第66話 クレマチスの動輪
「遠いところからようこそ」
駅神が、三人分のティーカップに紅茶を注いでいく。漂ってくる香りは記憶にある青林檎ではなく、甘く優しい金木犀の香りだった。
「秋めいてきた今の季節にはぴったりだろう?」
そう言いながら、駅神は和也の正面にティーカップの乗ったソーサーを置いた。大阪駅と然程変わらない琥珀色をした水面に、緊張で雁字搦めとなっている和也の顔が映る。
右手でティーカップをそっと持ち上げると、手の微かな震えによって水面に幾つもの波紋が描かれた。
紅茶を口にするタイミングが計れず固まっている間にも、二つ目のカップが神田の正面に置かれる。
「君が神田京介の子だね? 父親の噂はよく聞いていたよ」
「父のことをご存知なのですか?」
神田がティーカップに伸ばしかけていた手を止め、驚いた様子で問いかける。
「勿論。神使が色々な土産話を持ち帰ってくれるからね」
駅神はそう言って、テーブルの上で寝そべる神使の頭を撫で回すように触った。
満更でもない様子で喉を鳴らしながら身を委ねるその姿は、和也達を誘導した神使と同存在とは思えない。
「彼は類い稀なる才能を持っていた」
駅神は呟きながら宙に視線を送ると、小さく嘆息した。憂いを含んだ両目が微かに細められる。
「実に、惜しい男を亡くしたよ」
「……そう思っていただけるだけで、父は幸せです」
神田は俯き加減にそう答えた。その横顔は深い悲しみと喪失感に満ちており、表情は苦痛を伴う絶望感によって歪められている。
それが神田の限界に近い精神状態の現れなのだと、和也は直ぐに理解した。このまま父親の話が続けられれば、神田の心は大きく抉られてしまいかねない。
少しでも早く会話の内容を逸らさなければと、和也は代替案を考えるよりも先に口を開いた。
「あの!」
神田に向けられていた視線が途端に和也に注がれる。
何を話すべきだろうか。と考えるが、駅神をはじめとした多くの視線に射抜かれていては、上手く思考も回らない。
思わず視線を落とした和也の目に映ったのは、差し出されたばかりの紅茶。
「あの……以前はカミツレ茶をご馳走になりましたが、駅神様は沢山の茶葉をお持ちなんですか?」
「そうだね」
駅神が止まっていた手を再び動かし、三つ目のティーカップを相楽の正面に置いた。そして、自らのティーカップを口元付近にまで持ち上げる。
「私は駅神の総本山だ。全ての駅の茶葉がここには揃っているよ」
駅神は誇らしげに告げた後、紅茶に口をつけた。その満足気な表情につられ、和也もティーカップを口元へ運ぶ。
華やかなキンモクセイの香りに包まれながら口にした紅茶は、紅茶らしい渋みを感じるものの、鼻を抜ける香りが華やかで癖の少ない味わいだった。
このキンモクセイの紅茶も、どこかの駅神が常に子供達へ提供しているのだろう。見知らぬ誰かにとっての父の味を一口、二口と堪能していると、駅神が「さて」と口を開いた。
「わざわざ私の元へ来たのには理由があるのだろう? それを聞こうじゃないか」
和也の心臓が小さく跳ねる。
ついに疑問をぶつける時がやってきた。落ち着きを取り戻していた心に波が立ち、ティーカップを持つ右手に再び微かな震えが現れる。
それを抑えるために、空いていた左手をそっとティーカップに添えた。音を立てないよう静かにソーサーへと下ろす。
耳元では心臓の鼓動音が喧しく響き渡り、ティーカップから離した掌にはうっすらと汗が滲んでいた。
緊張から急激に喉の渇きを感じたが、もう一度ティーカップを持ち上げる気にはなれない。
――聞かなければ……!
