第58話 紙風船

 和也は訓練所の壁にもたれて座りながら、昼食に食べた親子丼の味を思い返していた。

 半熟に近い卵とそれに絡まる出汁。名古屋コーチンの肉は大きく弾力があり、噛み締めると肉汁がたっぷりと染み出してきた。セットの鶏ガラスープはあっさりとした味付けで、付け合せの梅干しはほんのりと甘かった。


 ――もう一度食べたいな……。


 無機質な天井を見つめながら絶品だった親子丼に思いを馳せていると、扉の開く音がした。軋むような金属音の直後に「休憩は終わりだ」と鉄輪の声。

 もうそれ程の時間が経ったのか。と驚きながら体を起こす。大きく伸びをすると、体に纏わり付いていた怠さが僅かだが取れたような気がした。


 鉄輪から受ける訓練の甲斐もあって、和也の飛行時間は二十分にまで伸びていた。しかも、その二十分という継続時間はまでの時間ではなくまで。

 更に伸ばせたのかもしれないが、和也は長時間にわたる訓練によって脳が疲弊しており鉄輪に休憩を申し出たのだ。能力を使用する際に使うのは、体よりも頭の配分が大きい。

 とは言え、そのように頭が回らない状況においても落下せず飛行を維持できたのは無意識飛行が定着している証拠であり、鉄輪は休憩後に最終テストを実施すると予告していた。


 最終テストでは何が行われるのだろうか? と考えながら、腰に挿していたフライ旗を引き抜く。両手で祈るように持ち武器化を試みると、間も無く真紅のハルバードがその姿を現した。


「いけるのか?」


 鉄輪からの問いかけに、和也はしっかりと頷く。すると鉄輪の口元が微かに緩んだ。


「じゃあ、これから最終テストだ」


 鉄輪はそう宣言した後、ポケットからカラフルな紙のようなものを取り出した。アーモンドのような形状のそれを口元に密着させて息を吹き込む。すると、その紙は円形に膨らみ始め、見覚えのある形となった。


「紙風船だ。懐かしいですね」


 和也も幼い頃に触れたことのある昔ながらのおもちゃだ。生憎、どのようにして遊んでいたのかは記憶にないが、それなりに楽しんでいたように思う。

 だが鉄輪の持つ紙風船は、和也の知るそれとは少し異なっていた。空気穴から長い綿紐が二本垂れ下がっている。


「ルールは簡単。これを割ったら合格だ」


 鉄輪は言いながら、その紐を自らの腰に巻き始めた。紙風船が背中側に位置するようにセットし、解けないようにキツく縛る。


「で、お前は割られたら不合格だ」


 鉄輪は先程と同じポケットから二つ目の紙風船を取り出ると、和也に差し出した。和也はそれを膨らまし、鉄輪と同様に腰に巻き付ける。


「制限時間は設けない。どちらかの風船が割れた時点で終了だ」


 鉄輪からの説明に「分かりました」と返事をしながら、和也はハルバードを構えた。鉄輪も腰からフライ旗を抜き取り、現れたサーベルを静かに構える。

 お互いが相手の動きを待つ無言の時間が流れ始めた。換気装置の駆動音が、集中を妨害するかのように響き渡っている。腹に響く独特な低音を不快に思っていると、鉄輪が一歩踏み出した。同時に、その体の前を赤い残像が走る。


 和也は、寸前まで迫っていたサーベルの刃をハルバードで防いだ。良く反応できたものだと自分を褒めてやりたい程、鉄輪の繰り出す一撃は早かった。

 急いで後方へと飛び退き距離を取る。しかし、鉄輪がその距離を詰めるのに大した時間は掛からなかった。


 機動性に優れたサーベルの連続攻撃が、和也の身に降りかかる。


「おいおい、ずっと地上で戦うつもりか? そんなんじゃ合格なんてできないぜ!」


 確実に勝ちを狙いにきている。そのことが分かる攻撃だった。ハルバードの大きさと高まっている身体能力を活かして何とか全てを防ぐことができたが、防ぐばかりで一切攻撃に転じることができない。このままでは簡単に壁際まで追い詰められてしまい、腰の紙風船を割られてしまうだろう。

 鉄道員の持つ武器は鉄道員同士では効果がない。後ろに回り込むという手順を踏まなくとも、正面から突き刺せば背中の紙風船は割れるのだ。蠢穢の体を貫くように。


 ここは空中に逃げるべきだ! 和也は鉄輪から再び振るわれた一撃を防ぎながら決心した。そのための訓練を今まで積んできたのだから。

 和也はハルバードを握る力を強め、鉄輪から絶え間なく続く一撃を一際強い力で弾き返した。衝撃を受けたことで鉄輪の体制が崩れ、一瞬の隙ができる。それを視認した瞬間、和也は全速力で駆け出した。敵に背を向けるなど言語道断ではあるが、こうする以外に飛行する術はない。

