第71話 努力の証
訓練を終えた和也は、京都駅地下の浴室を訪れていた。脱衣カゴの前に立ち、制服のジャケットを脱ぐためボタンに手をかける。その瞬間、疲れがドッと押し寄せて来た。倒れずにいられていることが不思議に思えてしまう程疲労が蓄積しており、全身が痛い。
和也の訓練は、鉄輪指導の元で数時間に渡り行われた。非常に過酷な内容であったが、おかげで能力は着実に完璧な状態へと近付いていた。暴走を完全に抑えられたわけではないものの、意図せずに上昇してしまう距離は半分以下にまで減少している。
しかし、能力の発動までに必要とする時間は大きく変化しておらず、鉄輪から実戦での使用はまだ早いとの判断を下されていた。
能力を完璧な状態にして訓練を終えたかった気持ちはあるが、できなかったものは仕方がない。暴走を抑えられるようになっただけでも良しと考えるべきだろう。おかげで、大阪駅に戻っても練習を続けることが出来る。
純粋な第四世代である鉄輪の能力に追いつくには途方もない時間が掛かるだろうが、自分を信じて更なる能力向上に努めれば必ず到達できるはずだ。ここまで乗り越えてこれたのだから。
そのためにも溜まった疲れをしっかりと取り除かなければならない。早めに入浴を済ませ、睡眠時間を一秒でも多く確保しなければ。
和也は制服のジャケットと長袖ワイシャツを脱ぐと、軽く畳んで脱衣カゴに入れた。続いて、ワイシャツの下に着用している綿の肌着を脱ごうと手をかける。その時、両肩に強い痛みを感じた。思わず顔を顰めてしまう程の痛みに服を脱ぐ手を止める。
両肩を確認すると、うっすらとではあるが血の染みた後が付いていた。
原因は恐らく鉄輪によって押さえつけられたことだろう。暴走し、制御の効かない体が何度も衝突したのだ。皮膚が擦り切れるのも頷ける。
傷口に張り付いてしまっている肌着を剥がそうとしたが、先程と同様の強い痛みを感じ中断した。思わず声を漏らしてしまいそうになり歯を食い縛る。
早く入浴して疲れを取りたいが、一気に剥がすような真似をすれば耐え難い痛みに襲われることは確実だ。和也は、長時間貼り付けていた絆創膏を剥がす際と同じ要領で慎重に肌着を持ち上げていく。
少し剥がしては痛みに手を止め、深呼吸の後に再開する。これを繰り返すこと約三十秒、肌着の下から現れた皮膚は綺麗に擦りむけていた。引き剥がしたことが刺激になったようで点々と血が滲み始めている。
完治には一週間程かかるだろうか。それまでは生活の質が著しく下がってしまうが、押さえてもらわなければ高確率で命を落としていた。この程度で済んで良かったと感謝すべきだろう。
和也は血の染みた肌着を適当に畳んで脱衣カゴへ押し込むと、入浴セットを片手に浴室へと向かった。
***
和也は浴槽に張られた湯にゆっくりと体を沈めた。うっかり肩まで浸かってしまわないよう気をつけながら、訓練によって溜まった疲れを溶かしていく。
先程、入浴前のシャワーを普段通りに浴びてしまい、随分と情けない悲鳴を浴室に響かせてしまった。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
その際に感じたヒリヒリとした痛みは、まだ両肩に残っている。安心して入浴できる日が早く戻ってくるように願いながら、和也は湯気に覆われている天井を見つめた。
白い湯気がふわふわと漂う様子を見ていると、頭の中から余計な考えが抜けていく。耳に届くのは、雑談をする声やシャワーの水音。時折、扉の開閉音がそれに混ざり、誰かが湯船を出入りする度に水面が僅かに波打つ。
その小さな波を全身で感じていると、次第に眠気を感じてきた。ここで寝ては駄目だと頭を振り、意識を保つ。
「疲れは取れたか?」
突然の聞き慣れた声に、微睡かけていた意識が引き戻された。
