りに人がいないことを確認して微笑んだが、彼女が近付いてくる前に足早に大広間へ姿を消してしまった。

 エルーシアはダルシアの後を追いかけようとし、かろうじて思いとどまった。ここでは人目が多い。

 浅黄色のドレスに王家の紋章を施した白いカメオを胸元に着けたエルーシアは、ブロンドの長い髪をシニヨンに結い上げ、抜けるように白い肌をしていた。その頬は上気し耳朶まで桜貝のように染まっている。潤んだ目で陶然とダルシアの後ろ姿を見送っていた。

 そして、このまだ若い母親を追って庭園へ向かう小径に出てきた小さな影が水門の陰に立ち尽くし、黙ってダルシアとエルーシアを見つめていた。アマードの一子、王子エルサスである。

 もちろん、エルサスは母親がダルシアに抱いている感情など知るべくもなかったが、とはいえ、この場面を目撃して無邪気に母を求めて駆け寄る年齢でもなくなっていた。エルサスは母親に見つからないよう、静かに後退りして、王の居館へ戻っていった。

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