渇いた喉に唾を押し流すと、和也は駅神の両目を見据えた。目尻に細かい皺が目立つ、ヒトと変わらぬ茶色の瞳。
だが、溢れ出る神々しさは隠しきれていない。それはオーラのような形容し難い何かで、和也はそれに呑まれまいと小さく息を吸った。
そして、その息を吐き出す勢いに乗せて言葉を放つ。京都駅で聞いたその時から心に纏わりつき、常に頭の片隅に存在していた仮説。
「駅神様は、依代の力を用いて強力な鉄道員を生み出そうとお考えなのですか?」
漸く問うことができた。既に激しく打ち鳴らされている動悸が更に高まる。熱い血液が全身を駆け巡る感覚を覚えながら、和也は駅神の答えを待った。
「……誰かから聞いたのかね?」
駅神がティーカップをソーサーに戻し、僅かに首を傾げながら問いかけを返してくる。
「京都駅の駅神様からです。仮説と仰っておられましたが」
「そうか」
一言そう呟くと、駅神は目を伏せて押し黙った。それは予期せぬ内容を問われた驚きからか、要らぬ疑いをかけられた悲しみからか。それとも――
秘められた心の内を和也が読み取るよりも早く、駅神が顔を上げる。
その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
「やはり京都駅は頭が良い。その通りだ」
全身に寒気が走った。
その仮説は間違っている。そう言って笑う駅神を想像していた和也だったが、それは脆くも崩れ去った。
駅神の浮かべる表情は笑顔ではあるものの、和也の思い描いていたものとは正反対な不敵さ。よく分かったなとでも言いたげな顔から視線が外せない。
「強い鉄道員を生み出すにはどうすればいいか……私なりに色々と考えてね。試しに実行してみようと思ったまでだ」
駅神は紅茶の注がれているカップを持ち上げると、沸き立つ香りを堪能しながら言葉を紡いだ。
「小さな子供を選んだのは将来の展望を詳細に描いてはいないからだ。誘導がしやすい」
「何故……私を選んだのですか?」
和也はそう問いかけた。その声は震え裏返っていたが、恥ずかしさを覚える余裕などまるでない。
しかし、駅神がそれを気に留める様子はなかった。紅茶で喉を潤した後、問いかけに答える。
「君が、依代を摘めた初めての子供だったからだ」
「初めての子供?」
「依代には私の力が溢れている。しかしそれは、一般人にとって恐怖の対象でしかないようでね」
駅神はティーカップをソーサーに下ろすと、当時の苦労を思い出したかのように息をつきながら、ガゼボに咲き乱れる依代を見上げた。
「触れることは愚か、見ようともしない。怖いと泣き叫ぶ女児もいたよ」
どうやら、駅神はかなりの人数を結界内に引き入れているようだった。子供達が依代を摘むことができるか試し、できなければ記憶に鍵をかけて解放したのだろう。
その子供達は、封じられた記憶の存在を知らずに今も暮らしているのだろうか。
「何度も失敗を重ねて、この作戦では駄目か。と思い始めた時に君が現れた」
駅神は和也と視線を合わせると、優し気な笑みを浮かべた。本来ならば心落ち着く総本山の微笑みなのだろうが、今は只々恐ろしさ以外の感情を持つことができない。
「依代を不気味だと言ってはいたが、好奇心が勝っており摘み取ってまでみせた。その時、君しかいないと確信したよ」
「それで、私を……」
喉の渇きが強く、上手く声が出なかった。膝上の右手を動かそうとするが、自分の手ではなくなってしまったかのように力が入らない。
心臓は激しく波打つままで、どこか息苦しかった。
「たが安堵したわけではない。君が鉄道員にならなければ意味がないからね。特に鉄道と縁遠い君は、強烈な印象を覚えなければ興味を持たないだろう」
強烈な印象。その言葉を受け、和也の脳裏に幼少期の記憶が蘇る。
肌を差す冷風、屈む駅員、浮き上がる傘、感じた強い興奮――
「篠山口駅で私に念力を見せるよう、駅員に指示したのですか?」
「そうだね。神使を派遣して、君が一人で電車に乗る機会が訪れるか探ってもらった。正直、乗らずに終わってしまうのではないか? と冷や冷やしたが……」
「神使を派遣……!」
まさか、依代を貰ったその時から神使につけられていたというのか? 共に新幹線に乗り、在来線に乗り換え、間違いなく家にも上がり込んでいる。
ずっと見られていたのかという言い知れぬ恐怖感が十五年越しにやってきた。覚醒前の自分が、神使の追尾に気付ける訳もない。
ガーデンテーブルに寝そべる神使は和也の心境など知る由もないようで、目を細めリラックスした様子で背中の毛繕いに勤しんでいた。
