「お疲れではないですか。もう少しで着きます」

 ドルキン・アレクサンドルは雪になり切れない冷たい雨で濡れた古傷だらけの右腕を、顎と頬を覆う銀色の髭で拭いながら馬上から振り返った。髪のない年季の入った鞣し革のような頭皮から雨水が彫りの深い眼窩を伝って顎髭はぐっしょりと濡れている。辺りの気配を測るために既にフードは外してあった。

 ドルキンが騎乗している筋肉質のアダブル種の黒牡馬より一回り小柄で、白と黒の斑が周りの寒々とした森に溶け込んでその存在を目立たなくしている牝馬の上で、白い薄汚れたマントとフードを身に付けた女が微かに首を振った。フードのくぼみに溜まった雨水が牡馬の鬣に零れ落ちる。

 無口な女だ。ドルキンは、この女が無口であることをフォーラの神に感謝した。

 彼は女が苦手だった。姦しく騒ぎ立てる女はいつも彼をいらいらさせたし、女で身を持ち崩した騎士も少なからず知っている。何より彼が受け入れ難いのは、その時々で自分を変え、それを佳しとする女の性情であった。

 女はミレーアと名乗った。教皇の身の回りを世話する修道女である。まだ若い。外見は二十歳そこそこに見えた。

 ドルキンが聖堂騎士として円卓の騎士に任じられてから、三十年が経とうとしていた。

 唯一絶対の女神フォーラの恩寵を一身に受け、その神と教義を護ることに生命を捧げる、卓越した技能を持つ聖堂騎士でも円卓に任じられる者はほんの一握りであった。

 王都アルバキーナ守護神殿騎士団に所属する彼は円卓の騎士の中でも熟練の技を持ち、野心と情熱と若さに満ちた新参騎士の挑戦を幾度となく退けてきた。彼は人生の全てを神に捧げ、そろそろ老境に入るこの時まで妻帯したことがない。

 ドルキンが教皇から召喚を受けたのは一週間前のことだった。如何に高位の騎士と雖も、教皇から直接召喚されることはまずない。しかもドルキンの召喚は極秘裏に行われ、その事実を知る者は教皇の身の回りの世話をしていた修道女のみであり、腹心であるところの枢機卿たちにも知らされていなかったようだ。そしてドルキン自身も、召喚の事実を同僚の円卓の騎士たちに知らせることもなく、教皇の謁見が終わるとすぐに、従者も連れず北方へ向けて旅立った。

 謁見の場で、教皇はこの国の未来に暗雲をもたらす不吉な神の予言を宣託し、危機を未然に防ぐための旅立ちをドルキンに命じたのだ。教皇は修道女ミレーアの同道を義務付けると共に、それ以外の一切の従者、護衛の同行を禁じたのであった。

 ドルキンとミレーアは途切れることのない深い森の中を、ほとんど土に変りつつある湿った落葉の道を踏み締めながら進んでいく。時折聞こえる黒鵺の声が寂寞とした空気を切り裂いた。黄昏は近い。

 そろそろサンルイーズ山脈に達しているだろう。目的地であるアムラク神殿は、この山の中腹にある。ドルキンは馬を進めながら頭を上げて前方を見渡した。氷混じりの雨から霧雨に変わった空は茫漠としており、山頂は見えなくなっている。

 密生していた樹々の陰が途絶え、突然視界が開けた。

 綺麗に整地されたその場所は、神殿への入り口が近いことを示していた。白い巨石を彫って女神フォーラを守護する神殿騎士を模した像がお互いに向かい合うようにして佇立しており、無言で訪問者たちを誘っているように見えた。

 空気を切る、鋭い音が聞こえた。

 ドルキンは空気の震えを感じた瞬間、鐙から脚を外し、そのままわざと落馬した。標的を失った矢は湿った大木に深々と刺さり、いくつかの矢は霧雨の幕の向こうに力を失いながら消えていった。

