第69話 寒雨

 東京駅で真実を知った日から早くも二週間が経過し、自らの身に何が起こっても世界が大きく変わることはないと和也は改めて実感した。

 環状線の混雑は相変わらずであり、駅構内では大小様々なトラブルが毎日のように繰り広げられている。


 暦が十一月に変わりUWJで行われていたハロウィンイベントは終了したが、そう日を置かずにクリスマスイベントが開催されるため気を抜けないのが現実だ。

 ハロウィンと同等かそれ以上の混沌さを呈するのかと思うと思わずため息が漏れそうになってしまうが、仕事中に憂鬱な顔をするわけにはいかない。

 ぐっと堪え、和也は一番ホームの京橋駅側を見据えた。足を肩幅に開き、細く息を吐く。直後に自動アナウンスが流れ始めた。


 土曜日の昼間である今は、平日とは客層が異なっている。普段鉄道を利用していない人や、利用はしているが環状線以外の路線である人など様々だ。不慣れゆえのトラブルが発生する可能性を意識しながら、昼食前最後の列車を出迎える。

 冷風をその身に纏った列車が、短く警笛を鳴らしながら勢いよくホームに入線して来た。和也の両耳が冷風の直撃によって冷やされ僅かに痛む。


 先週から急激に寒さが厳しさを増し、いよいよ本格的に冬らしくなってきた。列を作る乗客達にも、薄手ではあるがコート姿が目立ち始めている。

 これからの季節に駅員や乗務員を悩ませるのが、所謂『着膨れ遅延』である。服を沢山重ねるとその分だけ面積が大きくなり、列車の乗車可能人員が減ってしまうという問題を指す言葉だ。

 積み残しが発生することは勿論、乗り降りには他の季節よりも時間がかかってしまう。また、混雑の蒸し暑さと暖房の組み合わせによって体調を崩す乗客も珍しくない。


 夏とはトラブルの質が変化するため、当然対応も変わる。柔軟な対処ができるようなシミュレーションが必要だろう。

 和也は乗客の降車と乗車の双方にトラブルの種が隠れていないか注視しながらアナウンスを送る。殺気立っている平日の通勤ラッシュとは違って素直に諦めてくれる乗客が多く、ほぼ定刻通りに戸締めの合図を出すことができた。


 合図を受けてドアが閉まる。ゆっくりと動き始めた列車が速度を上げてホームを走り抜けるまでを見守ると、和也はほっと肩の力を抜いた。それに合わせて、お腹がぐうと音をたてる。

 無事、転落や喧嘩などの大きなトラブルなく休憩前の業務を終えることができた。休日ということもあるが、客層が良かった点も大きいだろう。

 早めの昼食を食べ終えて交代にやって来た先輩職員にフライ旗を手渡すと、和也は軽い足取りで環状線ホームを後にした。




 和也は、昼食を基本的に駅ナカのコンビニ弁当で済ませる。家から持参するより昼食代はかさむが、荷物にならず洗う手間も省けるためメリットは大きい。

 今日の昼食は何にしようか? と考えながら二階コンコースにある駅ナカコンビニへと入店する。


 様々な弁当が並ぶ中から、和也は迷わずヒレカツ弁当を選び取った。健康のためには隣の温野菜弁当を選ぶべきなのだろうが、野菜中心だとどうにも食べた気になれない。やはり満腹中枢の刺激には肉が必要だ。


 会計をSKIPで手早く済ませ、コンコースの人波を避けながら駅務室に戻る。

 駅務室奥のテーブルで、休憩時間が重なった先輩達数人と談笑しながらヒレカツを胃袋へ運んだ。衣のサクサク感は失われているものの、肉の甘味はしっかりと感じられる。ソースも丁度良い甘辛さで値段相応の美味しさだった。


 談笑を続けながら満腹になった胃袋を落ち着かせていると、あっという間に休憩時間は終了を迎えた。まだ足りないと文句を言いたい気持ちではあるが、いつまでも休んでいるわけにはいかない。

 和也は名残惜しさを覚えながらも制帽を被り、姿見で身嗜みを確認してから駅務室を出た。


 時間前と変わらない混雑ぶりを呈するコンコースを、環状線ホームへと戻るために足を進める。ずらりと並ぶ改札機の前を通り過ぎた時、突然背後から右肩を叩かれた。


「はい?」


 振り返った和也の目に映ったのは、白色無地のセーターに黒色ボンバージャケットを羽織り、スキニーデニムを履いた若い男性。

 乗り換えなどの質問にきた乗客かと思ったが、そのツーブロックの髪型と整った顔立ちには見覚えがあった。制服姿ではないため同一人物であると判断するのが遅れたが、この男性は鉄輪将臣で間違いないだろう。


