第61話 唐突な優しさ

「大丈夫? 井上くん」


 薬箱を持った長谷川が、和也の顔を覗き込みながら問いかけてきた。殴打された右頬にはまだ少し痛みが残っているものの、殴られた直後よりは酷くない。


「少し痛みますが大丈夫です」


「酷いよね、殴りつけるなんてさ」


 長谷川はそう言いながら和也の正面に置かれた椅子へ腰掛けると、膝の上の薬箱を開けて中身を探り始めた。「湿布、湿布……」と呟きながら頓服薬や消毒液を掻き分ける。


 あの後、互いに加害者となった男女は周囲の乗客に押さえつけられ、駆けつけた警察に引き渡された。これから、じっくりと事情聴取が行われるだろう。少しは頭を冷やしてくれると良いのだが。

 環状線には約二十分もの遅延が発生し、懸念していた入場規制措置も実施された。現在、二階コンコースにまで乗客が溢れている。この混雑の解消には暫く時間が掛かるだろう。


 そして、どうやら環状線ホームで発生していたトラブルは和也の担当した一件だけではなかったらしい。

 車両後部では顔に血糊を塗る本格的な仮装をした乗客が乗車しようとし、前部では痴漢被害が発生。先輩駅員達はそれぞれの対応に追われ、和也の応援に駆けつけることができなかったようだ。


「湿布あったよ。早速貼っちゃうね」


 長谷川が湿布裏の透明フィルムを剥がしながら言う。和也は「お願いします」と返して目を閉じた。ズキズキと痛む受傷箇所に冷たい湿布が貼り付けられ、独特な臭いが鼻をつく。


 ホーム監視という立ちっぱなしの業務故、和也も日頃から湿布のお世話にはなっている。とは言え、顔面に貼るのは初の経験だった。距離が近いせいか普段よりも湿布臭さが強く感じられる。接着面の気持ち悪さも足の比にはならず、長時間耐えられそうにはない。

 できるだけ短時間で剥がしてしまいたい! と顔を顰めながら考えていた最中、突如として顎に鋭い痛みを感じた。


「痛っ!」


「あ、ごめんね」

 

 長谷川が急いで手を引っ込める。その指先には、僅かだが血液が付着していた。


「井上くん、顎を擦り剥いてるよ。絆創膏貼っておくね」


 その指摘を受けるまで傷の存在には一切気が付かなかった。転倒した際にでも擦ったのだろうか?