 手綱を放して鞍に着けてあった盾を取り、湿った柔らかい土の上に落下すると同時に腰の剣を抜いたドルキンは、馬上のミレーアを仰ぎ見た。

 ミレーアは淡いオレンジ色の光に包まれていた。彼女に向かって放たれていた矢が、ドルキンが見ているその前で、オレンジ色の光の玉の中で停止して力を失い、地面に落ちた。

 ドルキンは神殿の修道女は神に祝福された術を使うという噂話を聞いたことを思い出した。それは魔法のようでもあり、神の奇跡のようでもあるという。

 ドルキンは立ち上がるとミレーアの乗った牝馬の手綱を引いて濃い森の木立に引き返した。うねった枝を持つ太い樹の陰に身を隠す。ドルキンの馬は後から尾いてくる。

「ここで待っていてください」

 ドルキンはミレーアに囁き、樹の陰に身を移しながらその開けた場所を注意深く観察した。矢の射線から判断して、射手は正面の神殿騎士を模した巨石の方にいる。敵は多くない。放たれた矢の数とタイミングから人数は二、三人程度と見た。

 ドルキンは大柄な体格には不似合いなほど静かに、そして年齢に相応しからぬ素早さで森の中から巨石の裏側へ回り込んでいく。かつて若かりしころ、村を襲った二メートルを越す凶暴な銀狼を屠り、その皮を鞣して鍛え上げた鎧は強靭でありながら隠密行動を邪魔しない。

 巨石の陰には二人潜んでいた。その右奥にある、樹齢が数百年を経ているであろう大樹の枝の上にもう一人が見えた。ドルキンは、彼自身が銀狼であるかのように動いた。

 鐔に女神フォーラの意匠を施した短剣を右手に持ち、人差し指と中指を鐔に掛け、潜んでいる襲撃者たちの背後から近付いていく。

 まず、巨石の陰にしゃがみ込んでいた手前の男の口を左手で押さえ、頸椎を抉った。

 もう一人の射手がドルキンに気付き慌てて振り返ったが、その時にはその男も肋骨の隙間から斜めに入った短剣に心臓を貫かれていた。男は叫び声も上げることなく倒れ伏した。血は雨に溶けて静かに土中へ吸い込まれていった。

 枝が折れ、濡れた土に着地する音が聞こえた。ドルキンは三人目の射手を追った。

 短剣を胸の鞘に収めながら追いつくと腰の剣を抜き、森に逃げ込もうとする男の背中に右肩から叩き付けた。少し長めの刀身は右の肩甲骨と背骨を折って腰骨に達したところで止まった。

 濡れた土の上に倒れる前に射手の身体を抱きかかえ、そっと足元に横たえたドルキンは、そのままの姿勢で辺りの様子を窺った。人の気配はなかった。雨の音と、屍体の切断部から噴出し続ける血の音しかしない。ドルキンはしゃがみこんで屍体を検め始めた。

 初めて見る装備であった。鎧は革製であったが、ファールデン王国で一般的に見られるものとは色や形が全く異なる。わざと獣か何かの血を吸わせているのか、異臭のする深い紅褐色に染められた鎧は禍々しい不吉なものに見えた。

 屍体が身に着けていた短剣も見たことのない造形をしている。刃は曲剣のように反っており、切っ先が鈎型に手前へ折り返していた。ドルキンはファールデン王国のみならず近隣諸国の武器装備に造詣が深いが、少なくともファールデンと関係のある諸国の武器にはこういったものは存在しなかった。

 ドルキンは立ち上がり、注意深く辺りを見回した。襲撃を受けてから時間にして五分と経っていない。

 森を出て開けた場所から山腹に向かって大きな石階段が延びており、特徴のある形をした石門の向こうまで続いている。アムラク神殿への入り口だ。そして、その石段の所々にドルキンが斃したのではない屍体が、点々と転がっているのが見えた。

 ドルキンは階段を上り、あたりに散らばる屍体を一つ一つ検めていった。

 屍体の種類は二つあった。一つはドルキンたちを襲った射手と同じ装備をしていた。そしてもう一つは銀色の鎖帷子を身に纏い、斧槍状の武器であるハルバードを握りしめていた。一目でアムラク神殿の衛士と分かる屍体であった。その幾つかは白金の鎧を身に付けているので上級神殿騎士も何人か含まれているようだった。

 アムラク神殿の石階段は「神の階梯」と呼ばれ、本殿に到るまで二千段余あるといわれている。ドルキンは剣を握り直すと、ゆっくりとその階梯を登っていった。

 かなり大掛かりな戦闘が行われたようだった。石段の上に累々と横たわる屍体はこの寒さの中でも腐敗が始まっており、既に戦いに決着が付いて相応の時間が経過したことを示している。ドルキンが斃した射手たちは、神殿を襲った勢力の生き残りであったのかも知れない。

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