第59話 局面打開

 和也は訓練所の床に着地すると、落胆の気持ちからため息をついた。酷く疲れたように感じられ、全身が重い。


 ――勝てたと思ったのに……!


 勝利という栄光は、和也が掴む寸前にその手をすり抜けてしまった。我ながら腕を上げたと感じていたが、これでも鉄輪の実力には届かないらしい。聳え立つ壁の高さを思い知らされる。


「そう落ち込むなよ。悪くない動きだったぜ」


 鉄輪が腰の紐を解きながら声をかけてきた。その声に普段のような悪意は皆無であることから、きっと純粋な褒め言葉なのだろう。


「……ありがとうございます」


「俺は当然騙されないが、鈍臭い蠢穢なら騙せるんじゃないか?」


 鉄輪は少々余計な一言を付け加えながら紙風船を指で引き裂き、くしゃりと潰すように手で丸めた。


「風船は割れなかったが特別に合格だ。期待以上の戦い方だったからな」


 有り難く思えとでも言いたげな態度が気に障るが、合格は合格である。和也は「ありがとうございます」と、心に燻る不満が顔に出ないよう注意を払いながら述べた。


 ――ついに全ての力を使いこなすに至った!


 鉄輪の態度に文句をつけたい気持ちはあるが、やはり戦い方を少なからず認められたという嬉しさがそれを上回る。実戦でより熟練度を上げ、大阪駅のエースとして活躍できる力をつけなければ。


「じゃあ、ゴミ捨ては任せた」


 唐突な鉄輪からの声を受け、喜びに浸っていた和也の意識が現実へと引き戻される。直後、眼前に丸められた紙風船が飛んできた。


「え? ちょっと――」


 慌てて紙風船をキャッチするが、投げた鉄輪に悪びれる様子は全くない。それどころか「ナイスキャッチ!」とふざける始末。


「時間も丁度いいし風呂だ! 井上も後で来いよ」


 鉄輪は和也に背を向けると、そう大きく宣言して訓練所を出て行った。錆びついた扉が奏でる耳障りの悪い音が喧しく響く。

 京都駅での訓練は今回で二度目とあって、和也は鉄輪将臣という男について段々と理解し始めていた。自己肯定感が高く、一言余計。そして――


「人使いが荒すぎる……」




***




 京都駅の結界内は、相変わらずの美しさだった。それだけに、白木の床板を歩く蠢穢がより汚れて見える。

 前回と比べて蠢穢の種類に変化はない。数こそ多いが、見たことのある外見ばかりだ。今、和也の目の前を我が物顔で闊歩している蠢穢も討伐経験のある兎型。胴体と頭部の比率が狂っており、巨大な頭部を床に擦り付けながら歩く姿は実に気味が悪い。


 視線を空中に移すと、大阪駅で見た蠢穢が群れながら飛び回っているのが見えた。初夏によく見られる蚊柱を巨大化させたような光景は、見ているだけで全身がむず痒くなる。


「地上の蠢穢は俺に任せとけ。井上は空中を頼んだ」


 隣に立つ鉄輪が、そう言い残して駆け出した。足音に気付いて振り返った蠢穢の首元を素早くサーベルで串刺しにする。直後、その肥大化した頭部が空中に跳ね上がった。

 和也は、それを合図としたように助走を始めた。板張りの床は訓練所とは踏み心地が違うが、この程度の差なら影響は出ないだろう。蠢穢の胴体を踏み潰しながら進み、落下してきた頭部を足裏で粉砕しながら空中へと繰り出した。


 体が浮き上がり、薄桃色の蓮の花が咲き乱れる光景が眼下に広がる。ハルバードを握る手に力を込めながら体勢を整え、依代とは対極的なきたない存在をその目に映した。

 立ち回り方はわかっている。問題は、訓練通りの力を発揮できるかどうか。


 ――行くぞ!


 蠢穢の群れに頭から突入すると、蠢穢は予想通り散り散りとなった。それらを速度を上げて追いかける。今回は地上へ向けて追い立てる必要がない。とどめを刺すのは和也自身の役割だ。

 振り切られないように高い速度を保ちながら飛行し、早速一匹目を叩き切った。耳をつんざくような断末魔と吹き出す黒々とした体液が不愉快極まりないが、一々反応している暇などない。少なくとも三十匹はいただろうこの蠢穢を、一匹も逃さぬように倒しきらなければならないのだから。


 空中を飛び回りながら二匹目、三匹目と狩っていくが、体が落ちる気配は全くない。極めて順調な滑り出しに自然と気持ちが上を向き、蠢穢の討伐にも力が入る。

 八匹目を切り伏せると、反対方向に逃げた残りの蠢穢を追うために身を翻して旋回した。反対側の方が圧倒的に数が多く、危険を察知した影響からか密集度合いが増し黒い渦と化している。


 もはや一つの巨大な蠢穢にも見えるそれに突入しようとした瞬間、その渦が突如飛散して中心から何かが飛び出して来た。高速で接近して来る赤茶色の物体を咄嗟の判断で回避し、体勢を立て直しながら顔を向ける。

 和也に背を向ける形で浮かんでいたのは人型のように見える蠢穢だった。異様に長く黒い四本の腕に、同じく長い二本の足。歪な凸凹が目立つ枯れ木のような胴体からは、鋭い針のような棘が何本も飛び出している。

 背中側の情報だけで既に不気味な存在だが、振り返ったことで見えた口元は強い力で引き裂かれたように大きく開いており、ノコギリよような歯が隙間なく並んでいた。


 全身にゾクリと寒気が走る。そんな和也の感情の変化を察知したかのように蠢穢が突撃して来た。

 手足を胴体にピタリと付けて飛んで来るその様は、速さも相まって弾丸のよう。その速さに回避行動が追いつかず、左腕が蠢穢と激しく接触した。一瞬ではあるが、耐え難い激痛が走る。


