第68話 腐食

 明るい日差しが窓から差し込む正午。椿は、自分以外に誰もいないリビングのソファに座り洋菓子のレシピ本を読んでいた。シュークリームやシフォンケーキなどのレシピが書かれているページを、今日は何を作ろうかと考えながら捲っていく。


 椿がお菓子作りを始めるきっかけになったのは、結界を失い『椿』としてこの家へと来たばかりの頃に読んだレシピ本だ。

 乃々華の母親が生前使っていたというそれを手に取った理由は単純で、背表紙の『お菓子』という単語に惹かれたから。息子から教わったチョコレートなる物も載っているのでは? と本を開いた椿の目に飛び込んできたのは、駅神として結界内で過ごしていた時代には存在すら知らなかった洋菓子の数々だった。

 

 駅と息子達を失い絶望に打ちひしがれていた椿であったが、初めて見る甘い存在とそれを自らの手で生み出せるという喜びを受けて僅かながら光を取り戻した。

 見様見真似ではあったが、駅神の持つ万能感と乃々華からの的確なアドバイスが合わさり、それなりに見栄えの良い物が完成したことを覚えている。

 その時に作ったのは初心者向けのバタークッキーだった。


 ――今日は初心に帰ってクッキーでも焼きましょうか。


 懐かしい思い出に触発された椿は、本のページを焼き菓子のレシピが載っている最初の章まで戻した。数あるクッキーの中から作りたい種類を選ぶ。

 椿としてはやはりチョコレートクッキーが食べたいが、先日チョコレートババロアを作ったばかりだ。幾ら美味しく出来ていてもチョコレートばかりが続くと乃々華はきっと飽きてしまうに違いない。


 椿はページを眺めながら数分間悩んだ末、紅茶クッキーに決めた。茶葉には、香りが強くてお菓子作りと相性が良いアールグレイを使用するのがベストだろう。

 確かパントリーにティーパックが幾つか残っていた筈だ。と、確認のためにソファから立ち上がったその瞬間、激しい目眩と耳鳴りに襲われた。

 瞬時に平衡感覚が狂わされる。立っていることが困難となり、崩れ落ちるように床に両膝をついた。力の抜けた手からレシピ本が滑り落ちる。


 椿は倒れてしまいそうな体を片腕で支えながら、痛みの発生し始めた頭を抑えた。耳鳴りと頭痛が合わさったこの症状に襲われるのは二度目、先月乃々華と大阪駅に出かけた日以来だ。今回は目眩も合わさっており、前回よりも一段と酷い。

 脆いガラスを押し潰すような甲高い音が、頭の奥底で連続して響き渡っている。痛みはじわじわと増していき、無数のガラス片が深く食い込むかのような鋭い痛みが頭全体に広がり始めた。


 椿は余計な刺激を与えないようにゆっくり体を起こすと、その場に座り込んで荒く呼吸した。呼吸をするたびに粘性の高い物体が体の内部を掻き分けながら下へ下へと落ちていく。この感覚にも覚えがあった。

 不快感の塊に意識を向けながら、早く過ぎ去ってくれと祈る。だが、そんな祈りを嘲笑うかのように猛烈な吐き気が襲ってきた。咄嗟に両手で口を押さえて堪えたものの、を持たない神が一体何を吐き出すというのだろうか。

 そのような疑問を呈してみるも、肝心の吐き気は一向に治らない。


 鳴り止まない耳鳴りに纏わりつくような粘着質の音が混じり始めた。まるで、何十年も堆積してきた大量の汚泥を掻き混ぜているような音。

 苦痛でしかないその音に苛まれること数分。ふと、懐かしい声が反響を伴って耳に届いた。


「駅神様!」


 ――ああ、この声は息子の……!


 ぼんやりとだが人影が見えた気がして、椿は虚空に向かって手を伸ばした。愛しい息子の名前を呼ぼうとしたが、何故だか上手く記憶が探れない。息子の名前が思い出せなかった。


 ――息子の声だ……間違いない! 大切な……私にチョコレートを教えてくれた……!


