第63話 のぞみ226号

 先に大きな予定が控えていると、不思議と時の流れが早くなる。特に、その予定に対して不安感を持っていると尚更だ。


 泊まり勤務を終えて更衣室へと戻って来た和也は、ロッカーを開けて扉の内側に磁石で貼り付けてあるカレンダーへと視線を向けた。

 今日は二十二日。東京駅へ向かう二十四日は明後日にまで迫っている。

 心の準備がまだ完全にはできていないが、幸いにも明日は休みだ。神田が気を利かせてくれたのか偶然なのかは定かでないが、有り難く使わせていただこう。


 乗車する新幹線の切符は、昨日の朝に仕事明けを迎えた神田から手渡された。十二時五十三分発の、のぞみ226号。

 駅で貰える見慣れたチケットホルダーに入ったそれを、忘れないようにリュックへ仕舞った。

 ロッカーに鍵を掛けて更衣室を出る。平日の昼間とあって、駅構内に人は疎だ。職務乗車証で改札を抜け、環状線ホームへと歩き始めた時、唐突に「井上くん!」と名前を呼ばれた。


 振り返った先にいたのは長谷川だった。制服姿で息を切らせながら和也の元へと駆けて来る。


「お疲れ様です。どうされたんですか?」


「井上くん、東京駅に行くんでしょう? 少し頼みたいことがあるんだけど……」


 長谷川は乱れている呼吸を整えながらそう話すと、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。数秒の操作の後、画面を和也に向けて差し出す。

 映し出されていたのは、NR関東のマスコットキャラクター『志麻さん』のぬいぐるみだった。駅員の制帽と制服を着用した姿が可愛らしい。


「この志麻さんのぬいぐるみが、明後日に東京駅のオフィシャルショップ限定で再販されるみたいなの! ついさっき情報が入って」


「つまり、そのぬいぐるみの購入を僕にお願いしたい……ということですか?」


 和也の問いかけに長谷川は、「その通り」と言いながら両手を顔の前で合わせた。

 詳しく話を聞くと、どうやら長谷川は志麻さんのファンらしい。予定が合わずに購入できなかった商品が再販売されるとあって、今度こそ手に入れたいとのことだった。


「私は今日から二徹だから再販当日には行けないし……お願いできるかな?」


「それは構いませんが、寄るのは帰りになると思うので売り切れているかもしれませんよ」


 和也がそのように話すと、長谷川は「その時は諦める」と少し切なげに笑った。


 「よろしくね!」と手を振りながらながら駅務室へ駆け足で戻る長谷川を見送り、和也は改めて環状線ホームへ足を進めた。通勤時の混雑が嘘のように静かなホームに立ち、内回り列車を待つ。


 ――東京駅では向こうの神使様にも会うのだろうか?


 長谷川から志麻さんの話をされたことで、NR関東側の神使を思い出した。志麻さんが三毛猫のキャラクターであることから、きっと神使は三毛猫の姿なのだろう。

 では性格はどうだろうか? こちらの神使のように乱暴でなければ良いのだが。


 まだ見ぬ神の使いについて和也が想いを巡らせていると、内回り列車が遅れなくホームへ滑り込んで来た。




***




 当日、和也は大きな緊張を抱えながら新大阪駅で列車を降りた。東京駅の駅神に会うことは勿論、上司と二人で新幹線に乗るという行為に対しても緊張しており、朝から動悸が止まらない。

 服装は通勤時と変わらないスーツ姿に、これも通勤時と同じビジネスバッグ。唯一異なっているのは、バッグの中に泊まり勤務用の着替えが入っていないことくらいだろう。


 ホームからエスカレーターで三階コンコースへと上がる。待ち合わせ場所に指定されているのは、新幹線への乗り換え改札前だ。


 新大阪駅三階のコンコースには、少し変わった点がある。それは、自動車の展示がされていることだ。NR関西管轄の在来線側には大阪に本社がある自動車メーカーのクルマが、NR中日本管轄の新幹線側には静岡に本社がある自動車メーカーの車がそれぞれ展示されている。