 咄嗟に抑えた前腕部は大きく抉れ、依代である赤い薔薇が大量にこぼれ落ちていた。

 一見血液にも見えるそれは視覚的ダメージが大きく、過ぎ去った痛みが舞い戻りそうになるが、致命傷を受けない限り霊は再生する。事実、依代はすぐさま傷口を覆い隠すように集まり始めた。

 この損傷を肉体が痛みとして受けとった場合、感じる苦痛は相当なものになるだろう。そのような事態を避けるためにも慎重に立ち回らなければ。


 カラカラと硬い木材を打ち鳴らすような音に視線を向けると、その先に赤茶色の蠢穢が見えた。先程よりも早いタイミングで回避行動を取り、高速で迫り来る針だらけの体を躱す。

 攻撃を外した蠢穢は一気にスピードを落とすと、エネルギーを使い果たしたのか空中に停止して項垂れた。負傷した腕に意識が向いていた一度目には気付けなかった行動だ。


 ――今なら攻撃できる!


 和也は蠢穢との距離を素早く詰め、ガラ空きの背中へとハルバードを振り抜いた。だが蠢穢が体を起こして振り向く方が僅かに早く、攻撃は長い四本の腕によって防がれた。金属音が響き、ハルバードを握る手にビリビリと痺れるような衝撃が伝わる。

 刃が通らないことから、蠢穢の腕は攻撃を受け付けない強固な鱗のようなものを纏っていると思われた。胴体と色味が違う手足共に同じ構造だろうか。


 ならば……と和也はハルバードを構え直しながら別の作戦を考えるが、そのような隙は与えないとばかりに蠢穢が長い腕を鞭のようにしならせて襲いかかってきた。直撃を受ける寸前で躱し、大きく距離をとる。

 代わりの作戦に関して大した思考時間は得られなかったが、倒し方の検討はついた。難しいことはない。再び蠢穢の攻撃を誘えば良いだけだ。


 和也はすぐさまその場を離れると、遠くから残された蠢穢の様子を伺った。逃げられたことが腹立たしいのか腕を激しく振り回し、木材を打ち鳴らすような独特の鳴き声で吠えている。

 蠢穢から少し離れた場所では、再びが生成されていた。後回しにしてしまっているが、きちんと処理しなければ成長してしまう。そのためにも早く討伐しなければ。


 蠢穢が和也の視線に気が付いたのか顔を向けてきた。威嚇するかのように二度強く鳴き、振り回していた腕を体に沿わせる。その直後、高速で飛び込んで来た。

 直撃すれば霊の損傷は免れないだろう攻撃だが、タイミングさえ掴めれば脅威ではない。


 攻撃が失敗に終わり項垂れる蠢穢の後を追ってハルバードを振り翳すが、今回も蠢穢の振り向く方が僅かに早かった。だが、作戦は失敗ではない。

 迫り来る四本の腕を寸前まで引き付けると、和也は飛行を止めて重力に身を任せた。浮遊する力を失った体が勢い良く落下し、迫っていた攻撃が和也の頭上を通過する。


 斜め下から相手を見上げるという訓練と同じ状況が出来上がった。違うのは、今の相手が蠢穢であることだけ。

 攻撃に使用する四本の腕はまだ体の前面にあり、すぐには次の攻撃に移れないはずだ。和也の武器を吹き飛ばせるような攻撃方法は有していないだろうこの蠢穢に、ハルバードによる一撃を防ぐ手立てはない。


「僕の勝ちだ!」


 蠢穢の胴体を真紅の刃が両断した。真っ黒な体液が花火のように弾け飛ぶ。普段なら目を背けたくなる光景だが、今の和也には不思議と美しく感じられた。


 飛散した体液が落下途中に砂と化し、薄黒いもやとなって和也の視界を奪う。

 視界が悪い中で討伐を続行するのが非効率であることは、考えずとも分かる。和也はもやが晴れるのを待つため一度地上に降り立った。


 地上から空中を見上げる。まだ蠢穢が残っている筈だが、もやが酷く様子を全く伺えない。時間が掛かるだろうか? と不安が顔を覗かせた時、背後から軽く肩を叩かれた。振り返った先に立っていたのは、どこか満足げな表情をした鉄輪。


「見てたぞ。なかなかに良い動きだった」


「ありがとうございます」


「俺の予想通り、鈍臭い蠢穢を騙すのは簡単だったな」


 鉄輪はそう言って笑うと和也の左上腕部に手を伸ばした。傷口を覆い隠すように張り付いている依代を雑に剥がし落としていく。


「だが、これは危なかった。少しでもずれていたら腕が千切れて霊は無事じゃ済まなかっただろう」


 鉄輪の言う通りだ。奇跡的に難を逃れはしたものの、あの地獄のような苦しみは間近に迫っていた。どのような蠢穢にも対処できるよう、攻撃に対する反応を更に早めなければならない。全ての能力を使えるようになったとは言え、まだまだ発展途上だ。


 鉄輪の手によって最後の依代がはたき落とされる。依代の下から現れた霊は完全に再生しており、傷一つ付いていなかった。分かっていたことではあるが、ほっと安堵の息が漏れる。

 地面に落ちた依代が小さく縮んで消えていき、血溜まりのようだった足元は随分とスッキリした。空中のもやも丁度晴れ、戦闘が再開できるだろう。


「よし、残りも片付けちまおう! 今の井上なら大丈夫だ」


 背中を信頼を込めて叩かれ、和也の中で忽ち自信が漲る。「はい!」と気合の入った返事を返し、二度目の助走を開始した。

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