派遣された当時も、その調子で過ごしていたのだろうか。食卓テーブルの上で、居間の隅で、寝室の布団脇で。
一体、どれだけの時間を神使に見張られて過ごしたのか想像もつかなかった。東京駅の訪問以降、身の回りで奇妙な現象が発生しなかったかを思い出そうと試みるが、記憶にあるのは篠山口駅での一件のみ。
神使は存在を悟られないよう立ち回り、超能力を見せるという任務を全うした後は駅神の元へ戻ったのだろう。
だが、そのような回りくどい方法など取らずに東京駅での記憶を残しておけばよかったのでは? と和也の頭に疑問が湧き出す。実際、篠山口駅での出来事を和也は一度忘れており、鉄道員としての人生を歩まなかった可能性も大いに考えられた。
鉄道員に対して興味を持たせたいのならば、何故一番強烈な記憶である駅神との出会いを忘れさせたのか。
賭けに近い方法に出た理由を問うと、駅神は「記憶を封印するか否かは迷ったよ」と前置きしてから回答した。
「確かに、鉄道と縁遠い君を我々の元に引き込むには私との記憶を持たせておくのが最も効率が良いだろう」
駅神は言いながら、ガーデンテーブルの上で両手を軽く組んだ。
「だが万が一君が我々の元へ来なかったら、私との記憶を持った一般人が外を歩き回ることになってしまう。それは少々許容し難くてね」
駅神がそのように話す横で、神使が体を起こして大きく伸びをした。尻尾を揺らしながら姿勢を戻す最中も、金色の眼球は和也を捉え続けていた。
「しかし、君は私との記憶を封じられていても我々の元へやって来てくれた。やはり、私のやり方は間違っていなかったのだな」
駅神が「良かった」と呟きながら安堵した様子を見せる。その表情からは、人一人の人生を捻じ曲げたという自覚がまるで感じられなかった。
それどころか、正しい道に誘導してやったのだ! と誇らしげに思っているようにすら見受けられる。
「何も知らない小さな子供の身を蠢穢との戦いに投じさせることが間違っていないと?」
口を閉ざしていた神田が力強い口調で駅神に詰め寄った。だが、駅神は冷静さを崩すことなく淡々とした口調で言葉を返す。
「そのことに関しては申し訳ないと思っているよ。只、決して将来の強制などしていない」
駅神が「そうだろう?」と、和也に視線を戻しながら尋ねる。反論の余地はなかった。超能力の目撃は駅員を目指したきっかけに過ぎず、誰かから命令されたわけではない。
実際、鉄道員以外の道に進むチャンスは用意されていた。その道を選ばなかったのは、他でもない自分自身だ。
「近年、鉄道員の数は減少する一方だ。産まれた我が子に継がせない者も多く、個々の戦闘力までもが著しく低下している」
駅神は、和也を見つめていた視線を手元に落とした。組んだ両手に力を込めながら言葉を続ける。
「だが、蠢穢の数や凶暴性は以前よりも確実に増している。このままでは、いずれ手に負えなくなる日が来るのだ」
声を荒げることこそないものの、駅神の放つ言葉には確かな熱が籠っていた。それは、この問題に対する焦燥の現れか。
「子供達はこの危機感を感じ取ってはいない。いや、感じている子も少なからず居るが、私が直接動くまでのことではないと思っている」
駅神は手を組み直すと、湧き上がる感情を押さえつけるように大きく息を吐いた。
「それでは駄目なのだ。鉄道員の父たる私が……全ての駅神の総本山たる私が、率先して動かなくてどうする。このままでは、何も変わらないのだ!」
駅神が手元に落としていた視線を上げる。その両目から滲む強い覚悟が、和也の喉を出かかっていた言葉を押し戻した。
他にも何か方法があるのではないのか――そのようなことは最早聞けなかった。
「これは喫緊の課題だ。先送りなど出来ぬ」
神使が倒していた体をゆっくりと起こしながら言った。ティーカップを器用に避けながら歩き、ガーデンテーブルの中央で立ち止まる。
鋭い眼力が放つ覚悟は、駅神とよく似ていた。
「鉄道員という存在は、駅の安全を支えながら未来へと運ぶ動輪。決して揺らいではならぬ安全の
神使の低い声が静かな結界内に響く。
「このまま鉄道員という動輪の数が減り続ければ脱線は免れない。力が落ちれば動輪の回転は止まり、守り続けてきた安全を未来へ繋ぐことも出来ない。駅――そしてこの国の安全は守られない!」
神使が語気を強めた。尻尾が大きく膨らみ、背中の毛が逆立つ。
「我々には必要なのだ! 駅神様の依代を持ち、強大な力を有した『クレマチスの動輪』が!」
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