本殿の手前にある巨大な石門に達したドルキンは、未だ渇き切っていない比較的新しい血痕が点々と奥の院に続いているのを見つけた。

 両手に握り締めていた剣を一度握り直してから、血痕を辿って奥の院に向かう。時は既に黄昏を終え、冷え切った空気を深い闇が支配していった。いつの間にか、雨は熄んでいる。

 女神フォーラを祀る神殿は、ファールデンのみならずユースリア大陸各地に点在している。それぞれの神殿に司祭が配置され、神殿の位がおのおのに異なっている。

 フォーラの秘蹟が残るといわれる七つの神殿を「聖堂神殿」と呼ぶ。聖堂神殿は教皇を直接補佐する枢機卿により治められており、その下部組織として司祭が治める各地の神殿が存在する。

 七つの聖堂神殿のうち最も地位の高い神殿が、アムラク神殿である。王都アルバキーナにあり教皇の居城でもある教皇庁も聖堂神殿の一つであるが、宗教的地位はアムラク神殿よりも低い。アムラク神殿はフォーラ神から最初に啓示を受けたと言われる神の子、「フィロ・ディオ・アーメイン」の出生地に最も近く、歴代の教皇もこの神殿から輩出されている。

 アムラク神殿の奥の院は、アーメインが生まれ落ちたチェット・プラハールの寺院の一部を移築したといわれ、フォーラ神信徒にとってはまさに聖地たる遺構となっている。その門が開かれることは滅多になく、普段信徒たちは形式だけ奥の院を真似た表神殿で儀式を済ませている。

 ドルキンは一枚岩で造られた巨大な石扉の前に立っていた。ドルキン自身は聖堂騎士として各地の神殿を訪れたことが少なからずあったが、アムラク神殿は男子禁制であったこともあり、神殿の門を越えたのは今回が初めてであった。教皇の許詞がなければ終生ここを越えることはなかったであろう。

 巨石の扉は女子供であれば辛うじて入れるほどに開いており、血痕はその奥深くに続いているように見えた。奥の院の中は塗炭を塗り込めたような闇に包まれている。心なしか生臭い微かな空気の揺らぎが奥の方から感じられた。

 ドルキンは渾身の力を込めて石扉を押した。僧帽筋が膨れあがり、肩に留めていた革鎧の留め金が音を立てて外れた。

 腰を落として少しずつ扉を動かすと、石と石が擦れ合って乾いた音がする。砕けた石がドルキンの髭に零れ落ち、雨に濡れた身体を白く染めて石畳の床に落ちた。

 ドルキンは扉の内側に据え付けられていた火の消えた松明を取り外し、扉の手前にあった篝火の炎を移した。奥の院の入り口に光が満ち、辺りの岩が奥に向かって長い影を落とした。

 奥の院の壁は古に行われたフォーラの儀式を描いた壁画になっており、石を敷き詰めた回廊が奥へ繋がっている。ドルキンは松明を左手に持ち、剣を右手で握り締めて極力音を立てないように石畳の上を進んでいった。回廊の所々に一定の間隔をおいて設けられている火の消えた松明に手にしている松明の火を移していく。

 血痕の主と思われる女がそこに倒れていた。身に纏った修道服は焦げて半身が露わになっていた。血に染まった白い乳房の半分も黒く焦げている。頭は原形をとどめないほどひしゃげており、手足も不自然な方向に折れ曲がったようになっていた。

 襲撃者によって傷を負わされた修道女が奥の院まで逃げて来、ここでとどめを刺されたのだろうか。それにしては、「神の階梯」で見た屍体とこの女の屍体とでは、あまりにも暴力の質が異なっていた。女の屍体に加えられたのは、暴力と言うよりは破壊と言った方が適切だった。

 突然、右上に大きな空気の揺らぎを感じたドルキンは、反射的に、身体を大きく前に投げ出し、そのまま前転して姿勢を低く構えた。頭を掠めて巨大な炎が振り下ろされ、敷き詰められた石の床を粉々に叩き割り、火の粉を振りまいた。

 ドルキンが持っていた松明は既に手を離れ、目の前に落ちていた。その数十倍はあろうかという炎の塊がドルキンの眼前に浮かび上がった。その炎が、巨大な槌が纏っているものであることに気付くのにしばらく時間がかかった。

 燃え盛る炎を纏った巨大な槌が再び振り上げられ、ドルキンの頭上目がけて振り下ろされた。槌の大きさは仔牛程もあった。溶岩の塊といった方が正確かも知れない。

 ドルキンの身体が、彼が考えるよりも速く動いた。炎槌の主の股座と思われる所を素早く潜り抜け、攻撃を躱しつつ背後に回り込む。

 奥の院の回廊は神像が祀られた大洞窟に続いていたようだ。ドルキンは自分の数倍の背丈はあろうかという槌の主の後ろから右脚の腱と思われる場所を狙い、渾身の力を込めて剣を叩き込んだ。剣が岩に噛まれたような音を立てて折れた。

 振り返って大きな咆吼を上げる「それ」の眼が憎しみの炎に燃え上がる。巨大な牡牛のような頭には二本の歪んだ太い角が生え、盛り上がった筋肉の鎧に包まれた身体そのものが溶岩でできているかのように各所から炎を噴き出している。数百の松明を灯したかのように周りが明るくなった。

 ドルキンは折れた剣を投げ捨て、左脇の鞘に納めていたフォーラの短剣を右手で抜いた。みたび振り下ろされた炎槌が顔を掠めた。銀の髭が黒く焦げ、嫌な匂いがした。

 ドルキンは炎を巧みに避けて巨大な槌から「それ」の腕を伝って猫のようにその肩へ登った。普通の人間であれば急所であるはずの首の後ろの部分に短剣を捻込む。刺さった。

 「それ」は激しく上体を振って左手を首の後ろにやり、ドルキンを掴もうとした。ドルキンは二度、三度と短剣を延髄に捻込むとその肩から飛び降りた。

 しかし、「それ」がドルキンの脚を掴むのが一瞬早かった。

 ドルキンはそのまま石畳みの床に叩き付けられ、左の肩胛骨と肋骨が折れた衝撃で息が詰まった。

 「それ」は両手で炎槌を振り上げ、身体を起こせないでいるドルキンに向かって叩き付けた。

 ドルキンはかろうじて身体を捻りその攻撃を躱したが、不十分だった。右前腕が肘の先から千切れ飛んだ。

 ドルキンは眼を閉じ、神に召される覚悟をした。手元に武器はなく、次の攻撃を避ける余力は残っていなかった。

 その時、轟音と共に大洞窟の天井が崩れてきた。月の光が射し込んでくるのが、微かに視野の隅に写った。

 次の瞬間、天から雷鳴が轟いて雷光が奔り、ドルキンが魔物の身体に残した短剣を直撃したように見えた。

 一瞬巨大な石像と化したように動きを止めた「それ」は、その姿のまま地響きを立てて岩や瓦礫が散乱する奥の院の床に倒れた。

 身に纏っていた炎が消えたかと思うと、「それ」の巨躯があっという間に黒い煙に包まれ、内側から破裂するように四散した。その衝撃に吹き飛ばされ、瓦礫に身体をしたたかに叩き付けられたドルキンは、意識を失った。

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