 後ろを振り返る余裕もなく一目散に走り続ける。そして、タイミングを測り床を蹴った。飛び出した体の制御は既に無意識下にある。意識していた頃よりも無駄な動きがなく、飛行への移行がスムーズだ。


 可能な限りの距離を取るべく天井近くまで上昇を続けた和也は、ハルバードを構えながら背後を振り返った。

 だが、その目に映ったのは引き離したと思っていた鉄輪の自信に満ち溢れた顔。至近距離にまで迫っているその姿に和也は思わず悲鳴を上げた。


「遅い!」


 的確に腰を狙ってきたサーベルを咄嗟に避ける。だが、その動作によって和也は大きくバランスを崩してしまった。

 上下感覚を見失い、高度も鉄輪との距離も掴めない。自分がどこに位置しているのかと必死に観察するが、無機質な訓練所は上下左右の判断がつきにくく、地上へ向けて直進していることに気付いたのはコンクリートの床に叩きつけられる直前であった。


 急いで進行方向を切り替え上昇する。制服の裾が一瞬床に触れたのが伝わり背筋が凍りついた。最悪の事態がそこまで迫っていた状況に心拍数が跳ね上がる。回避できたのは奇跡としか言いようがないだろう。


 ――どうにかして反撃に移らなければ。


 和也は焦る気持ちを抑え、状況を冷静に分析した。

 鉄輪の飛行速度は速く、気を抜くとすぐに追いつかれてしまうことは確実だろう。背後を取られているため、サーベルが届く距離にまで接近された時点で負けだ。


 何か手はないかと飛行しながら考えるが、正面から突っ込むという非常にリスキーな方法以外に思い付かない。しかし、ハルバードはサーベルよりも長さがあるため、上手く鉄輪の攻撃範囲外から一撃入れることができれば勝利を掴める可能性も大いにあるだろう。


 ――やるしかないか。


 もっと安全で確実な方法があるのかも知れないが、いつまでも悩んでいては鉄輪に追いつかれてしまう。和也は僅かな勝ち筋に望みを託くことを決め、正面突破の道を採った。鉄輪からの猛攻をどのようにして防ぎ切れるかが鍵だろう。


 チャンスは恐らく一度きりだ。生憎、頭の中でシミュレーションをしている時間はないが仕方がない。

 和也は一時的に速度を上げて鉄輪から距離を稼ぐと、勢い良く体を反転させた。正面に捉えた鉄輪に驚く様子はなく、それどころか笑みを見せている。堂々と戦いにきたことが嬉しくて堪らないのだろう。

 その緩んだ口元を悔しさに歪ませてやりたい。そんな気持ちをほんの少し持ちながら、和也はハルバードを構えて突っ込んだ。


 鉄輪との距離が急速に縮まる。飛行によって視界がぶれ動き一点を注視し辛い状態であったものの、和也は鉄輪のサーベルを持つ手が僅かに動いたのを見逃さなかった。すぐさま飛行を止めて重力に身を委ねる。空中に浮かぶ術を失った体は急速に地上へ向けて落下し始め、鉄輪が勢い良く振るったサーベルは和也の頭上を掠めた。


 ――勝った!


 一か八かの回避に成功した和也は、確信的となった勝利に浮かれそうになる心を必死に抑えながら飛行を再開した。和也のとった想定外の動きに鉄輪の視線は追いついていないようで、斜め下に潜む和也には気付く様子はない。

 そんなガラ空きの体に巻かれた紙風船へ向かって、和也はハルバードを全力で振り抜いた。


 甲高い金属音が響く。和也は何が起こったのかを瞬時に理解できず、その場から動けずにいた。

 数秒の後、スイッチが入ったかのように周囲の状況が見えてくる。手に握っていたはずのハルバードは消滅しており、こちらに気付いていないと思っていた鉄輪はしっかりと視線を向けていた。

 そして、鉄輪の左手は和也の手元に翳されている。


「気付いていないとでも思ったか?」

 

 その言葉の直後、和也の体が強い力で引っ張られた。抵抗する暇も間もなく鉄輪の攻撃範囲内へ引き込まれて行く。


「俺の勝ちだ」


 鉄輪がサーベルを振るう。乾いた破裂音が訓練所内に響き渡った。

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