「よう。元気そうだな」


 聞き慣れた声が耳に届いた。声まで一致していることから鉄輪で確定ではあるが、私服姿からこの声が発せられていることに強い違和感を感じてしまう。


「まあ、それなりに」


 自らの口から随分と雑な返事が飛び出してしまったことに和也は驚いた。そのようなつもりなど一切なかったのだが、取りきれていない疲れの影響だろうか。

 和也は一言謝ろうとしたものの、鉄輪はその返事を落ち込んでいるからだと判断したようだった。手入れのされた形の良い眉が下がり、同情的な視線が和也に向けられる。


「殿護さんから聞いた。東京駅でのこと」


 鉄輪が声を顰めて言った。曰く、神田から殿護経由で話が伝わっているらしい。指導係として知っておくべきだと神田が判断したのだろう。


 自らの心を守るために記憶の隅で凍結させていた駅神との会話が、鉄輪からの言葉をきっかけにじわりと溶け出した。神使の感情的な声が鮮明に思い出され、強い寒気が腰から首の後ろにかけてを勢いよく駆け上がる。

 事実を受け入れると決めたものの、精神が適応するには時間がかかるようだった。


「……そうですか」


 和也が返せた言葉はそれだけだった。精神的苦痛から眉間に強い力が入っているのが分かる。口元もへの字に曲がり酷い表情になっているのだろうが、どうにもうまく力が抜けない。

 鉄輪はそんな和也の様子を見て、発しかけていた言葉を止めた。数秒間の気まずい沈黙の後、和也の肩が叩かれる。


「仕事が出来ているようで良かった。明後日は最後の訓練だからな」


 鉄輪は「忘れるなよ」と念押しするように言うと、和也を追い抜かして去って行った。

 その姿が人混みに紛れていく。和也の心が落ち着いたのは、鉄輪の姿が完全に見えなくなった頃だった。




***




 大阪駅で鉄輪と会ってから三日後。最後の訓練が行われる今日の天候は、関西全域で雨。当然、京都駅の存在する下京区も例外ではない。大粒の雨が鼠色の空から降り注ぎ、普段よりも冷え切った空気が駅構内に流れ込んでいる。

 和也は季節を一つ先取りした紺色のダッフルコート姿で京都駅を訪れていた。スーツケースを引く音や多種多様な言語を耳に入れながら、すっかり慣れた道のりを歩く。


 更衣室に入り、一時的に借りているロッカーから制服を取り出した。京都駅の裏側へと合法的に立ち入れるのも今日で最後かと思うと、妙な寂しさがある。


 制服を身に纒った姿で冷気の充満している地下通路へと降り立った。地下の訓練所へと向かう間にも、今までの過酷な訓練の記憶が思い出される。罵倒されたり突き落とされたりと散々ではあったが、無事に飛行能力を獲得することができた。


 腹が立つことは多々あったが、今になって考えると良い師匠だった思う。和也はお礼に何か贈り物をしようと考えていたのだが、品物を思いつけないままこの日を迎えてしまっていた。

 無難にお菓子でも思ったが、鉄輪は筋トレを趣味にしている男。余計な糖分を避けている可能性がある。次に候補として上がったのは煙草だが、こちらは銘柄が分からなかった。あの強烈で独特な臭いを発する煙草は一体何というのだろう。


 鉄輪への贈り物として何が最適なのかを改めて考えながら歩いていると、いつしか訓練所の扉の前へ辿り着いていた。

 冷たいドアノブを掴んで重い扉を押し開ける。錆びついた蝶番が擦れ、地下空間に金属音が響き渡った。

 耳が痛くなる不快な音に顔を顰めながら訓練所内へ足を踏み入れる。すると、入り口付近に腰を下ろして待っていた鉄輪が和也の入室に気付いて顔を上げた。


 「来たな」


 そう呟きながら立ち上がると、和也の正面に歩み寄る。腰の右側には既にフライ旗が収納されていた。

 

「さて。話していた通り、今日が最後の訓練日なわけだが……」


 鉄輪は腰に両手を当て、どこか懐かしむような表情で和也を見つめる。


「正直言って、最後まで続くとは思っていなかった。途中で逃げ出すんじゃないかってな」


 どうやら、この男は最後まで余計な一言が止まらないらしい。だが、その口元は僅かに弧を描いており、過酷な訓練を乗り越えた弟子に対する確かな喜びが透けて見えていた。


「意地でも力を使いこなしたかったですから」


 和也が本心のままに答えると、鉄輪は「なるほどな」と口元に笑みを湛えたまま言葉を返した。


「じゃあ、その意地で飛行能力も完全にして帰ってくれ」


 鉄輪は言い終わると同時に腰のフライ旗を引き抜く。現れた真っ赤な刀身に訓練所の照明が反射し、輝きを放った。

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