第62話 再戦

 真っ赤な薔薇の依代は、見慣れているせいなのか安心感を覚える。蓮子の花に囲まれた京都駅も美しいが、どうにも落ち着かないのだ。やはりだからだろう。

 和也は白い石畳みを駆け、不規則に跳ね回りながら逃げる蠢穢を始末した。蛙に似た外見的特徴を持つが、口が真上に開いており、濁った両目は完全に飛び出している。潰された蛙のような耳に残る汚い断末魔も相まって、非常にグロテスクだ。


 ハルバードを振り、真紅の刃に付着している体液を払う。石畳に落ちたそれは、間も無く砂と化し消えた。

 上空に視線を移すと、京都駅で散々討伐してきた玉のような蠢穢に混じり、和也の霊を破壊した忌わしい蠢穢が飛んでいるのが見えた。

 大顎を備えたその姿に脳内の記憶が刺激され、当時の激痛が蘇る。あの痛みを再び味わうことがないよう戦闘は慎重に行わなければ。


 助走の際に邪魔となる蠢穢はたった今狩り終えた。他所から移動してくる前にさっさと空中へ繰り出すべきだろう。

 和也はそう判断し、石畳の上を走った。京都駅よりも硬い感触は訓練所の床に近く飛びやすい。

 浮いた体のバランスを素早く取り、体勢を整える。和也の接近に気付いた玉のような蠢穢が蜘蛛の子を散らすように去って行ったが、小さく攻撃的でない蠢穢は後回しでも構わないだろう。


 和也はハルバードを構え、目的の蠢穢と向かい合った。蠢穢は巨大な顎を自慢するかのように突き出し、激しく打ち鳴らしている。


 ――次は負けない!


 覚悟を決めて先手を取った。凶悪な顎で挟み込もうとする蠢穢を躱し、斜め下へと回り込む。柔らかそうな腹部を狙ってハルバードを振り上げるが、そう簡単には命中しない。

 勢い余って後ろ向きに回転しかけた体を立て直し、蠢穢からの反撃を回避した。


 京都駅で用いた技を試みるべきか? と考え、和也は蠢穢から大きく距離を取った。顎を打ち鳴らす威嚇音が背後から迫って来る。恐怖心に争いながら飛行を続け、反転した。

 顎を大きく開いた蠢穢の暴力的な姿がその目に映る。ギロチンのような鋭さは、霊の破壊に特化していると言えるだろう。

 そんな二つの顎の間に和也の頭が入る。それが閉じられる瞬間、全身から力を抜いた。飛行能力が失われ、強く重力に引かれる。


 頭部に接触する寸前の位置で顎が閉じられた。至近距離から聞こえた凶悪な金属音に全身が凍りついたが、霊には傷一つ付いていない。成功だ。

 その事実を自らに言い聞かせ、恐怖から硬直してしまった体を動かす。指先に力を入れてハルバードを握り直すと、再び蠢穢の腹部に向かって振り上げた。

 刃先が腹板の繋目に引っかかる。そのままの勢いで振り切ると、腹板が捲れ上がり内部から大量の体液が吹き出した。同時に蠢穢の金切り声が響く。


 ――やったか?


 間違いなく手応えを感じたが、顔に降りかかった体液のせいで目を開けることが出来ない。一先ず蠢穢から離れようと、耳を劈くような鳴き声から遠ざかるように飛んだ。

 周囲が見えないためにフラフラと安定しない飛行だが、進む方角は合っているらしい。鳴き声がどんどんと小さくなる。

 

 遠くで響くキーキーという鳴き声を聞きながら時間を稼いでいると、鼻筋に細かい砂粒が流れ始めた。生暖かく張り付く様な不快感も薄れていく。

 体液が砂状に変化し始めているのだと気付いた和也は、急いで目元を拭った。


 両目を開き、閉ざしていた外界の情報を取り込む。視界に飛び込んできたのは、真正面から驚異的なスピードで迫り来る二つの大顎。

 あまりにも突然の出来事に悲鳴すら出なかった。霊を守るため、咄嗟に体を捻ってそれを躱す。直撃は免れたが右耳付近に激痛が走った。反射的に抑えた患部に耳の存在は触れず、代わりに触れたのは積み重なった依代。


 ――くそっ!


