第67話 使命

 真実を知ったことで発生した心の澱みは、帰宅しても尚晴れなかった。心を締め付けられているかのような圧迫感が未だに続いている。

 和也は玄関で靴を脱ぐと、そのままリビングへ直行した。全身が鉛を括り付けられたように重く、転がってしまった革靴を揃えたり、手を洗ったりする気力もない。


 再び散らかり始めたリビングの奥、閉めきられたカーテンの手前に位置するベッドに向かって歩いた。ベッドは今朝抜け出した時と変わらずシーツと布団が乱れたまま。

 和也は右手に持っていたビニール袋を力なくベッドの足元に落とすと、柔らかい羽毛布団の上に崩れるようにして倒れ込んだ。急激な過重を受け、スプリングが僅かに軋む。


 和也の脳内では、駅神から投げかけられた言葉や明かされた真実の数々が暴れ回っていた。夢ではないのかと考えてみるが、時折込み上げる吐き気と頭痛が現実であることを主張してくる。


 今までの人生は、自ら道を切り開いてきた結果のものだと思っていた。先の見えない深い藪の中を一歩、また一歩と前に進むように。

 しかし藪に隠れたその足元には、神の手によって敷かれたレールが横たわっていた。あの日の邂逅を境に現れたであろうそれに気付くことなく、今日こんにちまでレールの上を辿るように歩いてきたのだろう。

 

 そこに果たして自らの意思はあったのだろうか。日々の小さな決断や、人生の節目の大きな決断も、全てが誘導され選ばされたものに思えてならなかった。

 東京駅での邂逅もきっかけは母の手を振り切って動輪に向け走り出したことだが、本当に自分は動輪に惹かれて走ったのだろうか? あの瞬間から全てが始まっていたのではないか?


 湧き出した疑問は過去のあらゆる出来事に絡みついていく。この人生は、一体誰のものなのか。

 考えれば考える程に頭痛の頻度が増し、胸焼けのような気持ち悪さが全身に広がった。


 考えることをやめようと、大きく息を吐きながら目を閉じる。すると、途端にクレマチスの咲き乱れる結界内が瞼の裏に映し出された。美しいが今は見たくない景色に頭痛が一際大きくなる。和也はシーツを強く握りしめ、低く唸った。

 依代を得た理由を知ろうとするべきではなかったのではないか? そんな後悔の感情が心の奥底で微かに湧き始める。


 心を壊しかねない勢いで暴走する思考を止めるため、和也は自らの荒れた呼吸音以外に何も聞こえない静かな空間でぐったりと目を閉じ続けた。




 あれから何分経過したのだろうか。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 強い空腹感を覚え、和也は未だに重く痛む頭を持ち上げた。枕元のデジタル時計に視線を向けて現在時刻を確認する。表示は十九時三十分丁度。


 通りでお腹が空くわけだと一人でに納得しながら、その場で体を起こす。枕を使わずにうつ伏せで眠っていたせいなのか、首と腰が痛んだ。

 ベッド端に腰掛け、ズキズキと痛む腰をさする。腰痛を抱える三条の気持ちを少しばかり理解出来た気がしたが、本人が知れば『一時的な痛みと慢性的な痛みは違う!』などと怒鳴りつけてくるだろう。


 幸いなことに、その痛みも数分で落ち着き始めた。

 だが、胃袋からの空腹主張は止まらない。今は何かお腹に入れなければ。

 台所に向かうために立ちあがろうと和也が視線を僅かに下げたその瞬間、先程足元に落としたビニール袋の中身と目が合った。


 呼吸が止まり、鳥肌が立つ。心臓が凍りつくような恐ろしさが全身を駆け巡った。

 ビニール袋の中身は長谷川に頼まれていた志麻さんの限定ぬいぐるみ。だが東の神使をモデルに生み出されたその姿は、今の和也にとって結界内の景色同様に見たくない代物であった。


