第70話 最終訓練
和也は、訓練所の固く冷たい床に体を投げ出した。途端に肺が慌ただしく空気を入れ替え始め、全身から汗が吹き出す。酷使され疲労の溜まった手足は重く、ピクリとも動かなかった。
「潰れるのが早いぞ。情けないな」
鉄輪がそう言いながら、呆れた表情で和也を見下ろす。
荒い呼吸は一向に
今回の訓練における鉄輪の熱量は、今までと比べて明らかに激しかった。恐らく、直接指導できる最後のチャンスであることが理由だろう。
最初に行った模擬戦闘の時点で速さ動き共に前回を上回っており、和也は反撃の隙すら与えられないまま体力の三分の一近くを一気に削がれてしまった。
しかし、当の鉄輪に疲れた様子は一切見られない。攻守で疲労の蓄積度合いに多少違いはあるのかもしれないが、それだけが理由とは思えなかった。やはり体力の最大量には大きな差がある。
模擬戦闘を終えた段階で和也は休憩を要求したが、それは鉄輪が次の訓練内容を宣言する声によって掻き消されてしまった。疲れを感じさせない涼しい顔で「次は飛行訓練だ」と告げる姿は、まるで和也が疲弊していく姿を楽しんでいるかのように思えてしまう。
その後も過酷な訓練が続き、体力尽きた和也は現在の状況へと至ったのだった。
「少し……休憩させてください」
和也が息を切らしながらも再度要望を伝えると、鉄輪はあからさまに不快な表情を作った。腕を組み、先程よりも大きなため息をつく。
「やっぱり、訓練には筋トレを追加すべきだったな。そうすればこの程度でへばったりしなかった」
その言葉を受けた和也の脳裏に、訓練初日の夜に脱衣所で行われた会話が蘇った。飛行能力が発現しないのは筋肉量が足りないからだと難癖をつけられ、訓練内容に筋力トレーニングを追加しようかと脅された記憶。
幸いにもそのようなことにはならなかったが、当時は随分と肝を冷やしたものだ。
だが、仮に追加されていたとしても然程結果は変わらなかっただろうと思う。鉄輪のような筋力や体力を付けるには年単位の時間が必要になる。一朝一夕で身につけられるものではない。
その旨を伝えると、鉄輪は「はいはい」とあしらうような返事を口にした。
「分かったよ。じゃあ、オレが煙草から戻って来るまでに回復させておいてくれ」
今回は特別だとでも言いたげな口調で告げると、鉄輪は振り向くことなく訓練所を出て行った。
金属扉の閉まる音が広い空間に大きく反響する。和也は天井に幾つも釣り下がっている金網付きの照明に視線を戻すと、息を吐き出しながら静かに目を閉じた。
呼吸はやや落ち着きを取り戻し始めているが、やはり四肢の重い痛みは取れない。明日の筋肉痛は確実だろう。
疲弊した体を休ませようとしているのか、強い眠気が襲いかかってきた。争うべきだろうか? と和也は少し悩んだが、鉄輪の煙草休憩はそれなりに時間が掛かっていたことを思い出した。
――短時間の仮眠ならば大丈夫だろう。
和也はそのように判断し、益々強くなる眠気に身を委ねることを選んだ。
***
「おい」
聞き慣れた声が和也の鼓膜を震わせる。同時に、独特で強い煙草の臭い。和也は自らを縛り付ける強い眠気を振り解くと、重い瞼を開いた。
視界に映ったのは、意識を手放す前と変わらない天井。「起きたか?」と声がする方へ視線を向けると、床の上に胡座を組んで和也を眺める鉄輪と目が合った。
その表情は実に退屈そうに見える。
「随分と熟睡してたな。それだけ眠れば体力は万全だろ?」
鉄輪は言い終えると、口角を上げてニヤリと笑った。その場に立ち上がりながら、「続きをするぞ」と和也に声をかける。
和也はようやく得られた休憩時間が過ぎ去ってしまったことに切なさを覚えながらも、仮眠によって少しばかり軽くなった体をゆっくりと起こした。
大きく伸びをして固まった筋肉を解し、激しい訓練に備える。腰に挿していたフライ旗を抜こうと手を添えた時、鉄輪がそれを静止した。
「武器化はしなくていい」
「どうしてですか?」
和也の問いかけに対して、鉄輪は数秒の沈黙を挟んだ後に答える。
「もう一度、助走なしの飛行に挑戦してみないか?」
「え?」
「最後なんだ。試せることは全部試して終わろうぜ」
鉄輪の言うことは尤もだ。多くの訓練や実戦を経たことで、助走なし飛行を成功させるために足りなかった何らかの要素が知らずに身に付いている可能性だって十分に考えられる。試さずに終わるのは勿体無いだろう。
そして、これは仮に成功した場合を考えてアドバイスできる第四世代がいる時に行った方が良い。つまり今が最後のチャンスだ。
「分かりました。やってみます」