 視界に映らないその傷口を和也も自らの指で触れてみたが、途端に貫くような痛みが全身を走り思わず歯を食い縛った。


 ――散々な一日だ。


 復帰早々トラブルに巻き込まれ、その上負傷してしまうとは予想外だった。いつかは暴力被害を受けるだろうと覚悟していたが、まさか今日だとは。

 悔しさや腹立たしさ、申し訳なさ等の感情が混ざり合い、大きな溜め息となって口から漏れ出した。


「大体さ、いくら腹がたっても知らない人を殴ろうって発想にはならないよね。普通は」


「まあ、そうですよね」


 和也は長谷川からの言葉に頷きながら、駅で発生する暴力事件の多さについて考えていた。

 普通に暮らしていれば目にしないであろう暴力行為が、駅では高確率で発生する。理由も肩が当たった、睨まれた等とくだらない内容ばかり。

 何故、街中では無視できる行為を許せなくなるのか。それが不思議でならなかった。


「あれ? 絆創膏無いんだけど……」


 長谷川が薬箱を探っていた手を止め、不満そうに言葉を溢す。


「無いなら貼らなくても大丈夫ですよ。そのうち瘡蓋になりますから」


「でも見てるだけで痛々しいし、まだ血も滲んでるから貼っておこうよ」


 そのように勧められ、和也は仕方なく受け入れた。空気に晒していた方が早く治るように思うが、長谷川の気持ちを無下にしないためにも黙っておくべきだろう。

 長谷川は発言後すぐに絆創膏の捜索を再開したが、結局発見には至らなかった。曰く、最後の一枚を使用した誰かが補充作業を怠ったに違いないとのこと。


「もう! いつも言ってるのに!」


 苛立った様子で言葉を吐き出すと、長谷川は少々乱暴に薬箱を閉めた。椅子から立ち上がり、座面に薬箱を乗せる。


「ストック分取って来るから、ここで待っていて。すぐ戻るから」


 そう告げて歩き出そうとした長谷川と和也との間に、一本の腕が差し込まれた。手に持っているのは一枚の絆創膏。


「やるよ」


 差し出していたのは三条だった。あまりにも意外すぎる行動に驚きが隠せない。

 唖然とする和也達とは対照的に、三条の表情は至って真面目だった。無愛想とも捉えられるかもしれないが。


「……あ、ありがとうございます」


 和也は困惑しながらもお礼の言葉を述べた。長谷川が「何か意外だね」と言いながら絆創膏を受け取り、裏側のフィルムを剥がす。

 絆創膏を構える長谷川を、和也は顎を上げて迎え入れた。顎に沿うように横向きに貼り付けられたそれを、和也はそっと指でなぞる。


「はい、お終い」


「ありがとうございます長谷川さん。三条さんも、絆創膏助かりました」


 和也は、正面に座る長谷川へ頭を下げた後、変わらず無愛想な表情で立つ三条にも顔を向けて一礼した。

 三条は返事をせず、無言で上着の内ポケットを探っている。直後、「持ってろ」の一言と共に手が差し出された。


 三条が手にしていたのは、紙製の小さな差し込み式台紙。白色で、蓋部分に駅ナカ薬局のロゴがプリントされている。

 和也が不思議そうに眺めていると、三条が「絆創膏の残り」と教えてくれた。先程の絆創膏はここから取り出したらしい。


「今日は暫く荒れてるぞ」


 つまり、再び殴られる可能性があるから持っておけ。ということだろう。気持ちはありがたいが、三条は持たなくて大丈夫なのだろうか? 暴力事件はホームだけでなく改札でも発生している。


「でも――」


「一階の薬局で目薬買ったら貰ったんだ。買ったんじゃない」


 三条はそう早口気味に言うと、半ば和也に押し付けるように渡してその場を立ち去った。

 駅務室の扉が閉められる。直後、長谷川が呆れたように小さく息を吐いた。


「素直じゃないよね。心配だからあげるって言えばいいのに」




***




 時刻は零時を回り、散々な目にあった今日一日の業務も終わりを迎えようとしていた。大阪駅のホームからは列車が姿を消し、とある一本を除いて終電も発車を終えている。

 ラッシュ時の喧騒が嘘のように静まり返っている駅構内の十一番線ホームに和也は立っていた。主に特急列車の発着に使われるホームで、本日最後の仕事場所となる。


 和也の頬に貼られていた湿布は数時間前に役目を終え、残っているのは顎の絆創膏のみ。湿布を剥がせたタイミングで業務に復帰したが、幸いにも二度目の暴力事件は発生しなかった。三条に貰った絆創膏は、使用されないまま上着の内ポケットに収められている。


 零時三十分を過ぎた頃、ホーム端に設置されている待合室の扉が開きゾロゾロと乗客達が姿を現した。大きなスーツケースを引いた乗客や軽装の乗客まで様々で、一眼レフカメラを手にした乗客も複数人見受けられる。


 彼ら彼女らのお目当ては、大阪駅の最終列車であり日本で唯一の定期寝台特急『サンライズ瀬戸・出雲号』だ。香川県の高松駅から瀬戸号が、島根県の出雲市駅から出雲号が発車して岡山で連結。十四両編成となりここ大阪駅へとやって来る。最終目的地は東京駅だ。


 秋風の吹く肌寒い深夜のホームに接近メロディが鳴り響き、自動アナウンスが始まった。


《お待たせ致しました、十一番乗り場に、零時三十四分発、寝台特急、サンライズ瀬戸・出雲号、東京行きが、十四両で参ります。危ないですから――》


 接近メロディに混じって、動輪が線路の繋ぎ目を乗り越えるジョイント音が聞こえる。和也はその音を聞きながら、アナウンス用のマイクを口元に近付けた。


「到着の列車は、寝台特急サンライズ瀬戸・出雲号、東京行きです。前から十四号車、十三号車の順で一番後ろが一号車です。大阪を出ますと、静岡、富士、沼津――」


 ジョイント音が徐々に大きくなり、やがてベージュ色の列車が姿を見せた。上下二段に並んだ特徴的な窓。そこから覗く寝台車特有の設備は、見る者の旅情を誘う。

 列車はブレーキ音を響かせながら、ゆっくりと定位置に停車した。扉が開き、荷物を抱えた乗客達が乗り込んで行く。


 和也は、自身の真横に聳える車体へ視線を向けた。列車の方向幕には『東京』の二文字。あと一カ月も経たずに向かうこととなる始まりの地だ。

 仕事に追われて頭の片隅に追いやられていた東京へ向かうことへの不安や恐れが、その二文字を目にしたことで蘇る。軽い動悸を感じ、和也は方向幕から視線を逸らした。


 逸らした先の窓ガラス越しに、幼い男の子と視線が交差する。未就学児だろうと思われる彼の手には、鹿ちゃんのぬいぐるみが抱かれていた。新幹線の描かれたシャツを着用していることから、もしかすると鉄道が好きなのかもしれない。

 ご機嫌な様子の男の子から手を振られ、和也は笑顔で手を振り返した。これから約七時間もの夜の旅が始まるが、どうかトラブルなく無事に到着して欲しいものだ。


「お客様のご乗車が済み次第発車となります。お乗り遅れなさいませんようご注意ください」


 そうアナウンスをして間も無く、列車は発車時刻を迎えた。和也は左右の安全を確認した後、白色のライトを点灯させた合図灯を頭上に高く掲げた。

 ブレーキの緩解音が鳴り、ベージュの車体がゆっくりと動き始める。徐々にスピードを上げて行き、やがて赤いテールランプが十一番線を駆け抜けた。


 これをもって、大阪駅の全ての列車が運行を終了した。

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