声の聞こえた方向へと顔を向けた和也の視界に映ったのは、洗い場をこちらへ向かって歩いて来る鉄輪の姿。一服してから風呂に行くと言われ、訓練終了後に別れていたのだ。
「少しお湯に浸かった程度で訓練の疲れは取れませんよ」
和也は、鉄輪の問いかけに正論を投げ返す。鉄輪はそれに対してニヤリと笑うと、「そりゃそうだ」と言いなから湯船に体を沈めた。
距離が近く、水面の揺らぎが大きい。波打った湯が肩の傷にかからないよう注意を払っていると、「それ」と鉄輪が和也の肩を指差しながら言った。
「肩の傷、結構酷いな」
「そうですね。痛いし染みるので、しばらくの間は苦労しそうです」
和也はそう答えながら、改めて傷口に目を向けた。肌着を引き剥がしたことによる出血はすでに止まっていたが、痛々しいことには変わりない。
「まあ、傷に見合うくらいの努力はしたんじゃないか? なかなか頑張ってたと思うぜ」
鉄輪が珍しく直接的な言葉で和也を讃えた。それだけ真剣に取り組めていたということだろうか。
どことなく照れくさいが、ここはありがたく受け取るべきだ。
「こちらこそ、訓練を担当してくださりありがとうございました。鉄輪さんの能力に追いつけるように頑張ります」
「追いつけたら是非見せてくれよ。何年かかるか分からねえがな」
今までなら腹を立てていたであろう鉄輪の煽りも、最終日ともなると寂しさの方が勝ってしまう。二度と会えないことはないが、指導を受けたり共に戦うような日は特別な事情でもない限りこないだろう。
「お礼として鉄輪さんに贈り物をしようかと思っていたんですけど、何も用意できなくて……申し訳ないです」
和也は手ぶらで訓練を終えてしまうことを詫びたが、鉄輪は「別に気なんて使わなくていい」と顔の前で軽く手を振った。
「でも食事も奢っていただきましたし、何もしないわけには……」
「そうだな。じゃあ、礼として俺の頼みを聞いてくれよ」
鉄輪の投げかけてきた提案に、それがお礼になるならばと和也は頷きを返した。だがその直後、無茶な頼み事を押し付けられる危険性が脳裏を過ぎる。
深く考えず了承してしまった後悔が押し寄せてきたが、ここは鉄輪を信頼するしかない。
「俺の家に来てほしいんだ」
「……は?」
あまりにも予想外の頼み事に、思わず呆けた声が漏れた。
まさか親睦を深めるために招待したいとは言わないだろう。何か理由があるだろうことは間違いないが、まるで思いつかなかった。
「家……って、どうしてですか?」
和也は酷く混乱している頭を懸命に動かし、何とかその問いかけを絞り出した。鉄輪が、どことなく言いにくそうな表情を浮かべながら口を開く。
「実は、お前の東京駅での話が俺の親父と爺さんにバレちまってな。話をしたいと言って聞かないんだ」
鉄輪曰く、東京駅での出来事を神田から直接伝えられたのは鉄輪と殿護だけなのだが、隠し事をしている気配を察した二人が鉄輪に話すよう迫ったらしい。
「面倒くさいことになるから隠し通したかったんだが、執拗に迫られて口を割っちまった……申し訳ない」
鉄輪は和也に対して一言詫びると「あの二人に勘付かれた時点で負けだ」と呟きながら雑に頭を掻いた。
「というわけで、二人の相手をして欲しい。別に全てを話せとは言わないし、話したくないことは話さなくていいからな」
「分かりました。それでいいなら」
正直気は進まないが、達成できる見込みのある内容だったことに和也はほっと胸を撫で下ろした。
「助かる。明けにでも勤務予定を教えてくれ」
鉄輪は笑顔で感謝を述べると、「頼んだぜ」と言って和也の右肩を勢いよく叩いた。
強烈な痛みが全身を駆け巡る。浴室全体に和也の情けない悲鳴が響き渡った。
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