 和也は心の中で悪態をつく。耳を切断される痛みを感じるのは御免だ。何としても霊が破壊されることだけは回避しなければ。


 ゴキブリに似た外見であることが関係しているかは定かでないが、蠢穢に弱った素ぶりは見られない。寧ろ、腹部を引き裂かれたことが相当頭にきているのか凶暴性が増していた。

 飛行速度も上昇しており、今は逃げるだけで精一杯の状況。執拗に顎を打ち鳴らす仕草からは、いち早く霊を破壊してやりたいという意志を感じる。

 追いつかれるわけにはいかないが、反撃の糸口は掴めそうにない。


 ――どうすればいい……。


 自らの出せる最高速度で飛行しながら、この窮地を切り抜ける方法を探る。何か案はないかと思考に意識が向いた瞬間、体が前のめりに跳ねた。

 ハルバードを握る手に、強く痺れる様な衝撃が加わる。無意識に下げてしまった刃先が地面に触れたことが原因だと気付いたのは、ハルバードから手が離れた時だった。


「うわっ!」


 それ程にまで低空飛行となっている状況では、回避など間に合わない。和也は飛行時そのままの勢いで地面に叩きつけられた。

 全身に鈍痛が走る。しかし霊が残っていることから致命症ではないようだ。


 急いで体を起こし、周囲を見渡す。ハルバードはどの辺りに落下したのだろうか? 自らを狙う蠢穢が上空を飛んでいる状況下で武器を持たずにいるのは危険だ。

 蠢穢が再び襲いに来る前に! と懸命に辺りを捜索するが、赤いフライ旗は同じく赤い依代と同化してしまうのか一向に見つからない。


 焦る和也の耳に金属を打ち鳴らす音が届いた。和也を追い立てるように近付いてくるその音は先程よりも激しく、音の間隔も短くなっている。


 ――時間がない!


 そう焦りを募らせる和也の視界に、依代に隠れるように落ちているフライ旗が映った。武器を取り戻せる安堵感に包まれたのも束の間、駆け寄ろうとした和也の目の前に蠢穢が滑り込む。

 トカゲに似た足にナメクジの様な光沢のある不定形の胴体。人の形に近しい頭部には眼球が無く、何故か口が縦向きについていた。まるで生命の創造に失敗したかの様な外見の蠢穢は、呻き声の様な低い鳴き声を上げながら和也を睨み付けている。

 自身の手に武器が握られていない影響か、蠢穢が普段よりも凶暴な存在に見えた。襲われても反撃ができないという事実に背筋が凍り、両足が震える。


 フライ旗は直ぐそこに落ちている。しかし丸腰でここを突破するのは不可能だ。襲われれば霊は無事では済まない。執拗に噛み砕かれ、乱暴に引きちぎられる――そんな残酷な想像が和也の両足を地面に磷付にした。


 背後から金属音が迫る。そしてトカゲ型の蠢穢も吠えながら向かって来た。光沢のある胴体をくねらせながら縦向きの口を大きく開く。体液なのか唾液なのか、真っ黒い液体が太い糸を引き口内からこぼれ落ちる。


 ――終わった。


「伏せてください」


 唐突な背後からの声に戸惑いながらも、和也は指示に従った。直後、吠えるような断末魔と共に生暖かい体液が全身に降りかかる。

 蠢穢の体の一部なのか、湿り気のある落下音が連続して響いた。


「もう大丈夫ですよ」


 その言葉を受け、和也は体を起こしながら振り返る。赤い光を放つ日本刀が視界に映った。それを武器とする職員は一人しかいない。


「椿さん!」


 和也に名前を呼ばれた椿は、「ご無事でなによりです」と笑顔を見せた。


「間に合って良かったです。お恥ずかしいことに蠢穢に逃げられてしまって」


 椿は苦笑いを浮かべながら普段と変わりない口調で話す。しかし和也は、その内容に僅かながら違和感を覚えた。駅神である椿が蠢穢に逃げられることなどあるのだろうか? と。

 椿はどのような蠢穢も一撃で切り伏せてしまう。今の蠢穢だってそうだ。移動速度も瞬間移動かの如く早く、蠢穢に逃げる隙など存在するのか怪しい程の実力だというのに。


 生じた疑問を椿にぶつけてみたものの、得られた回答は「ええ、まあ……」と随分歯切れの悪いものだった。

 神としての力が弱まっているのではないか? 以前に自らが口にした言葉がふと蘇る。まさか。


「ところで武器を落とされているようですが?」


「ああ! そうでした」


 考えに耽るあまり、大切なことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。和也は砂へと変わりつつある蠢穢を踏みつけて進み、フライ旗を回収する。直ぐに両手で握りしめ、戦闘形態へと変化させた。