 展示の開始は新幹線側の方が早く、一九八七年。在来線側は二〇〇四年だ。


 何かのイベントの一環として期間限定で車を展示することはあるだろうが、年中展示されている駅はあまりないだろう。和也は最近入れ替わったばかりの新車を横目に見ながら、待ち合わせ場所へと向かった。

 現在時刻は待ち合わせの十五分前。だが、神田は既に到着しており、スーツ姿で文庫本に視線を落としていた。和也の接近に気付く素振りはまるでない。

 焦茶色の革製ブックカバーに包まれた文庫本の内容が気にはなるが、今は挨拶が最優先だ。


「神田さん、おはようございます」


 神田は特に驚く様子もなく視線を向けた。「おはよう」と挨拶を返しながら文庫本にカバーと同色の栞紐を挟み、それをビジネスバッグの外ポケットに仕舞う。


「緊張してるのか?」


「えっ」


 突然自身の心情を当てられ、和也は小さく声を漏らした。神田の勘が鋭いのか、それとも隠すのが下手すぎたのか。

 和也は恥ずかしさを隠すように俯くと、「その通りです」と答えた。


「どうして分かったんですか?」


「表情がかなり固い。見たら分かるよ」


 神田はそのように言うと小さく微笑み、和也の背中を励ますように軽く叩く。


「今から緊張していたら身がもたないぞ。リラックスしておけ」


「はい。やってみます」


 そう答えたは良いものの、中々に難しい課題だと和也は感じた。東京駅へ行くという予定が頭の中にある限り緊張は続く。しかし、その予定を忘れるわけにもいかない。

 読書という一つの行為に没頭できる文庫本を持ってくれば良かったと和也は後悔した。読みかけのミステリー小説が一冊あったというのに。


 だが、後悔したからといって何かが変わるわけでもない。緊張は相変わらず心に鎖のように絡みついており、呼吸を重苦しくしてくる。和也は鞄から財布を取り出すと、僅かに震える指で切符を抜き出した。

 神田と共に改札を抜ける。天井から釣り下がる発車表示版には、乗車予定の新幹線が表示されていた。発車まで、後十三分。


 スーツケースを転がす音が響く中を目的の二十四番線ホームへ向けて進む。

 エスカレーターに乗って辿り着いたホームには、既に乗車する新幹線が停車していた。

 座席があるのは五号車。現在地は八号車付近だが、車内を移動するのは人が多く時間が掛かる上、迷惑にもなる。ホームを東京方面に三両分進み、座席に近い後方扉から車内に入るのが最適解だ。


 乗車した車内は既に六割程度の座席が度埋まっていた。にも関わらず、続々とスーツ姿のサラリーマンや観光目的だろう私服姿の人々が乗車してくる。平日の昼間とは思えない高い乗車率は、流石日本の大動脈と言ったところだろうか。

 窓際のE席に和也が、通路側D席に神田が座る。荷物は神田が荷棚へ上げてくれたため、手元に残っているのは持参した水筒とスマートフォンのみだ。


 発車時刻の三分程前には、座席の八割程度が埋まった。乗客同士の話し声や荷物を持ち上げる物音などで、乗車時よりも車内の騒がしさが少々増している。

 そんな車内に、車掌による放送が流れた。


《お待たせ致しました。十二時五十三分発、のぞみ226号東京行き、間も無く発車を致します。》


 発車が近い。様々な不安が頭の中を駆け巡り、手のひらに汗が滲んだ。急激な乾きを感じた喉に、水筒の冷たい水を流し込む。

 緊張が少しでも楽にならないだろうか? と深呼吸を繰り返してみるが、効果は得られなかった。


 心臓が口から飛び出そうな勢いで脈動する。その鼓動が大きく響き渡る両耳へと、微かに乙女の祈りのメロディが届いた。ホームドアが閉じられたらしい。いよいよ、東京駅に向けての走行が始まる。


「着くまでに緊張をほぐしておけよ」


 神田の言葉に「はい」と固い表情で返事をした瞬間、新幹線がゆっくりと動き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る