第60話 通達
二日間の休日を挟み、和也は再び大阪駅での勤務に戻った。
季節は十月に入り気温の低下が著しい。日中の日差しはまだまだ暑いが、吹き付ける風は冷たく季節が秋であることを理解させられる。
剥き出しの肌が冷えた風に晒されると、夏の熱波が恋しくなってしまう。酷く苦しめられてきたというのに不思議なものだ。
到着した更衣室で冬制服に袖を通すと、姿見でネクタイと制帽の歪みを直す。両手に嵌める白手袋は、飛行能力を会得したご褒美にと開封したおろしたてだ。眩しい程に白い生地が汚れるのを勿体なく思ってしまうが、使わなければ意味がない。
嵌めた両手に感じる若干の締め付けは、生地の固さによるもので新品の証だ。
――よし、完璧。
鏡に映る鉄道員の制服に一切の乱れはない。自身を鼓舞するように脳内で独り言を呟いた。
汚れの目立ち始めた愛用のスニーカーを下駄箱に仕舞い、仕事用の革靴を履いて更衣室を出る。今の時間は通勤ラッシュ真っ只中であり、コンコースの人波は相変わらずだ。
先を急いでいるのか、他の通勤客の間を走ってすり抜ける者も目に付く。一歩間違えれば激しく衝突し両者共に怪我は免れないだろう。
あのような危険行為に注意をしたい気持ちを持ちつつも、最優先事項である朝礼への出席を行うため和也は駅務室へと足を進めた。
駅務室の扉を開けると、ポツポツと職員達が整列し始めていた。最後尾に並んで朝礼の開始を待つ。
九時になり、腕時計に目を落としていた神田が顔を上げた。
「朝礼始めます」
その声を受け、和也を含めた職員達の背筋が伸びる。駅務室に「おはようございます」と朝の挨拶が響いた。
朝礼の内容は昨日の売り上げ報告から始まり、ヒヤリハット事案、近隣施設で行われるイベント情報の共有と続く。
多くある報告の中でも、UWJでハロウィンイベントが開始されたことは大きいと和也は感じた。経路を尋ねてくる遠方からの乗客が増えることが予想される上、混雑に起因するトラブルも想定されるだろう。気を引き締めなければ。
「以上、今日も安全第一で業務に当たってくれ。朝礼終わり」
神田からの言葉に、職員全員で「はい!」と返事を返す。和也にとって、この返事が仕事開始の合図だった。井上和也という人間が、鉄道員に切り替わる瞬間。
気合いを入れるために制帽を被り直し、いざ仕事へ――
「井上、少し良いか?」
報告を終えた神田から呼び止められ、和也は出入り口へ向かいかけていた足を止めて振り返った。それぞれの持ち場へと散って行く職員達の間を縫って神田が歩み寄って来る。
和也の正面に立った神田は「遅くなって済まない」と一言詫びた後に切り出した。
「東京駅へ行く日が決まった」
心臓が大きく跳ねた。そこから押し出された熱い血液が猛スピードで全身を巡り、体温が急激に高まる。心臓を耳元に近付けられたかのように鼓動がハッキリと聞こえ、それに合わせて体が震えているように感じた。
興奮と緊張で言葉が出ない。神田はそれを理解してなのか、和也の言葉を待たずに次へ進んだ。
「今月の二十四日だ。大丈夫か?」
「……大丈夫です!」
緊張で固まってしまった口を無理やり動かしたため、答えるのが遅れた上に声量も大きくなってしまった。恥ずかしさのあまりに顔面が酷く熱を持つ。
東京駅へ行けることは嬉しいが、やはり不安の面がまだ大きかった。何故自分に依代を与えたのか? 京都駅神の予想は当たっているのか? それぞれの疑問における最悪の回答が頭の中を巡り、いつまで経っても動悸が治らない。
このような精神状態のまま果たして予定日を無事に迎えられるのだろうか。そう懸念する和也の右肩に、そっと神田の手が載せられた。
「そう心配しなくとも俺がついてる。大丈夫だ」
そう話す表情は真剣そのもので、その顔を見ていると心から不安の類が消えていく。自分は一人ではないという心強さを改めて感じた。
「ありがとうございます。少し緊張がほぐれました」
「なら良かった。今日の仕事も頼りにしてるぞ」
神田は手を載せていた右肩を軽く数回叩くと、制帽を片手に駅務室を出て行った。
***
時間は十八時過ぎ。大阪環状線は間も無く退勤ラッシュに差し掛かろうとしている。にも拘らず一、二番線ホームの混雑度合いは既にピーク時のような様相だった。
原因は、UWJで開催されているハロウィンイベントである。それに参加するため、仮装をした乗客が混じっているのだ。