和也はフライ旗に添えていた手を離すと、両足を肩幅に開いた。この方法での飛行は早々に諦めてしまっていたため、少しばかり懐かしさを感じる。
深く息を吸い込み、肺に取り込んだ空気を少しずつ吐き出しながら
数秒の後に足先が仄かに熱を持ち始めたが、ここまでは経験済みである。問題はこの先だ。焦る気持ちはノイズとなって成功への道を狭める。和也はできる限り感情を排除し、冷静に自らと向き合った。
耳に届く音は心臓の鼓動と呼吸のみという静かな空間で、目を閉じて集中し続ける。
三分、四分と能力が発動することなく時間が過ぎ去るが、和也は決して気持ちを下に向けなかった。能力を発動させるために足りなかった
自分は出来る。そんな確固たる自信を抱えながら五分経過を迎えたその時、今までに感じたことのない熱を足全体に感じた。
直後、全身を包み込む浮遊感。驚いて思わず開いた目に映ったのは、浮き上がる自らの両足。
「や――」
『やった!』。そう喜びの声を上げようとしたのも束の間、和也の体は突如として急上昇した。止まれと念じるが効果はなく、かなりの速さで天井へ向かって突き進んでいる。
このまま上昇が続けばどうなるかは、半ばパニックになりかけている頭でも分かった。能力をコントロールしようと踠くが、効果はみられない。
頭上を見上げると、至近距離にまで天井が迫っていた。この速度で衝突すれば怪我では済まないだろう。
どうにか時間を稼げないかと再び踠き始めた時、和也の視界に被さるようにして人影が飛び込んできた。
「鉄輪さん!」
駆けつけた鉄輪は黙って和也の両肩に両手をつくと、和也の体を地上に向かって押しつけながら逆さ立ちをした。
直後、伸ばされた両足が天井と接触する。和也の体は鉄輪がストッパーとなったことで停止したが、まだ上昇は続いているようで両肩に食い込むような痛みを感じる。
「おいおい、どこまで行っちまうんだ?」
そう問いかけてくる鉄輪は口調こそ普段通りではあるものの、表情には僅かながらの焦りが混じっていた。
「すみません。能力が上手く制御できなくて……」
「慣れない発動方法をとった影響で暴走したんだろう。慣れてくれば起こらなくなるはずだ」
鉄輪はそのように説明すると、「とにかく今は発動を解くことに集中しろ」と和也に指示した。
和也は「はい」と短く返事をした後、目を閉じて俯く。暴走中は難しかったものの、パニック状態から脱した今からば落ち着いて対処ができるだろう。水面に浮かぶ時のようなイメージで、焦らずゆっくりと全身から力を抜いていく。
肩に感じていた痛みが徐々に弱まっていき、やがて完全に消失した。同時に、浮遊力を失った体が地上へ向かって急降下する。
和也は再度能力を発動して空中に止まろうとしたが、それよりも早く左腕が何かに引き寄せられるようにして頭上に大きく引っ張られた。
真っ直ぐに伸びたその腕を鉄輪が強く掴む。
「このまま下ろしてやるから、じっとしていろよ」
鉄輪は逆さまになった姿勢のまま告げると、徐々に高度を下げ始めた。
和也は宙吊り状態のまま、改めて地上へと視線を向けた。少しずつ近づいてきているとは言え、やはり身震いする程の高さがある。短時間でこれだけの高さに到達できる速度を出していたのだから、仮に衝突していたら命はなかっただろう。
既に回避し終えた最悪の結果を想像している間にも高度は下がり続け、やがて和也の両足が床に触れた。危機を脱した安堵感からか、小さく息が漏れる。
鉄輪が掴んでいた腕を離し、和也の前へと降り立った。
「やるじゃねーか。まさか本当に出来るとは思わなかった」
「自分でも驚きです。ただ……これを出来たと言っていいものでしょうか?」
発動して嬉しい気持ちは当然ある。だが、想像と大きく違っていたことに対する戸惑いも大きかった。
力の制御が不完全な状態では蠢穢を追い立てることなど到底不可能。実戦で役に立たなければ意味がないというのに。
「じゃあ、自信を持って出来たと言えるまで練習すればいい。幸い、まだ少し時間はあるんだ」
鉄輪のその発言が、和也の心に降り積もる不安や戸惑いをまとめて吹き飛ばした。
早く強くならなければという使命感に縛り付けられ完璧を追い求めてしまっている今の自分からは出てこなかったであろう考えに触れ、和也は体全体にかかっていた緊張が一気に解れるのを感じた。
「……そうですね。最後までよろしくお願いします」
和也は目の前の頼れる指導者に頭を下げる。鉄輪は「任せろ」と自信ありげな笑みを見せ、和也の右肩を強く叩いた。
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