額にひやりとした感触があった。次いで右腕に焼け火箸を突っ込まれたような激痛を感じた。

 眼を開けると、フードを脱いだミレーアがそばに蹲っており、横になったドルキンの額に手をあてていた。

「なぜ、私を呼ばなかったのですか?」

 ミレーアは表情を変えずに言った。肩まであるプラチナブロンドの柔らかい髪が軽く波打っており、前髪が汗で額に貼り付いている。大きな碧い瞳と卵形に縁取られた頬が彼女を幼く見せていた。薄い唇は意志の強さを感じさせる。

「呼んでいたら屍体が二つになっていたでしょう」

 ドルキンは激しい痛みと出血による眩暈に耐えながら呟いた。

「私はフィオナ様付きの修道女ですが、神の巫女でもあります。私の力を過小評価しないでいただきたいですね」

 ミレーアは形の良い眉を少しだけしかめ、左手に持ったドルキンの右前腕を肘の切断部に合わせてから、口の中で二言、三言、呪文のようなものを唱えた。

 襲撃者から矢を受けた時と同じ、淡いオレンジ色の膜がドルキンの右腕を包んだ。同時に灼熱の激痛は嘘の様に去り、優しい暖かさが右腕を包んだ。

 ドルキンが驚きと戸惑いを見せている間に、腕は元通り接合されていた。血は止まり、右手の指を動かすことも出来た。折れたはずの肋骨の痛みももう無かった。

「神殿の巫女が魔法を使うというのは本当だったのですね」

 ドルキンは、夢でも見ているような気分で自分の右掌を見つめた。

「巫女であれば程度の差こそあれ『神の祝福』を使えるのです。魔法ではありません」

 ミレーアは良く透る美しい声で応えた。立ち上がり、再びフードを被る。

「奥の院には魔物がいるとフィオナ様も仰っていたではないですか。今回の旅では私の力が必要になる、とも仰っていたはずです」

 ミレーアの声は静かだったが、表情には明らかにドルキンへの非難の色が浮かんでいた。

 その通りだった。確かに、教皇は宣託の中でアムラク神殿で異変が起こる可能性について言及していた。ドルキンの脳裏に教皇との謁見の場面が鮮やかに蘇った。

 一週間前。次代の教皇候補者に神の印を授ける「授印の儀」の前日に、ドルキンは、教皇の間に召喚された。枢機卿にも円卓の騎士たちにも告げられず、召喚は極秘裏に行われ、教皇の居室にはフィオナの侍女であるミレーアのみが控えていた。

「聖下、ご機嫌麗しゅう」

 天鵞絨の幕を捲り、人目を憚って修道士姿で教皇の居室に入ったドルキンはフードをとってからその場に跪き、面を伏せて挨拶を述べた。

「そのままで控えよ、ドルキン・アレクサンドル」

 教皇フィオナは擦れた小さな声でドルキンに声をかけた。

 ドルキンは部屋に入って直ぐに教皇の様子がおかしいことに気付いた。居室の中であるにもかかわらず分厚い外出用の正装を着込んでおり、フードを被ったままだったからだ。

「ご尊顔を拝するのは三十年ぶりでございまする。お変わりなく、恐悦至極に存じ上げます」

 しばし沈黙が続いた。

 漠然とした違和感を感じてドルキンは上目遣いに教皇を見た。だが、それが何なのか、その時ドルキンには分からなかった。不穏なざわつきだけが苦い酒のように胸の底に残った。

「どうされました、聖下……?」

 ドルキンは面を伏せたまま、視線を元に戻して言った。

 教皇はそれでもしばらく沈黙を守ったままだったが、やがて深く息を吸い、そして絞り出すようにして言葉を吐き出した。

「神の……フォーラ神の宣託を伝える。心して聴くが良い」

 そして教皇の宣託を聞いたドルキンは自分の耳を疑ったのだった。違和感は驚愕に変わり、そして困惑へと化した。このひとつきの間に、ファールデン王国のみならずこのユースリア大陸全土を危機に陥れる災厄が迫っていると言うのだ。そして、その災厄は人ならぬものによって引き起こされ、それを止めうるのはドルキンとミレーアだけだと聞かされたのだった。

「礼を言わなければなりませんね。ありがとう」

 ドルキンはそれだけ言って立ち上がり、二人の背後にある祭壇に歩み寄った。

 祭壇には旧い文字がびっしりと書き込まれている白い紐状の紙で封印された木の箱が奉じられていた。箱の脇に添えられているドルキンが持っていたのとはまた異なる意匠のフォーラ神の短剣で封印を切り、箱を開ける。

 中には一振りの斧が納められていた。短剣は魔物との戦闘で失ったものの代わりに左脇の鞘に収めた。

 この神斧は七つの聖堂神殿それぞれに一つづつ奉じられている神器のうちのひとつで、長さはドルキンの片腕ほどあった。柄の上端部に三日月状の曲線を描く斧頭が横向きに取り付けられていた。鈍い光を放つその刃は無骨ながらも強靭な斬れ味を感じさせる。教皇は宣託の中で、それぞれの聖堂神殿に奉じられているこういった神器たる武器をドルキンに集めるように指示したのだった。

 ドルキンは斧の柄を左手で握り、箱から取り出した。剣の鞘に巻いていた革の帯を取り外して斧に巻き付け、これを背負う。

「行きましょう」

 ミレーアに一度視線を向け、声をかけてから石扉に向かって回廊を引き返していく。

 ミレーアは軽く唇を噛んでいるように見えた。しかし、目深に被り直したフードでその眼の表情は窺えない。無言でドルキンの後を追ってきた。

 奥の院の外は冷たく透明な空気に包まれており、神殿が白い月明かりに煌々と照らされていた。

 神の階梯を降りて神殿の門前に拡がる暗い森の中に戻っていくドルキンとミレーアを、森の巨木の枝から白い梟が身動ぎもせず見つめている。

 ドルキンたちの姿が見えなくなると、梟は木の枝から飛び立ち、森の奥から現れた小さな影の肩にとまった。その影は、かたわらに寄り添う別の巨大な白い影と一つに溶け合うと、ドルキンたちの姿が消えた方向へ風のように走り去った。

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