 視界が徐々に白け始め、やがて意識が飛んだ。




***




「椿さん!」


 肩を叩かれ、名を呼ばれた。椿は手放していた意識を手繰り寄せて重い瞼を開く。

 視界に映るのは、紺色のスカートに覆われた膝立ちの両足。


「大丈夫?」


 心配そうに問いかけてくる声には覚えがあった。もう帰宅する時間になったのか! と驚きながら椿は慌てて体を起こす。相手は突然椿が動き出したことに驚き、「きゃ」と小さく悲鳴を上げて尻餅をついた。


「すみません。驚かせてしまいました」


 椿は謝罪の言葉を口にしながら、尻餅をついたままの相手――乃々華に手を差し伸べる。乃々華はその手を掴んで立ち上がると、柔らかい笑顔で「ただいま」と告げた。

 爽やかな夏服の期間はとうに過ぎ去り、乃々華は紺色のセーラー服姿。夏服同様にスカーフは無く、両襟と胸当て、胸ポケットに白色の3本線が入っている。清楚で落ち着きのあるデザインが乃々華によく似合っていた。


「お帰りなさい、乃々華さん」


「どうしたの? こんなところで寝てしまって」


 乃々華から怪訝そうな視線を向けられ、椿は答えに詰まった。本当のことなどを言えるわけがない。乃々華の前では最後までヒトのふりを続けなければならないのだから。


「……ソファで寝ていたのですが、いつの間にか落ちてしまっていたようです」


 即興で考えた苦し紛れの言い訳しかできなかったが、乃々華は椿を疑おうとはしなかった。寧ろ心配そうな視線を向けてくる。


「ソファから落ちても気付かないなんて余程疲れているのよ。今日はゆっくりした方がいいわ」


 乃々華に「座って」と促されるまま、椿は真後ろのソファに腰を下ろした。あれ程酷かった目眩や頭痛、吐き気はすっかり消え失せており、体調は安定している。

 この定期的にやってくる不調が何なのか。おおかた予報はついているが、認めたくない気持ちが大きかった。


 恐らく、この体の限界が迫っている。駅を失っても尚存在し続けていた駅神としての力が消滅しつつあるのだ。

 実際、不調の際に頭の中で響き渡る音は結界が割れる音と非常に酷似している。疲労感を感じやすくなり、蠢穢を追い立てることが容易ではなくなっていた。

 更に、駅神が二柱存在することによって抑えられていた蠢穢の成長が再開し、大型であったり凶暴性の強い個体が現れつつある。


 自らは近く本当の死を迎え、大阪駅は以前の状態へと戻る。そんな日が、もはや目前まで迫っているのだ。


「乃々華さんにクッキーを焼いてあげようと思っていたのですが……不覚にも眠ってしまいました」


 椿が「申し訳ないです」と謝ると、乃々華は大きく首を振った。


「謝ることないわ! だって椿さん疲れていたんだもの」


 乃々華は「気にしないで」と優しく微笑むと、料理本を床の上から拾い上げて胸の前に抱えた。この心安らぐ笑顔を見ていられるのも、あとどれくらいだろうか。


 乃々華の心を壊さずにいられる方法を考えるが、そう簡単に答えは出ない。何か手はないか? とより深く思考の海に潜り、やがて後悔の渦に呑まれた。

 どこにも行かないなどと嘘をつかなければよかった。私はいつか消えてしまう。そう一言伝えるだけで幾分かは心の準備ができたはずだというのに。


「そうだわ!」


 乃々華が突如上げたその声によって椿の思考は渦を脱した。だが、後悔は心の奥底で渦を巻き続けている。気を抜けば呑まれてしまいそうな程に激しい。


「今からクッキーを焼きましょうよ。夕ご飯までにはまだ時間があるから」


「今からですか?」


 突然の提案に驚いてそう尋ねたが、乃々華は勿論だと言いたげな表情を崩さない。

 椿は乃々華の性格を熟知しており、一度こうと決めた内容を貫く性格だと知っていた。この考えは揺るがないだろう。


「……分かりました。一緒に作りましょう」


 本当は夕食が入らなくなるからと止めたい気持ちだったが、今は乃々華の希望を叶えてあげたいと思った。微かな罪滅ぼしの意識を持ちながら、椿はご機嫌に台所へ向かう乃々華の後を追った。

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