黄色の長袖シャツに青色のオーバーオールを着用し、最近爆発的な人気を誇っているキャラクターに扮した女性グループ。赤色と緑色の世界一有名な兄弟に扮したカップルと、普段からは考えられない程に視界がカラフルだ。
「ユニバーサル•ワンダージャパンへお越しのお客様は、途中西九条駅でゆめ咲線へお乗り換えください」
列車入線時の安全確認をしながら、UWJに向かう乗客への案内放送を行う。今のところトラブルは発生していないが、この混雑率だと時間の問題だろうと思われた。
特に和也が気にしているのはスーツケース。恐らく仮装衣装が入っているのだろうが、この殺人的混雑の中に持ち込むことは賛同し難い。自らトラブルを招いているようなものだ。
仮装した状態で乗車しないという点では良識ある乗客と言えるのだが。
時刻が十九時に突入し、通勤ラッシュがやってきた。黒やグレーといったスーツの人並みに、カラフルな人並みが混じり合う。
その二つは水と油の様に相容れず、衝突の発生に大した時間は必要としなかった。
「おい! ぶつけるな!」
「ぶつけてねーだろ!」
苛立った男性の声が飛ぶ。直後に若い女性の声。和也は、早急に声の聞こえてきた列車の進行方向側へ向けて走る。
トラブル発生箇所はすぐに見つかった。車両入り口でスーツ姿の中年男性と若い女性二人が言い争いとなっている。そんな女性達の手元には鮮やかなオレンジ色のスーツケース。
――とうとう起こったか。
懸念していたトラブルの発生に和也な頭を抱えた。何が起こったのかは聞かなくても分かるが、一応聞き取りは行わなければならない。
「どうされましたか?」
和也の問いかけに、睨み合っていた双方が顔を向ける。
「この女が俺の足にスーツケースをぶつけたんだよ!」
「だから、ぶつけてねーだろ! 言い掛かり付けんな!」
トラブルの内容は想像通り。駅員として取るべき対応は、一先ず二人を下車させること。そうしなければ『お客様対応』という名の遅延を発生させることになる。
「他のお客様へのご迷惑となりますので、お二方は一度お降りになっていただけ――」
「何でだよ! こいつだけ降りればいいだろ!」
男性が、和也の下車を促す声かけを遮って吠える。続いて、その発言に腹を立てた女性側が吠え始めた。
「は? お前が降りろよ! お前が原因だろ!」
女性は、男性に対して「降りろ! 降りろ!」と激しく詰め寄る。非常に喧嘩腰であり、話し合いで解決しようとする気は更々ないらしい。
「ぶつけておいてその態度は何だ! とっとと降りろ!」
ついに激昂したらしい男性が、片方の女性の肩を強く押した。女性はよろめき、ホームに押し出される。
「大丈夫ですか?」
和也が慌てて体を支えるが、女性は驚いたのか呆然とした様子で男性を見つめている。
もう一度降車を促してみようか。そう考えた時、女性が突如として立ち上がった。
「痛いだろ!」
そう叫びながら男性を平手で打つ。乾いた音が響き、周囲のざわめきが一瞬止んだ。
まさかの行動に和也は言葉を失ったが、ただ呆然と見ている訳にはいかない。興奮する女性に「やめてください」と声を掛けるが、少しの効果もないようだった。
「何をするんだ!」
男性が再び女性を突き飛ばす。女性がよろけ、スーツケースがホーム側へ派手に転倒した。
堪らず女性がやり返し、暴力は激しさを増していく。
既に発車時刻を三分過ぎており、ホームには次の列車を待つ乗客が大勢溢れている。このままでは入場規制が実施されかねない。
車内の誰かが遂に痺れを切らしたのか、「二人共降りろ!」と強い口調の声が飛んできた。それに呼応するかのように「降りろ!」「迷惑!」の大合唱。
だが、トラブルの原因となっている二人は、相手が降りれば良いと決して譲らない。
降りてさえくれれば発車できるのに……と和也は唇を噛む。難しいがもう一度下車の説得を試みるしかないだろう。
手を出し合っている二人の間に入り込むようにして喧嘩を止める。
「あの! 先程もお話ししましたが、他のお客様のご迷惑に――」
突如として胸ぐらを掴み上げられ、和也は言葉を止めた。制帽が頭から滑り落ちる。顔を怒りで真っ赤に染めた男性の顔が、目の前に迫った。
「黙ってろ!」
握られた拳が振り上げられるのが視界の端に見えた直後、顔面に鈍痛が走った。
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