 激しく脈打つ心臓に急かされるようにしてビニール袋を持ち上げると、和也は小走りで玄関へと向かった。下駄箱の上に袋を載せ、逃げるようにリビングへ戻る。

 リビングと廊下を仕切る扉を勢いよく閉めると、その場に座り込んだ。

 荒れた呼吸を整えようと呼吸を繰り返す。心臓はまだ喧しく、鳥肌もおさまってはいない。和也は、自らの両腕を抱き寄せて俯いた。


 駅神との対面を終えた後、和也は長谷川との約束を果たすためにオフィシャルショップへと足を運んでいた。

 長谷川には申し訳ないが、売り切れていてくれと願わずにはいられなかった。売り切れていれば、嘘をつくことなく神使様を模したぬいぐるみを手にすることを避けられる。


 だがそんな願いもむなしく、限定コスチュームの志麻さんは一体だけ陳列棚に残っていた。

 まるで和也を待っていたかのような佇まい。今にもその可愛らしくデフォルメされた布が剥がれ、威厳ある猫の姿がこちらへ向かって来るのではないか。

 そのような恐怖感に苛まれ、和也はそれ以上足を進めることが出来なかった。


 体調を案ずる神田から無理に買わなくてもいいと言われたものの、嘘をつくということだけはしたくなかった。

 仕方なく神田に財布を預けて購入を任せ、和也は受け取った袋の中身を見ないようにして帰路についたのだった。


 明日は休みで、外出する予定もない。玄関に置いておけば大丈夫だろう。洗面所やトイレ、キッチンを使用する際は廊下に出る必要があるが、極力視界に入れないようにすれば良い。

 新幹線の車内で神田から休みをもう一日追加しても構わないと打診されていたのだが、和也は断った。職場に迷惑をかけたくなかったという気持ちは勿論あったが、それより一刻も早く志麻さんのぬいぐるみを手放したかったのだ。




***




「あ! その袋!」


 出勤した和也が駅務室のタイムカードにSKIPをかざした時、背後から長谷川の声が飛んできた。振り返った先に見えたのは、期待のこもった目をした長谷川。泊まり勤務に伴う寝不足での疲れが身じみ出てはいたが、どこかイキイキして見えるのはそのせいだろうか。


「……志麻さんのぬいぐるみ、ありましたよ。最後の一つです」


 そう言って、和也は長谷川にビニール袋を差し出す。

 志麻さんという名称を口にすることに対して抵抗があり声を出すのが遅れたが、今の長谷川の意識は全て志麻さんに注がれており不思議に思われることはなかった。

 長谷川は手渡されたビニール袋の入り口を広げると、そこ中身を食い入るように見つめ始めた。「わあ!」や「最高!」などといった独り言が立て続けに口から飛び出す。

 やがて顔を上げると、満面の笑みで和也に感謝を告げた。


「ありがとう! 井上くん!」


「喜んでいただけて良かったです」


 長谷川のこれ以上ない程に幸せそうな表情と志麻さんが手元から離れていった安堵感とが合わさり、和也の肩からどっと力が抜けた。

 休憩中だった女性社員達が長谷川の元へと集まり始める。長谷川は彼女達に見せるためなのか、袋からぬいぐるみを取り出して胸に抱いた。官帽と制服を着用し、どこか誇らしげな様子の志麻さんの姿に背筋が寒くなる。


 そんな和也の心とは反対に、女性陣の口からは「良かったね」や「可愛い」といった言葉が発せられていた。


 ――僕は、志麻さんを二度と可愛いとは思えないかもしれない。


 駅神の命を受け、自らを監視していた存在。姿を認識出来なかった時期であったが故にどこで何を見られていたのか分からず、不気味さが底無しに広がっていく。

 消えたはずの吐き気がぶり返しそうになる気配を感じ、和也は考えることを止めた。

 これから仕事が始まる。誘導されていたという真実知ったところで職業が変わるわけではないのだから。




 駅務室を出て更衣室に向かい、制服に着替える。そして、いつものように通勤バッグから取り出したお守り袋を胸ポケットに仕舞い込んだ。

 制服の乱れを確認するため姿見の前に立つ。鉄道員へと変身を遂げた自らの姿に、自然とやる気が漲った。


 この心は鉄道員を続けたがっている。それが本心なのかは定かでないが、そんなことは最早どうでもよかった。

 もう、このレールから外れることはできない。それならば、この身に課せられた使命を全うするまでだ。

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