 ――これで一安心だ。


 紅い刀身を瞳に映しながら安堵の息をついたその時、不快な金属音が再び鳴り響いた。咄嗟に上空を見つめ、蠢穢の場所を確認する。

 視力が悪いのか、それとも和也を挑発しているのか、蠢穢は少し離れた場所を旋回していた。傷付けられた恨みを吐き出すかのように、執拗に顎を打ち鳴らしている。


「大きいのが一匹いますね」


 椿が蠢穢に視線を向けながら、厄介そうな口調で呟いた。直ぐに日本刀を握る手が動き、足が一歩踏み出される。


「待ってください!」


 和也は、今にも戦闘へ移行しようとする椿の腕を掴んだ。動きを止め、「どうされましたか?」と不思議そうに見つめてくる椿としっかり目を合わせる。


「あの蠢穢は……僕一人の力で倒したいんです」


 和也の宣言に対して椿が驚く様子はなかった。納得するように小さく頷き、日本刀を静かに下ろす。


「構いませんよ。但し安全が第一です。危険と判断した場合は直ぐに戦闘を中断してください」


 和也は椿の言葉に「分かりました」と力強く答えると、旋回しながら地上の様子を伺う蠢穢と向き合った。


 ――今度こそは!


 自らの心に気合いを注入し、右手に持つハルバードを今一度強く握り込む。そして大きく深呼吸をした後に助走をつけた。

 蠢穢から目を離さないよう気を付けながら地面を踏み切り、空中へと舞い上がる。和也の存在に気付いた蠢穢が脇目も振らずに向かって来た。大きく開いた顎に挟まれないよう距離をとって攻撃を躱し、背後に回り込む。


 傷付けた腹部にもう一撃入れることができれば恐らく討伐が可能だろうが、比較的安全に腹部を狙う方法は訓練で獲得した手段しかない。同じ手が二度も通用するだろうか?

 微かな不安はあったが、別の方法を思案している時間はない。とにかく攻めなければ。


 攻撃を外した蠢穢が、速度をそのままに急旋回して戻って来た。鋭さを見せつけるかのように顎を開き、和也の頭を潰してやろうと狙っている。

 避けるタイミングを測りながらその体を引きつけ、そして力を抜いた。

 数センチ頭上で顎が閉まる。生きた心地のしない回避方法だが、今はこれしか手段がない。


 不安はあったが、無事に騙すことができた。後は傷付けた腹部を完璧に破壊するだけで終わる。

 近付く勝利に胸が高鳴る。最後まで気を抜いてはならないと自戒しながら武器を振り上げた。


 ハルバードが空を切る。刃が蠢穢の腹部を掻き切ることはなかった。

 予想外の行動に頭が真っ白になるが、決して何が起こったのか理解できていない訳ではない。蠢穢は直前に高度を上げ、攻撃を躱したのだ。


 同じ手が二度も通用しないことは予想していたが、まさか騙されたフリをするとは。きっと、恐ろしく学習能力が高いのだろう。厄介極まりない。


 蠢穢が煽るように顎を二回打った。高度を下げながら地面に対して垂直の姿勢をとり、和也の顔を覗き込むかのように頭部を近付ける。

 長い触覚が和也の頬に触れた。顎が開く。霊が破壊されることで味わう痛みの数々が脳内を駆け巡り、和也は反射的にハルバードを振るった。


 しかし、その攻撃は大顎によって阻まれた。蠢穢は真紅の刃を強く挟み込んで離そうとしない。これでは攻撃ができず、武器を失ったも同義だ。

 残された手は撤退のみかと諦めかけた時、一つの閃きが脳内で弾ける。


 ――いや、まだ手はある。


 自らの武器は何もハルバードだけではない。倒すことは出来なくても体制を崩すくらいは可能だ。

 蠢穢が頭を激しく振り回し、それによって和也の手がハルバードの柄から離れた。遠心力によって飛ばされたことを利用して、上空へと高く舞い上がる。

 そして蠢穢に向かって急降下し、その背中を右足で強く蹴り付けた。


 駅神の力を纏った一撃を受け、蠢穢が勢い良く落下する。地面に叩きつけられた衝撃で顎の力が緩み、挟んでいたハルバードが離れた。


 ――もらった!


 和也は空中へ投げ出されたハルバードへ向けて直進した。駅神の力を離れてから時間が経過しており、ハルバードがフライ旗の体形に戻り始める。紅い光を仄かに放つその姿が二重にぶれて見えた。


 ――間に合え!


 和也は更に速度を上げ、右腕を限界まで伸ばす。そして、形が薄まりつつあるハルバードの柄の先端を握った。途端にハルバードのぶれがおさまり、光沢のある神々しい色味が取り戻される。


 真下には落下の衝撃で動けない蠢穢、自らの手元には取り戻した武器。この先にあるのは、最早勝利の二文字のみだ。

 和也はハルバードを構え直すと、自らの全体重を乗せて蠢穢の背中に突き立てた。蠢穢の硬い鞘翅がパキパキと音を立ててひび割れる。


「消えろ!」


 和也は大きく吠えながら更に体重をかけた。直後、叫ぶような断末魔が響き渡り、ハルバードが蠢穢の胴体を貫通した。

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