霧の黄昏
泰山 沐
一
大柄な兵士が両手で大剣を振り上げた。
騎士は、細身の身体をむしろその兵士に寄せるようにして懐に入り込んだ。右足を踏み込み、素早く大剣の描く大きな放物線の内側に入る。
大人の身長ほどもあろうかと思われる大剣は空を切り、苔生した岩に当たって白い火花を散らせた。
大剣を振り切って無防備になった兵士の首筋を狙って騎士は剣を叩き付けた。肉が潰れる嫌な音がして兵士は大剣を足元に取り落とした。
騎士はその隙をとらえて右脚で兵士の胸板を蹴り上げ、大きくのけ反って露になった兵士の喉元に突きを加えた。
樽型の鉄兜が吹き飛び、兵士の苦痛に歪む顔がさらされた。一瞬目が合ったその瞳が、闇に暗く瞬いたように見えた。
チーズを切るように喉を貫通した剣先は、兵士の背後にある枝が曲がりくねった大樹の幹に苦もなく突き刺さった。
騎士は声を発さず気合いを内に込め、一呼吸で剣を樹の幹から引き抜いた。兵士は首から血を振りまきながら、濡れた砂袋のような音を立てて地面に斃れた。
明るかった空は既に力を失っており、重く湿った闇が騎士の身を抱きすくめてくる。
騎士は血に濡れた剣を何度か振って汚れを飛ばし、鞘に納めた。襲撃者の屍体を一体ずつ探っていく。携帯用の食糧や薬草、弓矢を奪う。金貨や宝飾品もあったが、そのままにしておいた。この山の中では役に立たないし、かさばるだけだ。
屍体から立ち上ってくる糞尿の異臭も、白金の鎧の下に着込んでいる布鎧まで染み込んでくる血液の生臭さも気にならないほど嗅覚は麻痺し、騎士は自分が女であることさえ忘れていた。敵を探る意識だけが研ぎ澄まされ、全神経は生き残ることにのみ注がれていた。
屍体を検め終わり辺りを見渡した彼女は、すぐそばにある岩に直剣を立て掛けてフルフェイスの兜を外し、喉当てに手をかけた。
大きく息を吸って呼吸を調える。兜を外して露わになった豊かな漆黒の髪が、大きく波打った。後頭部で長い髪を引き結んでおいた紐は解けてしまっていた。
サンルイーズ山脈の中腹にあり、国の北方を護るアムラク神殿所属の騎士団から脱走して何日が経過したであろう。既に時間の感覚は失われ、彼女の疲労は精神的にも肉体的にも極限に達していた。
不意に近くの闇が揺れた。彼女のうなじの毛が逆立ち、アドレナリンがふたたび彼女の身体を駆けめぐり、頭の芯に火をつけた。
振り返りざまに立て掛けた鞘から剣を抜き、人の気配が満ちた闇に向かって突き出す。手応えがあった。
剣は闇に潜んでいた別の兵士の兜をとらえ、ちょうど目の開口部を直撃した。絶叫を上げて兵士は剣を落とし、両手で顔を覆ってその場にうずくまった。
もう一人の兵士が槍を繰り出したきたのに対して、剣を、円を描くようにして払い、刺突攻撃をかわす。
舞い上がった長い髪が一瞬彼女自身の視野を遮り、左から迫ってくる剣を持った新手の兵士の姿を見失った。かろうじてその一撃を剣の鍔で受けたが、角度が甘かったために兵士の剣の切っ先が彼女の額を直撃した。
鋭い痛みとともに強い衝撃が後頭部に抜け、急激に意識が薄れていった。身体が自分のものではないような気がした。
何人もの足音が自分を囲むのを微かに意識しながら、彼女はそのまま深い闇の底に沈んでいった。
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